誉、千の翼
それは、ある意味で奇妙な夏だった。
警報は鳴る。
B-29は来る。
だが、基地に広がる空気は、かつてのそれとは違っていた。
滑走路脇に並ぶ機体は、零戦でも紫電改でもない。
短く、厚みのある主翼。
丸みを抑えた機首。
鈍く黒光りする空冷星形エンジン。
――誉一型乙。
それが、この夏の日本の「顔」だった。
⸻
午前九時四十分。
本土防空指令所に赤いランプが灯る。
「敵編隊、高度九千。数、百以上」
いつもと同じ報告。
だが、次に続く言葉が違った。
「迎撃隊、第一、第二、第三梯団、発進可能」
誰も言葉を挟まない。
言う必要がなかった。
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誉は、重い。
操縦席に座る搭乗員は、零戦から乗り換えた者がほとんどだった。
初めて乗った時、多くが同じ感想を抱いた。
「……動かねえ」
だが、速度が乗ると違う。
滑走路を離れた瞬間、機体は地面に縛られない。
上昇角を取っても、失速の気配はない。
操縦桿に応える舵は重いが、裏切らない。
――これなら、落ちない。
それが、彼らの共通認識だった。
⸻
高度七千。
前方、太陽を背に銀色の列が見える。
「B-29だ……」
だが、編隊の側面に黒い影が混じっている。
「護衛機、P-51!」
無線が一瞬ざわつく。
以前なら、ここで空気が変わった。
迎撃隊は爆撃機を諦め、護衛と距離を取るか、犠牲を覚悟するしかなかった。
だが、この日、命令は短かった。
「第一梯団、護衛を押さえろ。第二、第三、爆撃機に集中」
誉は、加速する。
回転数を上げても、エンジンは唸るだけで悲鳴を上げない。
速度計が六百五十を越える。
P-51が一機、こちらを見つけて旋回してくる。
以前なら、逃げる相手だった。
だが今は違う。
縦に切り返す。
速度が落ちない。
失速しない。
「……行ける」
20mm四門が火を噴く。
一瞬の曳光。
P-51の主翼が砕け、機体が反転する。
初撃だった。
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爆撃機編隊の中で、異変が起きていた。
迎撃は散発ではない。
波状でもない。
――持続している。
一度突っ込んだ日本機が、再び上から降ってくる。
撃って、上がり、また来る。
「日本機が……逃げない?」
B-29の銃座から、信じられない声が漏れる。
誉は、爆撃機に張り付かない。
一撃離脱を繰り返す。
四門の20mmは、爆撃機に対して十分すぎた。
燃料タンクが破れ、エンジンが止まり、編隊から落ちていく。
それが、一機、二機ではない。
⸻
午後。
空襲警報解除。
街は、燃えていなかった。
全てではない。
だが、主要工場は無事だった。
鉄道も、港も、生きている。
基地に戻る誉は、傷だらけだ。
穴の開いた翼。
削れた塗装。
それでも、帰ってきた。
整備兵が言う。
「……また飛べます」
誰も笑わなかった。
だが、全員がそれを当然のように受け止めた。
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その夏、空は完全に守られたわけではない。
損害は出た。
失われた命もある。
だが、空は渡さなかった。
B-29は無傷では通れない。
P-51は好き放題に飛べない。
そして何より――
搭乗員が、生きて戻ってくる。
それが、戦局を変えた。
⸻
後年、ある記録にこう残されている。
1944年、日本は空を制したわけではない。
だが、空を「諦めなかった」唯一の年であった。
誉一型乙、千機。
それは奇跡ではない。
技術でも、根性でもない。
**「無理をしなかった結果」**だった。
空は、最後まで、戦っていた。




