第七話 記憶
天界第6区域/立ち入り禁止区域前――
灰白の霧が、地平のすべてを覆っていた。
風は吹かず、音もなく、ただ時間だけが凍りついたように淀んでいる。
天界のはずなのに、光は鈍く濁り、垂れ落ちる光線は、どれも“静止した稲妻”のように空間に固着していた。
セファルは会議が終わった後、すぐに総本部へ連絡をして、ずっと考え事をしていた。それは彼が、監査士になることを目指すきっかけとなった人のことだった。
「……。」
セファルは目を閉じる。
思い出すのは、あの夜の光景だ。
崩壊しかけた封印陣の中心で、消えゆく体で彼に向かって微笑んだ人物。
【堕天した一族が選ばれしものを
欺く時再び戦乱が起こる】
背後で足音が近づいた。
リヴィアだ。
彼女は防護装具の確認を終え、報告書を片手に立っていた。
「準備、完了しました。……ただ、区域内の位相が不安定です。観測機の読みが定まらない。結界の向こうでは何かがずれているかもしれません。」
セファルは小さく頷く。
彼は結界の境界に歩み寄り、指先で光をなぞった。
淡い音が鳴り、光が裂ける。
リヴィアが息を呑む。
「セファルさん……!」
「行くぞ。」
足を踏み入れた瞬間、世界が音を失った。
灰のような霧が絡みつき、二人の輪郭をゆっくりと溶かしていく。
空と地の境界は曖昧で、どちらが上かもわからない。
ただ、遠くで何かが“脈動している”のだけは感じ取れた。
セファルは一歩ずつ、慎重に進む。
靴底が触れるたびに、大地がわずかに沈み込み、
そこから薄い光が漏れ出してはすぐ消える。
まるで、地そのものが封印陣の一部のようだった。
リヴィアは背後で呼吸を整えながら、計測装置の端末を操作する。
「……座標、揺らいでます。
いえ……位置情報そのものが、入れ替わってる。
この区域、現実の“層”が一つずつ剥がれてるような……」
セファルは黙ったまま、霧の奥を見据える。
灰白の帳の向こう、何かが見ている。
輪郭を持たない視線。
それが、封印を越えてこちらを覗き込んでいる。
「リヴィア。」
「……はい。」
「何があっても、決して中心に近づくな。」
彼女は息を呑み、こくりと頷く。
そのとき――霧が、風もないのに揺れた。
遠くから、低く軋む音が聞こえる。
リヴィアが怯えたように問う。
「……生体反応、ですか?」
「いや。」セファルは首を振る。
「これは――記録だ。過去そのものが、まだこの地に生きている。」
彼の視線が霧の奥を捉えた。
そこに、半ば埋もれた石碑がいくつも並んでいる。
どれも、翼の欠けた天使たちの名を刻んだ“墓標”のようだった。
【堕天した一族が選ばれしものを
欺く時再び戦乱が起こる】
その瞬間、風が吹いた。
……いや、風ではない。
空間そのものが震え、彼らの立つ地面が“呼吸”するように隆起した。
リヴィアが身構える。
「何か、来ます――!」
霧の奥から、白い影が歩み出た。
それは人の形をしていた。
しかし顔はなく、輪郭だけが淡く光を放ち、
その中心――胸部に、監査局の紋章が焼きついていた。
「……監査士、だと?」
セファルの声が低く響く。
影は言葉を発さなかった。
ただ、ゆっくりと手を掲げ、
その指先が虚空に文字を描く。
『門ハ 閉ジ ナイ』
リヴィアの背筋に冷気が走る。
通信端末が再びノイズを吐き、内部に記録されていた過去の音声が勝手に再生された。
――“声がした”
――“門が、開く”
――“見てはいけな――”
音が途切れる。
同時に、《碑》の中心部が、低く唸るような音を発した。
石の羽根がひとつ、剥がれ落ちる。
その下から、闇でも光でもない“何か”が覗く。
見た者の知覚を侵食し、形を決めさせない“色”――天界には存在しないはずの概念。
「……ッ、後退!」
セファルの指示が飛ぶ。
だが、リヴィアの足が地面に貼り付いたように動かない。彼女の瞳が《碑》の中心に釘づけになっている。
そこに――“誰か”が立っていた。
羽根をもたぬ天使。
その刹那、セファルはリヴィアを抱え、光壁を展開していた。




