奇跡の沸かし湯
翌朝。真珠は字の練習に取りかかり、草世は医者の仕事をするべく外に出た。
青空が広がっているが、気温は低い。踏み固められた雪は滑りやすく、草世は転ばないように気をつけながら、丹野風呂屋に向かった。
草世が床支村を訪れたのは、今から半年前。
村人たちは一様に「この村の名物は丹野風呂屋。奇跡の湯なのだ。入っていきなされ」と勧めた。
丹野風呂屋に行ってみると、関東や関西、東北からもわざわざ訪ねて来ている人たちで賑わっていた。
たまたま居合わせた村長に、草世は訊ねた。
「病気が治る温泉だと聞きました。すごいですね。泉質はなんですか?」
村長は顎を反らせて「カカッ!」と、笑った。
「沸かし湯だ。この村に温泉は出ん」
「えっ? じゃあ、病気が治るというのは……?」
「だから奇跡の湯なんじゃ。理屈はわからん。とにかく、病気や怪我が治る。わしの腰痛も、家内の肺病も、娘の傷も治った。そういうわけで、医者いらずの村なんじゃ」
「そうですか。では、僕はいらないですかね?」
失言に気づいた村長は、額をペちっと叩いた。
「いやいや! 先生がこの村に住みたいなら、大歓迎じゃ! 丹野風呂屋は、毎日営業しているわけじゃない! 定休日に具合が悪くなったら、先生の助けが必要じゃ!」
草世は複雑な気持ちになった。床支村の風光明媚な景色が気に入ったし、手頃な空き家を無償で貸してもらえることにもなった。
だが、医者は風呂屋の代替え。
特に必要とされていないのに、住むのはどうなのだろうと、草世は悩んだ。
その悩みを解決したのは、丹野直志の存在が大きい。
直志は風呂屋の跡取り息子で、気のいい青年。二人で酒を酌み交わすうちに、意気投合した。
直志の後押しがあったからこそ、草世は床支村に定住する決意をした。
草世は丹野風呂屋に着くと、二階建てのモダンな建物を見上げた。
「直志。また、一緒に酒が飲みたいよ」
丹野風呂屋は改装前、雨漏りのする黴臭い風呂屋だったらしい。風呂に入りに来る客は村人のみ。
だが三年前に改装し、運が開けた。
村人たちの病気や怪我が治ったことで、奇跡の湯としての噂が広まった。
全国各地から入湯客が訪れるようになった。その客たちは異常なほどに羽振りが良く、大金を落とした。
丹野風呂屋は、この地域一番の金持ちになった。
奇跡の湯として、大繁盛していた丹野風呂屋。
だが突然、影が差した。
一ヶ月ほど前。仕事の最中に、直志が倒れた。
時を同じくして、客足がぴたりと途絶えた。客が一人も来ない。村人たちも風呂に入りに来ない。
村人たちは恐れた顔で──だが本人たちは何に恐れているのかわからず、それでも不穏なものを感じ取った様子で、口を揃えて言った。
「不気味なんだ。行く気がしない」
客が来なくなった、丹野風呂屋。直志の両親は焦った。草世が直志を診察しに来ると毎回、
「湯が沸いていますから、どうか入っていってください」
と、必死な形相で頭を下げる。
直志の両親の力になりたいのに、草世は忙しいと断った。
怖いのだ。
丹野風呂屋の建物の中にいるだけでも、恐怖で身が縮こまる。鳥肌が立つ。不気味な笑い声が聞こえる気がする。何か得体の知れないものの視線を感じる。
風呂に入るためには、裸にならなくてはならない。つまり、無防備。
怯えながら裸になれるほどの胆力を、草世は持ち合わせていない。
直志の様子を見に行く。それが今の草世でできる、精一杯の恩義。
草世は建物に入ろうとして、周囲を見渡した。誰の姿もない。村人たちは、丹野風呂屋を避けている。
「体が重い。まるで何かが乗っているようだ」
建物に入るのを、体も心も拒絶している。憂鬱で仕方がない。できれば、逃げだしたい。
それでも草世は友人のために、玄関のガラス戸を引いた。
ガラガラという音が、響く。
客の靴はなく、上がり口にスリッパもない。照明のついていないロビーは薄暗く、しんと静まり返っている。
従業員は全員辞めている。
草世は雪駄を脱ぐと、風呂屋の奥へと進んだ。床が凍えるほどに冷たく、足裏が氷に触れているかのようだった。




