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第六話



 蝉の鳴き声が遠くからかすかに届く。

 病室の天井は、染みひとつない白だった。消毒薬と洗い晒したリネンの匂いが微かに漂っている。窓の外には木の葉が青々と茂り、夏らしい澄んだ光が、ガラスの窓からカーテン越しに滲むように差し込んでいた。

 義堂(ぎどう)は、その光をひとしきり眺めてから、ゆっくりとまぶたを閉じ、そして再び開いた。焦点は最初、ぼやけていたが、すぐに現実へと馴染んだ。

 手の甲に繋がれていた点滴の針のあとが、わずかに違和感を訴える。

 首を巡らせ、薄手の掛け布団をそっと脇に寄せて視線を落とすと、確かに包帯は巻かれてはいたが、脇腹にあるはずの痛みはなかった。呼吸をしても、咳をしても、あばらは軋まない。動かしてみても、骨の折れた気配がどこにもない。水中で掴まれたはずの右足首にも、青痣ひとつ残っていなかった。あの冷たい指の感触が、まるで最初からなかったかのように。

 義堂はふっと、口元に笑みを浮かべ、ゆるやかに身を起こした。

 肩にかかる髪が、寝癖のまま濡れた墨のように鎖骨へと流れ落ちる。

 コンコンと扉がノックされた直後、「失礼します。お目覚めですね」と、声がしたのは、義堂が水差しに手を伸ばそうとしたちょうどそのときだった。若い男性の医師がカルテを片手に年配のナースを一人伴って病室に入ってくる。

「おはようございます」

「おはようございます。九条義堂さん。お加減はどうですか?」

「おかげさまで、快調です」

「よかった。早速ですが、診断の結果では、舟から落ちたときに縁かどこかに当たったというお話でしたが、これといって骨に異常はありませんでした。レントゲンでも軽度の打撲以外に特記すべき所見はありません。そのあと、溺れたということでしたが、水を呑みすぎている以外、肺にも異常なし。血液検査の結果も良好です」

「……そうですか。……ところで、退院の手続き、今日にできますか?」

 義堂の声は静かで、とても落ち着いていた。医師は一瞬だけ意外そうに眉を上げたが、すぐに頷く。

「ええ、ご希望でしたら、それは問題ないでしょう。ご自身でも動けるようですし。なんといっても、回復力が驚異的だ。むしろ、入院が必要だったのかと思うぐらいで……」

 医師は冗談めかして微笑みながら続けた。

「ご家族……、弟さんが大変心配なさっていました。九条さんが搬送されたときは意識もなかったですからね。まあ、そのあとすぐに意識は戻られましたが」

「ええ。……でも、なんだか、ずっと長い夢を見ていた気がします」

 義堂は答えながら、ほんの少し頭をかしげて軽く首筋に手を添えた。

「では、改めて必要書類を準備いたします。ご家族の方と合流されましたら、十時頃にナースステーションへお越しください」

「ありがとうございます、先生。ご親切に」


 医師とナースが出ていくと、病室には再び静けさが戻った。

 義堂はゆっくりとベッドの上に腰を下ろしたまま、窓際の光に目を細めていた。

 廊下の方から足音が近づくのが聞こえたかと思うと、ノックもなくドアが開いて、真白(ましろ)がひょこっと顔をのぞかせた。

「あっ、起きてる」

「おはよう、真白」

 義堂はその名前を、丁寧に発音した。

「おはよう、ギイ」

 真白はレジ袋を片手にぶら下げながら、片眉を上げて義堂を見た。その口元には、柔らかな笑みがほんのりと浮かぶ。

「ほんと、丈夫な体してるな。外見はモデル並みなのに中身はゴリラかよ。心配して損した」

 皮肉めいた言葉とは裏腹に、真白の声にはどこか力が抜けたような安堵の響きがあった。

 義堂がちゃんと目を開け、生きて自分の前にいることに安堵している――、そんな空気が、微かに滲んでいた。


 ……あのとき。

 湖畔に動かなくなった義堂を置いて、震える足で走った。びしょびしょに濡れた身体も冷たくて、息が詰まるほど苦しかった。けれど、それでも真白は止まらなかった。

 屋敷にたどり着いて、黒電話のダイヤルを必死に回し電話をかけたときのことを――、絶望が床から這い上がってくるような感覚を、真白は忘れられない。


「でももし、もしも、ギイが……、俺のせいで目の前から消えてしまっていたら……」

「後でも追ってくれたか?」

「……かもしれない」

 ぼそりと呟いた真白の言葉に義堂の顔から表情が消えた。涼しげな目元がわずかに細められ、どこか考え込むような、不機嫌な気配が滲む。

「物騒なことを言うな。ほら、俺はこんなに元気だろ? 心配かけたな。で、その袋は何だ?」

 義堂の穏やかな声が、真白の胸の奥に風を通す。

「下の売店で買ってきた。俺の朝メシ」

 そう言いながら、真白は遠慮のない足取りでサイドテーブル横の椅子を引き、どかりと腰を下ろす。

 袋の中から取り出したのは、メロンパンとチョココロネと、三角パックのコーヒー牛乳だった。

「旨そうだな。俺も食べたい」

「ギイにはもうすぐ病院の朝ごはんが来るだろ?」

「そっちを食ってみたい」

「……疲れてるから甘いもの食べたい、とか?」

「そうだ、多分それ。いや、きっとそう」

「もう……、仕方ないなあー」

 真白はそう言って、メロンパンをビニールから取り出して半分にちぎった。ふわふわの中身が露わになり、部屋にほんのりと甘い香りが漂う。

「でも、チョココロネのクリームが多い下の部分は俺が食うから」

 そこには、子供じみた意地のようなものがあって、義堂は思わず吹き出した。

「ずるいな。おいしいとこ独り占めかよ」

「当然だろ? 俺がチョココロネ滅茶苦茶好きなこと知ってるくせに」

「そうだったな」

「俺の大半は、チョココロネでできている」

 義堂は笑いながら、ちぎられたメロンパンの片方を素直に受け取り、ひと口かじった。生地の甘さがほんのりと口の中に広がる。

「これ、旨いな」

 真白が、膝の上に置いていたレジ袋の底をごそごそと探る。

「……ほら」

 ぽん、とテーブルの上に置かれたのは、缶コーヒーだった。

「買っといた。いつも朝食後に飲むだろ」

 ぶっきらぼうに言うその言葉の奥に、ほんの少しだけ照れがにじむ。

 義堂はその缶を手に取ったあと、ラベルに目を落とし、一瞬、戸惑うように微笑んだ。ほんのわずかなひととき、缶をながめる義堂の前に、真白の白い手がすっと伸びてくる。

「大丈夫って言いつつ、実は、指とか痛いんだろ? やせ我慢しなくていいんだよ、ギイ兄ちゃん」

 そう言って、真白は義堂から缶を奪うと、慣れた手つきでプルタブを引いた。ぷしゅっと、乾いた音が小さく響く。

「必死にオール漕いでくれたもんな」

 真白は開けた缶を、そっと義堂に差し出した。

 義堂は一瞬だけその手元を見つめ、それから穏やかな笑みと共に、缶を受け取る。

「……ありがとう」

「別に」

 真白は既にメロンパンを食べ終え、次にチョココロネをかじりながら、視線を病室の窓の外にやった。カーテン越しに射す光が、二人の穏やかな時間をゆっくりと包んでいる。

 義堂はひと口、ゆっくりと喉を潤したあと、少しだけ首を傾けて言った。

「退院、今日になった。十時にナースステーションに行けば手続きしてくれるって、先生が」

 コーヒーの香りと共にこぼれたその言葉に、真白の手が止まる。

 チョココロネをくわえたまま、目をぱちくりさせ、それから口元をゆるませて笑った。

「……マジで? もう大丈夫なの?」

「もうとっくに大丈夫だよ。ほら、顔色もいいだろ?」

「う、うん……」

 安堵と喜びが混じった真白の声が、ぽつんと落ちた。

「よかった」

 真白はコロネを片手に、どこか力の抜けたような笑顔を浮かべている。

 その顔を見て、義堂はふっと優しく目を細めた。

 少し照れたように、けれどどこか自嘲気味な口調で、真白が言う。

「……昨日はさ、俺、濡れてたから着替えも病院の人に借りて、ここに泊らせてもらったけど、今夜、一人で屋敷に戻るの、ちょっと無理で」

「ああ。それもあって、今日、退院させてもらうことにした」

「そうだったのか……。何から何まで、ありがとうギイ」

 ふたりの間に、ほんの短い沈黙が落ちた。病室の外では、どこかで車椅子の音がかすかに響いている。

「……一応、父さんと母さんにも連絡した、昨晩のうちに。そしたら、今夜にはこっちに来るって」

「そうか。それなら、夕方までは俺とゆっくりしてくれるか?」

「もちろん!」

 真白の返事は早かった。それから、もう一度義堂の方を見て今度はまっすぐな笑顔を見せた。


 窓の外では、蝉がひときわ強く鳴いている。

 それが夏の空気を押し広げるように響いて、病室の静寂をやさしく揺らす。

 あの館の不穏な夢のような空気は、今はもう、ここにはなかった。



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