第五話
◇
ベッドの上には、真白が眠っていた。だがその額には、さっき遠目に見たときよりも、幾分、顔色が戻ってきている。
義堂はゆっくりと近づき、片膝をついて身を屈めた。
「……真白」
名を呼びながら、指先でその頬に触れる。ひどく愛おしそうに。まるで大切なものを確かめるように。
「起きろ。頼む、起きてくれ」
やさしく肩を揺さぶると、真白の長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりとまぶたが開いた。焦点の定まらない目が、少しずつ義堂を捉える。
「……ギイ、兄……?」
その声に義堂の胸がひときわ強く、脈打った。
もう二度と、聞くことはできないと思っていた。あの、子供の頃の頼りなくて、やさしくい「ギイ兄」という呼び方を。
こみ上げそうになる何かを、ぎゅっと喉の奥で噛み殺す。
「……ああ。俺だ。兄ちゃんが迎えに来てやったぞ。ちゃんと起きられたな。お前、いくら夏休みだといっても、寝坊し過ぎだ」
義堂が、汗で少し湿った真白の前髪をそっとかき上げた。
「ギイ……、怪我してる……!? なんだよ、これ、血……?」
真白は、がばっと起き上がると、震える指先を義堂の脇腹へと伸ばした。じわりと滲んだ血が布地を染めている。触れた瞬間、真白の表情が凍りつくように青ざめた。
「俺を……、迎えに来たせいで……? こんな……」
「大丈夫だ。もう終わった」
義堂は優しく微笑みながら、真白の手を包み込むように握り返す。
「お前が無事でいてくれたなら、それでいい。……さあ、帰るぞ、真白」
穏やかな声に込められた強い意志が、まだ夢と現の狭間にいる真白の胸へと染み込んでいく。
義堂が真白の手を引いて立ち上がらせようとした――、そのときだった。
真白の目が、ふと義堂の肩越し、背後にある窓へと吸い寄せられた。その壁際にボロ布を纏った人骨が座っている――。それが、かすかに、ぎこちなく動く。
ひび割れた頭蓋が、ピクリと震え、顎骨が、ゆっくりと、何かを囁くように開閉する。
「……ギイ……!」
真白の声がかすれ、手に力がこもる。そして、息を呑んだまま動けなかった。
それは、あの優しい笑顔の青年とはあまりに違っていた。けれど、それでも面影は残っていた。
「……創一、さん……」
恐る恐る呼びかけると、骸骨は反応するように、ゆっくりと手を伸ばすようにして、そのままガラリと手首から先が崩れ落ちた。
義堂が真白の前に立ち、かばうように真白の背に手を伸ばす。
「見るな。あいつは、もうとっくの昔に死んでる。ここにいたのは、亡霊だ」
「でも……、今、声が聞こえた気が……」
「幻だ。この世界もすべて、幻なんだ。未練だけで動いてたのが、あの残骸だ。あいつに引きずられちゃ駄目だ、真白。……俺と帰ろう」
義堂は真白の手を取り、その細い指をしっかりと握る。
創一は、もう動かなかった。ただ、月の光に照らされて笑っているように見えた。
「……さよなら、創一さん」
真白がぽつりと呟いたとき、骨と化した身体から崩れ落ちた肋骨が音もなく砕けた。
そのまま、ひとつ、またひとつと崩れていく。
義堂は真白の手を引いて部屋を出た。
月明かりの差し込む壁には、長い影が揺れている。
彼は途中、立ち止まり、壁の燭台から一本の蝋燭を引き抜いた。
真白が問うように目を向けたが、義堂は黙ったまま、廊下の絨毯に蝋燭の炎を落とした。
ぼっ、と小さな音とともに火が走り、じわりと繊維を焦がす匂いが立ち上る。
続けざまに義堂は、他の蝋燭も倒していく。
「ギイ……」
「もう終わりにする。……ここは全部、燃えていい場所だ」
ぱち、ぱち――、と火の音が重なり、屋敷の空気が熱を帯び始めた。
過去が燃えていく。
絵の中の幻想も、追憶の残り香も、全部、灰になればいい――。
二人は玄関を抜け、夜の湖へと駆け出す。
「……あそこに舟がある」
真白が指差した先、木製の小舟が櫂と共に置かれていた。
二人で舟を押し、水面へと滑らせる。
義堂が先に乗り込むと、真白の手を取って中へと引き入れた。続いてすぐにオールを握りしめ、静かに漕ぎ出す。
一掻き、また一掻き。
水が穏やかに左右へ割れ、舟は夜の湖を進んでいく。
淡い月の光だけが降り注ぐ湖面には、炎に包まれた屋敷の反射が、歪んだ鏡のように揺れていた。
「この舟……、この前、創一さんと乗ったんだ」
真白がぽつりと呟いた瞬間、義堂のオールを漕ぐ手がわずかに止まる。彼は無言のまま視線を逸らし、わずかに眉根を寄せた。表情に出すつもりはなかった。けれど、真白の口からその名を耳にするたび、胸の奥にあるなにかがわずかに疼く。
だが、真白は義堂のそんな変化に気づくことなく、ゆっくりと続けた。
「でも……、湖の真ん中あたりまでは行ったけど、向こう岸には行かなかった。創一さん、途中で『戻ろう』って言って、絶対に進もうとしなかった」
その言葉に、義堂は完全に手を止めた。
向こう岸には行かない――。
それはつまり、行けなかったのだ。
「これはただの仮説だ。あいつは、この絵の中でだけ人の姿で居られる。そして、現実世界では元の、……人の姿では存在できない。きっと、そこが境界なんだろうな。こっちと、あっちの」
呟いた義堂の声に、真白が目を瞬いた。
「……よし、急ごう」
短くそう言い、義堂はオールを握り直した。
ぐ、と力を込めて水を掻く。舟はまた静かに、しかし確実に前へと進み出す。
夜の湖は息をひそめたように凪いでいて風もない。その分、オールが水を裂く音だけが耳に残る。
舟は湖の中央へと差し掛かろうとしていた。
館の炎は遠ざかり、月明かりだけが二人を照らす。水面はまるで、底があるのかもわからないほどに深く、黒く沈んでいる。
そのとき――。
ばしゃり。
舟の縁に、何かがぶつかる音がした。
義堂が顔を上げると、水中から骨と化した腕が伸び、白い指が、がっしりと舟の縁をつかんでいる。
「うわっ!」
真白が震えた声を漏らす。
骸骨の手が、舟を水底へと引きずりこもうとする。
「このっ!」
義堂はオールで何度か手を叩いたあと、急いで舟を漕ぎ始めた。
「くそっ、離れねえ!」
舟が不安定に揺れる。
それでも義堂は、歯を食いしばって漕ぎ続けた。
「真白! 舟底に伏せろ! 座席をしっかり掴むんだ!」
「わかった!」
そして、舟が湖の「中心」を越えたその瞬間。
ぶわっ、と風が吹いた。
それまで覆っていた重苦しい闇が裂けるように、空が変わった。雲の切れ間から、眩い昼の光が差し込み、青空が覗く。
真上から照らす陽光が、湖面にきらきらと反射しながら、二人の上に降り注ぎ、骸骨の手が、力を失ったように水中へと崩れ落ちた。
しかし同時に、舟がみしみしと音を立てて軋み始めた。
「ギイ!」
舟の側面が、みしり、みしりと裂けていく。
木が乾いたようにひび割れ、板が剥がれ、釘が浮き、座面が傾ぐ。
まるで、舟そのものが時間の経過に耐え切れず、一気に朽ち果てていくかのように。
「まだだ、まだ行ける……っ!」
義堂は必死にオールで舵を取るように操った。
舟の底に水が染み込む。足元が冷たい。
だが、あと少し。
向こう岸が近づいてくる。
水底には、かすかに砂利混じりの地面が見え始めた。浅瀬が広がっている。
そのとき――。
側面が裂け、板が剥がれ落ちた。
「水が入って来た!」
真白が叫ぶ。舟は船首から急激に傾き始める。もう持たない。
「真白っ、行け! ここからなら泳げる!」
義堂が怒鳴るように叫び、真白はためらいなく湖へ飛び込む。
水温は、夏とは思えないほど冷たい。肌に突き刺さるように全身を包み、胸の奥で肺がぎゅっと縮んだ。
義堂も後に続く。
と、ほぼ同時に、けたたましい音が響き、舟は、みしみしと軋みながら水底へと沈んだ。
「ギイ、大丈夫!? 怪我がっ」
泳ぎながら、真白が振り返る。
「気にするな! 俺の運動神経、舐めんじゃねえぞ! 行け!」
そのとき、真白の足首を何かが掴んだ。
「っ、うああっ……!」
水中に引きずり込まれながら足元を見ると、白く干からびた骨の手が真白の足にしがみ付いていた。
義堂はすぐさま泳ぎ寄り、それを掴んで引き離し、真白の足を叩いて先に行けと促す。
真白は必死に水をかき、ようやく岸辺の草を掴んだ。ぐっと身体を持ち上げ、濡れた体を地面に投げ出すようにして振り返る。
「ギイっ……! ギイー!」
そこに義堂の姿はない。
「ギイ兄ぃぃぃー!!」
狂ったように兄の名を呼びながら、真白が再び湖に入ろうとしたそのとき、水面に義堂の頭が浮かび上がった。
「ギイ兄!」
義堂は最後の力を振り絞り、真白の方へと泳いだ。
真白が岸に這い出た義堂の体を引っ張り、やっとの思いで地面に引き上げる。
その直後、義堂の意識はぷつりと途切れた。
◇