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さまざまな短編集

誉、千の翼

作者: 仲村千夏
掲載日:2026/02/08

 それは、ある意味で奇妙な夏だった。


 警報は鳴る。

 B-29は来る。

 だが、基地に広がる空気は、かつてのそれとは違っていた。


 滑走路脇に並ぶ機体は、零戦でも紫電改でもない。

 短く、厚みのある主翼。

 丸みを抑えた機首。

 鈍く黒光りする空冷星形エンジン。


 ――誉一型乙。


 それが、この夏の日本の「顔」だった。



 午前九時四十分。

 本土防空指令所に赤いランプが灯る。


「敵編隊、高度九千。数、百以上」


 いつもと同じ報告。

 だが、次に続く言葉が違った。


「迎撃隊、第一、第二、第三梯団、発進可能」


 誰も言葉を挟まない。

 言う必要がなかった。



 誉は、重い。


 操縦席に座る搭乗員は、零戦から乗り換えた者がほとんどだった。

 初めて乗った時、多くが同じ感想を抱いた。


「……動かねえ」


 だが、速度が乗ると違う。


 滑走路を離れた瞬間、機体は地面に縛られない。

 上昇角を取っても、失速の気配はない。

 操縦桿に応える舵は重いが、裏切らない。


 ――これなら、落ちない。


 それが、彼らの共通認識だった。



 高度七千。

 前方、太陽を背に銀色の列が見える。


「B-29だ……」


 だが、編隊の側面に黒い影が混じっている。


「護衛機、P-51!」


 無線が一瞬ざわつく。


 以前なら、ここで空気が変わった。

 迎撃隊は爆撃機を諦め、護衛と距離を取るか、犠牲を覚悟するしかなかった。


 だが、この日、命令は短かった。


「第一梯団、護衛を押さえろ。第二、第三、爆撃機に集中」


 誉は、加速する。


 回転数を上げても、エンジンは唸るだけで悲鳴を上げない。

 速度計が六百五十を越える。


 P-51が一機、こちらを見つけて旋回してくる。


 以前なら、逃げる相手だった。


 だが今は違う。


 縦に切り返す。

 速度が落ちない。

 失速しない。


「……行ける」


 20mm四門が火を噴く。

 一瞬の曳光。

 P-51の主翼が砕け、機体が反転する。


 初撃だった。



 爆撃機編隊の中で、異変が起きていた。


 迎撃は散発ではない。

 波状でもない。


 ――持続している。


 一度突っ込んだ日本機が、再び上から降ってくる。

 撃って、上がり、また来る。


「日本機が……逃げない?」


 B-29の銃座から、信じられない声が漏れる。


 誉は、爆撃機に張り付かない。

 一撃離脱を繰り返す。


 四門の20mmは、爆撃機に対して十分すぎた。

 燃料タンクが破れ、エンジンが止まり、編隊から落ちていく。


 それが、一機、二機ではない。



 午後。

 空襲警報解除。


 街は、燃えていなかった。


 全てではない。

 だが、主要工場は無事だった。

 鉄道も、港も、生きている。


 基地に戻る誉は、傷だらけだ。

 穴の開いた翼。

 削れた塗装。


 それでも、帰ってきた。


 整備兵が言う。


「……また飛べます」


 誰も笑わなかった。

 だが、全員がそれを当然のように受け止めた。



 その夏、空は完全に守られたわけではない。


 損害は出た。

 失われた命もある。


 だが、空は渡さなかった。


 B-29は無傷では通れない。

 P-51は好き放題に飛べない。


 そして何より――

 搭乗員が、生きて戻ってくる。


 それが、戦局を変えた。



 後年、ある記録にこう残されている。


1944年、日本は空を制したわけではない。

だが、空を「諦めなかった」唯一の年であった。


 誉一型乙、千機。


 それは奇跡ではない。

 技術でも、根性でもない。


 **「無理をしなかった結果」**だった。


 空は、最後まで、戦っていた。


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