第七話
◇
タクシーがゆっくりと屋敷の前に停まり、エンジンの音が止む。
夏の陽射しが、旧道沿いの緑をまぶしく照らしている。
義堂は一言、運転手に断ってから車を降り、屋敷の裏手へと回った。勝手口は無施錠のままで、扉を押すとすぐに開いた。そのまま中へ入り、横手の保管庫から財布を取って戻ってくる。
料金を払い終えると、真白も一緒に、砂利道の脇に立ってタクシーを見送った。
車のタイヤが砂を巻き上げ、やがて道の向こうに小さくなっていく。
静けさが戻った山間の空気の中で、ふたりは小さく息をつき、並んで屋敷へと戻った。
病室で義堂に聞かされていたような水浸しの光景は、どこにもなかった。床も廊下も、階段の踏み板も、すっかり乾いている。まるですべてが夢だったかのように。
真白は靴も脱がず、しばらく土間でその場に立ちすくんでいたが、やがて意を決したように小さく口を開いた。
「……やっぱり、絵……、どうなってるか見たい」
その声には、怯えと確かめたいという思いが入り混じっていた。
義堂は真白の顔を見て、すぐに頷いた。
「ああ。俺も、あのまま掛けておくのは、落ち着かない。布でくるんで押し入れか納戸にでもなおそうと思ってたとこだ。処分は出来ないだろ。真白のじいちゃんが描いた大切な絵だもんな。」
「……ギイ、一緒に行こう」
「ああ」
二人がゆっくりと階段を上がる。軋む音だけがその空間に響いた。
陽射しにあたためられた木の手すりは、乾いていて心地いい。
二階の廊下の先、義堂が斧で破ったあの部屋の扉だけが、そのままの状態でぽっかりと開いているのが見えている。
真白が苦笑を浮かべて言った。
「派手にやったね」
「真白が閉じ込められてたからな」
義堂は肩をすくめるように答え、開いた扉の中へと足を踏み入れる。真白もそれに続いた。
窓から差し込む光の向こう、壁に掛けられたあの絵が目に入る。
幻想的だった湖畔の洋館は、もはやそこにはない。館の前に架かっていた桟橋も、途中で朽ちて崩れ、先端が消えている。
その光景は、まるで――、窓の外に広がる、現実の湖畔と同じだった。
真白は息を呑んだ。
「……全部……、なくなってる」
「ああ」
義堂も、静かに頷く。
「……ここから見える景色とそっくりになったな」
そう呟いた義堂は、少しの間、絵の中に視線を置いたまま動かなかった。そして、突然、右下に残されていたサインを見つめ、そっと指先で触れた。
「ちょっ、ギイ!?」
真白がとっさに声を上げ、義堂の腕を掴んだ。強くはないが、確かな力で彼の動きを制する。
絵に触れることへの戸惑いと恐怖が、真白の表情にありありと浮かんでいた。
「大丈夫だ。何も心配はいらない」
義堂は淡々と応えた。口元は笑っていたが、目は真剣だった。
「でも!」
真白の声がわずかに震える。
義堂は一瞬だけ彼の顔を見て、静かに首を振った。
「……もう何も起こらない。ただ、念のためだよ」
「だったら、余計にそんな軽はずみなこと」
「真白は心配性だな。もうあのときの、あんな気配はどこにもないじゃないか」
義堂が触れた絵の表面には、乾いた絵の具の感触があるだけだった。
水が滲むことも、何かが引き込もうとする気配も、まるでない。
真白は義堂の手元をじっと見つめながら、胸の奥の不安が徐々にほぐれていくのを感じていた。
夢のようで、現実のようで。
その後、二人はほんの少しのあいだ、黙ったままお互いを見つめた。
何かが終わったような、何かを見届けたような、静かな余韻が部屋に満ちていた。
「そろそろ、しまおうか」
義堂がぽつりと言って、続けた。
「処分はしない。けど、目につく場所には置かない」
真白は頷いた。
義堂はそっと絵を壁から外し、真白に一階から持って来てもらったまっさらなシーツでそれを丁寧にくるむ。絵の中の景色が、ゆっくりと布の下に隠れていく。
まるで物語の幕が降りるように。
しまい終えると、二人の間にふっと安堵が滲んだ。
それは張りつめていた何かが、やっとほどけたような、穏やかな余韻だった。
「……なんかさ」
真白がぽつりと呟く。
「すごく、お腹空いた」
それは緊張が解けた証拠であり、ようやく日常が戻ってきたことの小さなサインだった。
「俺もだ」
義堂は少し笑って、腹を押さえるようにして答えた。
「冷蔵庫に昼飯はあるし、保存が効くものは保管庫にあるけど、夜の分がいるな。父さんと母さん、来るんだろ?」
「うん。あの二人、また何も考えずに来ると思うよ。どうせパックごはんとそうめんしか持ってこない。賭けてもいい」
真白が苦笑した。
「それ、もはや持ってくる意味あるか?」
「ない」
二人して顔を見合わせ、くすっと笑った。
「じゃあ、軽く飯を食ってから、車で買い出し行くか」
義堂が立ち上がりながら言った。
だが真白はすぐには頷かず、少しだけ表情を曇らせた。
「……でも、ギイ、運転して大丈夫?」
「ああ……。正直、朝、起きたときは、まだ記憶がバラバラで混濁して曖昧だったが、でも今はもう大丈夫だ」
義堂は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと笑った。
「……信用しても?」
「体も、ちゃんと馴染んできた気がする。今の俺なら、運転できるよ」
「……ほんとに?」
「ほんと」
義堂は自信を込めてうなずいた。
「それに、タクシー呼ぶより俺が運転した方が早い。時間も無駄にならない」
真白は少し迷ったが、やがて小さく頷いた。
「じゃあ……、あとで行こうか。スーパー、あの大きいほう?」
「うん。肉も野菜もあっちのほうが揃ってる。母さんも父さんも食に関しては壊滅的だからな。いつも通り、俺たちで対処しないと」
「本人たちは、なんでも外で食べればいいって思ってる」
真白が思い出し笑いを浮かべる。
「その結果、俺の料理スキルが高い理由だ」
「確かに。じゃあ、買い出しリスト、頭の中で組んどくよ」
「頼んだ。で、昼は何食いたい?」
義堂が問いかけると、真白はちょっとだけ首を傾げてから、ふと笑った。
「……そうめん。さっき話してたら食べたくなった」
「よし、簡単だしすぐ用意できるな」
そのまま二人してキッチンへ向かう。引き戸の先には陽の差す中庭がのぞいていた。義堂が鍋に水を張って火を点け、保管庫からそうめんを持って来る。
「封を開けたら、残りは冷蔵庫に入れとけよ」
「分かってる。薬味、あるかな……」
真白が冷蔵庫をのぞきこみながら、口元を指でつつく。
「ネギと生姜はある。あとミョウガも。……うん、あるある」
「ナイス」
義堂が鍋に水を入れ、五徳に置いてコンロの火をつける音の横で、真白はまな板を出して薬味を刻み始める。刻む音と湯の沸騰音、そして外から聞こえる風の音が、妙に心地よく耳に残った。
「真白、益々、包丁の音のリズムがいいよな」
「え、何それ、褒めてる?」
「褒めてる。こういうのはセンスだ」
思わず、真白が笑う。
薬味の準備がひと段落した頃、鍋の湯がふつふつと沸き始める。義堂がそうめんを手に取ると、ちらりと真白に声をかけた。
「真白、計量カップに水入れてくれ。半カップでいい」
「びっくり水?」
「そう。麺が暴れたときに一回落ち着かせるやつ」
「了解ー」
真白が計量カップに水を汲んで手渡すと、義堂は片手で受け取り、タイミングを見計らって鍋にすっと差し入れた。ぐらりと揺れた湯の温度がわずかに落ち、泡が収まる。
「これでコシがちゃんと出て旨くなる」
「あと吹きこぼれ防止もね」
他愛のない会話を交わしながら、義堂は茹で時間を見計らい、真白は水を張ったボウルに氷を放り準備する。
ゆで上がったそうめんは、一旦、ざるに上げたあと、しっかり氷水で締めら、再び冷水と共に氷を浮かべたガラス鉢に盛られた。食卓に並べた薬味とめんつゆを挟んで、二人は向かい合って座る。
「ん、うまい。やっぱり夏はこれだな」
一口すすった義堂が、目を細める。
「だね」
二人して笑い合いながら、つるりつるりとそうめんをすする。昼下がりのやわらかい光と、ひんやりした器の感触が、やけにしっくりと馴染んでいた。
食後、片付けを終えた義堂が、車の鍵を手に取る。
「じゃ、行くか」
真白も頷き、玄関に向かう。扉の外には、まだ白く眩しい夏の午後が広がっている。
二人して車に乗込むと、山道を下った。
ゆるやかなカーブを曲がったところで、突然、蝉の声が聞こえて来る。
スーパーでは、思ったより長く買い物に時間がかかった。両親が来ると聞いて、真白はあれもこれもと品を選び、義堂はそれに苦笑しながらカゴを持ってついて回った。
ようやく会計を終えて駐車場に戻り、荷物を積み込んだとき、真白がふと眉を寄せて立ち止まり、小さく「あっ」と声を漏らした。
「どうした?」
「アイス、買い忘れた。ちょっと行ってくる。すぐ戻るからギイは車で待ってて」
そう言って、食材が詰められた袋を後部座席に置くと、真白は身軽な足取りで店内へと戻っていく。
義堂は、「ドライアイス、貰えよ。無ければ氷。あと、足元に気をつけろよ」と返し、運転席に深く腰を預け、ブレーキを踏みながらエンジンをかけてクーラーのスイッチを入れた。
昼下がりの熱をまとった空気が直ぐに押し出され、代わりにひやりとした感触が肌にまとわりつく。額にうっすら滲んでいた汗がすっと引いていく。
義堂はひとつ深く息を吐くと、窓をわずかに開け、右肘を窓辺に乗せてズボンのポケットから煙草の箱を取り出した。微かに外気が入り込み、夏の匂いが混ざる。
煙草はここに来る途中、「ライターが欲しい」と理由をつけて立ち寄った古びた小さな煙草屋で買ったものだ。
箱から一本、取りだして口にくわえライターで火を点ける。小さくカチリと音がして、かすかにオレンジ色の火が、白い紙の先端を照らす。
義堂は小首をかしげながら、長く息を吸い込み、首筋に手を添えてから「ふーっ」と息を吐き出した。煙草の煙は、窓の隙間から傾きかけた空に溶けるように消えていく。
ゆるく伏せられた瞼の、長い睫毛が頬に影を落とす。
車内の灰皿に指先で煙草の灰を落としながら、彼は無意識のうちに極小さな声で鼻歌を口ずさんでいた。
「♪funfu-fu-funfu-fufufufun-fu-♪」
低く、くぐもった声で、音だけをなぞる。
煙草を半分ほど吸ったところで、義堂はひとつ息をつき、車内の灰皿にそっと押し付けるようにして火を消した。
ちょうどそのとき、運転席側のサイドミラーの中に、小さく真白の姿が映り込んだ。陽に透ける髪を揺らしながら駆けてくる。
義堂は窓を閉め、灰皿の蓋を指先で押し戻すと、何事もなかったような顔でハンドルに手を添えた。
少ししてドアが開き、真白が戻ってきた。手には白く曇った袋。中にはどうやらアイスと冷たいドリンクが数本。
「はい、ただいま」
「ごくろうさん」
と笑顔で言った義堂だったが、真白は乗り込んだ瞬間、ふと眉をひそめた。
「ギイ、……タバコ吸った?」
その問いに、義堂はわずかに目を細めて、口元に笑みを浮かべた。
「たまにはいいだろ。たまにな」
真白は軽くため息をつきながら、身をよじって冷たいアイスの袋を後部座席に置いた。
「どういう風の吹き回しなんだか。あとで匂い、取ってもらうからね」
「はいはい」
車内には、煙草の残り香と、そしてどこか遠くから流れてくる音楽のような気配が静かに混ざり合っていた。
口元にわずかに旋律を含ませながら、義堂はブレーキを踏み、ギアをドライブに入れた。
窓の外に広がる景色は、変わらない日常の一部のようでいて、ほんの少しだけ、確かに変わっていた。
何かが終わり、何かが続いていく。
二人を乗せた車はゆっくりと発進し、静かに沈みゆく陽の光のなかを抜け、やがて、湖のほとりに建つ屋敷へと向かって走り出した。
……終……