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第五話



 ベッドの上には、真白(ましろ)が眠っていた。だがその額には、さっき遠目に見たときよりも、幾分、顔色が戻ってきている。

 義堂(ぎどう)はゆっくりと近づき、片膝をついて身を屈めた。

「……真白」

 名を呼びながら、指先でその頬に触れる。ひどく愛おしそうに。まるで大切なものを確かめるように。

「起きろ。頼む、起きてくれ」

 やさしく肩を揺さぶると、真白の長い睫毛がかすかに震え、ゆっくりとまぶたが開いた。焦点の定まらない目が、少しずつ義堂を捉える。

「……ギイ、(にい)……?」

 その声に義堂の胸がひときわ強く、脈打った。

 もう二度と、聞くことはできないと思っていた。あの、子供の頃の頼りなくて、やさしくい「ギイ兄」という呼び方を。

 こみ上げそうになる何かを、ぎゅっと喉の奥で噛み殺す。

「……ああ。俺だ。兄ちゃんが迎えに来てやったぞ。ちゃんと起きられたな。お前、いくら夏休みだといっても、寝坊し過ぎだ」

 義堂が、汗で少し湿った真白の前髪をそっとかき上げた。

「ギイ……、怪我してる……!? なんだよ、これ、血……?」

 真白は、がばっと起き上がると、震える指先を義堂の脇腹へと伸ばした。じわりと滲んだ血が布地を染めている。触れた瞬間、真白の表情が凍りつくように青ざめた。

「俺を……、迎えに来たせいで……? こんな……」

「大丈夫だ。もう終わった」

 義堂は優しく微笑みながら、真白の手を包み込むように握り返す。

「お前が無事でいてくれたなら、それでいい。……さあ、帰るぞ、真白」

 穏やかな声に込められた強い意志が、まだ夢と現の狭間にいる真白の胸へと染み込んでいく。

 義堂が真白の手を引いて立ち上がらせようとした――、そのときだった。

 真白の目が、ふと義堂の肩越し、背後にある窓へと吸い寄せられた。その壁際にボロ布を纏った人骨が座っている――。それが、かすかに、ぎこちなく動く。

 ひび割れた頭蓋(ずがい)が、ピクリと震え、顎骨(がくこつ)が、ゆっくりと、何かを囁くように開閉する。

「……ギイ……!」

 真白の声がかすれ、手に力がこもる。そして、息を呑んだまま動けなかった。

 それは、あの優しい笑顔の青年とはあまりに違っていた。けれど、それでも面影は残っていた。

「……創一(そういち)、さん……」

 恐る恐る呼びかけると、骸骨は反応するように、ゆっくりと手を伸ばすようにして、そのままガラリと手首から先が崩れ落ちた。

 義堂が真白の前に立ち、かばうように真白の背に手を伸ばす。

「見るな。あいつは、もうとっくの昔に死んでる。ここにいたのは、亡霊だ」

「でも……、今、声が聞こえた気が……」

「幻だ。この世界もすべて、幻なんだ。未練だけで動いてたのが、あの残骸だ。あいつに引きずられちゃ駄目だ、真白。……俺と帰ろう」

 義堂は真白の手を取り、その細い指をしっかりと握る。

 創一は、もう動かなかった。ただ、月の光に照らされて笑っているように見えた。

「……さよなら、創一さん」

 真白がぽつりと呟いたとき、骨と化した身体から崩れ落ちた肋骨が音もなく砕けた。

 そのまま、ひとつ、またひとつと崩れていく。

 義堂は真白の手を引いて部屋を出た。


 月明かりの差し込む壁には、長い影が揺れている。

 彼は途中、立ち止まり、壁の燭台から一本の蝋燭を引き抜いた。

 真白が問うように目を向けたが、義堂は黙ったまま、廊下の絨毯に蝋燭の炎を落とした。

 ぼっ、と小さな音とともに火が走り、じわりと繊維を焦がす匂いが立ち上る。

 続けざまに義堂は、他の蝋燭も倒していく。

「ギイ……」

「もう終わりにする。……ここは全部、燃えていい場所だ」

 ぱち、ぱち――、と火の音が重なり、屋敷の空気が熱を帯び始めた。

 過去が燃えていく。

 絵の中の幻想も、追憶の残り香も、全部、灰になればいい――。


 二人は玄関を抜け、夜の湖へと駆け出す。

「……あそこに舟がある」

 真白が指差した先、木製の小舟が(オール)と共に置かれていた。

 二人で舟を押し、水面へと滑らせる。

 義堂が先に乗り込むと、真白の手を取って中へと引き入れた。続いてすぐにオールを握りしめ、静かに漕ぎ出す。

 一掻き、また一掻き。

 水が穏やかに左右へ割れ、舟は夜の湖を進んでいく。

 淡い月の光だけが降り注ぐ湖面には、炎に包まれた屋敷の反射が、歪んだ鏡のように揺れていた。

「この舟……、この前、創一さんと乗ったんだ」

 真白がぽつりと呟いた瞬間、義堂のオールを漕ぐ手がわずかに止まる。彼は無言のまま視線を逸らし、わずかに眉根を寄せた。表情に出すつもりはなかった。けれど、真白の口からその名を耳にするたび、胸の奥にあるなにかがわずかに疼く。

 だが、真白は義堂のそんな変化に気づくことなく、ゆっくりと続けた。

「でも……、湖の真ん中あたりまでは行ったけど、向こう岸には行かなかった。創一さん、途中で『戻ろう』って言って、絶対に進もうとしなかった」

 その言葉に、義堂は完全に手を止めた。


 ()()()()()()()()()()――。

 それはつまり、()()()()()()のだ。


「これはただの仮説だ。あいつは、この絵の中でだけ人の姿で居られる。そして、現実世界では元の、……人の姿では存在できない。きっと、そこが境界なんだろうな。こっちと、あっちの」

 呟いた義堂の声に、真白が目を瞬いた。

「……よし、急ごう」

 短くそう言い、義堂はオールを握り直した。

 ぐ、と力を込めて水を掻く。舟はまた静かに、しかし確実に前へと進み出す。

 夜の湖は息をひそめたように凪いでいて風もない。その分、オールが水を裂く音だけが耳に残る。


 舟は湖の中央へと差し掛かろうとしていた。

 館の炎は遠ざかり、月明かりだけが二人を照らす。水面はまるで、底があるのかもわからないほどに深く、黒く沈んでいる。


 そのとき――。


 ばしゃり。


 舟の縁に、何かがぶつかる音がした。

 義堂が顔を上げると、水中から骨と化した腕が伸び、白い指が、がっしりと舟の縁をつかんでいる。

「うわっ!」

 真白が震えた声を漏らす。

 骸骨の手が、舟を水底へと引きずりこもうとする。

「このっ!」

 義堂はオールで何度か手を叩いたあと、急いで舟を漕ぎ始めた。

「くそっ、離れねえ!」

 舟が不安定に揺れる。

 それでも義堂は、歯を食いしばって漕ぎ続けた。

「真白! 舟底に伏せろ! 座席をしっかり掴むんだ!」

「わかった!」

 そして、舟が湖の「中心」を越えたその瞬間。

 ぶわっ、と風が吹いた。

 それまで覆っていた重苦しい闇が裂けるように、空が変わった。雲の切れ間から、眩い昼の光が差し込み、青空が覗く。

 真上から照らす陽光が、湖面にきらきらと反射しながら、二人の上に降り注ぎ、骸骨の手が、力を失ったように水中へと崩れ落ちた。

 しかし同時に、舟がみしみしと音を立てて軋み始めた。

「ギイ!」

 舟の側面が、みしり、みしりと裂けていく。

 木が乾いたようにひび割れ、板が剥がれ、釘が浮き、座面が傾ぐ。

 まるで、舟そのものが時間の経過に耐え切れず、一気に朽ち果てていくかのように。

「まだだ、まだ行ける……っ!」

 義堂は必死にオールで舵を取るように操った。

 舟の底に水が染み込む。足元が冷たい。


 だが、あと少し。

 向こう岸が近づいてくる。

 水底には、かすかに砂利混じりの地面が見え始めた。浅瀬が広がっている。

 そのとき――。

 側面が裂け、板が剥がれ落ちた。

「水が入って来た!」

 真白が叫ぶ。舟は船首から急激に傾き始める。もう持たない。

「真白っ、行け! ここからなら泳げる!」

 義堂が怒鳴るように叫び、真白はためらいなく湖へ飛び込む。

 水温は、夏とは思えないほど冷たい。肌に突き刺さるように全身を包み、胸の奥で肺がぎゅっと縮んだ。

 義堂も後に続く。

 と、ほぼ同時に、けたたましい音が響き、舟は、みしみしと軋みながら水底へと沈んだ。

「ギイ、大丈夫!? 怪我がっ」

 泳ぎながら、真白が振り返る。

「気にするな! 俺の運動神経、舐めんじゃねえぞ! 行け!」

 そのとき、真白の足首を何かが掴んだ。

「っ、うああっ……!」

 水中に引きずり込まれながら足元を見ると、白く干からびた骨の手が真白の足にしがみ付いていた。

 義堂はすぐさま泳ぎ寄り、それを掴んで引き離し、真白の足を叩いて先に行けと(うなが)す。

 真白は必死に水をかき、ようやく岸辺の草を掴んだ。ぐっと身体を持ち上げ、濡れた体を地面に投げ出すようにして振り返る。

「ギイっ……! ギイー!」

 そこに義堂の姿はない。

「ギイ兄ぃぃぃー!!」

 狂ったように兄の名を呼びながら、真白が再び湖に入ろうとしたそのとき、水面(すいめん)に義堂の頭が浮かび上がった。

「ギイ兄!」

 義堂は最後の力を振り絞り、真白の方へと泳いだ。

 真白が岸に這い出た義堂の体を引っ張り、やっとの思いで地面に引き上げる。

 その直後、義堂の意識はぷつりと途切れた。



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