第四話
◇
それは、以前、真白と共に絵で見たとおりの建物だった。
義堂はゆっくりと門扉を押し開け、石畳を踏みしめながら玄関へと向かった。ドアノブに触れると、きぃっ、と僅かな軋み音を残しながら、扉は驚くほどあっさりと開いた。
中を覗くと蝋燭の灯りが揺れていた。硝子の燭台に差し込まれたそれらは、まるで義堂の訪れを待っていたかのように、玄関から廊下の突き当りまでを照らしている。
一歩、また一歩。義堂の濡れた足が絨毯にしみを作る。呼吸は浅く、足を踏み出すたびに鼓動が強まっていく。
――そのとき、奥のほうから、かすかに声が聞こえた。
笑い声だった。
聞き慣れた少年の、真白の声。
義堂は顔を上げ、声のする方へと駆け出した。絨毯を蹴って廊下を走り、角を曲がる。開かれた扉の先、そこに広がっていたのは、過ぎた時の重みが沈殿しているかのようなアトリエだった。
部屋の片隅には、小さな木製のサイドボードと蓄音機。ごく微量の音量で流れていたのは、サティの『ジムノペディ』第1番。かすれた針が奏でるその旋律は、夢の名残のように空間に漂っている。
窓辺には絵の具がところどころに染みついたレースのカーテンがかかり、開け放たれた硝子戸からは、月明かりに濡れた庭の草木がぼんやりと覗いていた。
その部屋の一角、壁にしつらえられたアルコーブベッドの上に、真白はいた。
彼は青年と向かい合うようにして横たわっている。枕元に顔を寄せ、ふとした拍子に笑みを交わし、視線を絡ませながら……。
「……真白」
ようやく義堂が声を絞り出した。だが、その名を呼んでも、彼は微動だにしない。
聞こえていないのだろうか、真白は、そこに兄、義堂がいることに気づかない。
青年は、真白の耳元に何かを囁いていた。言葉の内容は聞き取れない。けれど、真白がくすりと微笑み、まどろみながら細い指先で青年の黒髪に触れる仕草が、すべてを語っていた。
その光景が、まるで何かの撮影の一場面のように見えた。
胸の奥が焼けつくように痛み、義堂は堪えきれず駆け出した。真白を助けようと、部屋の中へ踏み込もうとする。
だが――、
そこには、見えない壁があった。
廊下と室内とを隔てる結界のようなものに阻まれ、はじき返される。再び近付ついて触れると、それはつるりと冷たい。まるで水でできているかのような境界が義堂の入室を拒んでいた。
「くそっ、誰だ……、あいつ。ふざけんなよ……! 開けろ! 真白!」
拳で叩く。何度も。声が裏返るほど真白の名を叫ぶ。
創一と義堂の視線の先で、真白がゆっくりと目を閉じる。
そのまぶたに、そっと創一が手をかざした。長い指先がわずかに揺れ、空気にさざ波のような痕を残す。その仕草はまるで、幼子を夢へと導く母親のようだった。指先から零れ落ちるように、淡い光がふわりと漂い、真白の額に溶けていく。
「疲れただろう。白斗くんは、ゆっくり眠っていればいい」
「っ! 白斗だと!? 違う! そいつは九条白斗じゃない、俺の弟の九条真白だ! くそっ、やめろ! ちくしょう! 真白から離れろっ!」
義堂が拳を見えない境界に叩きつける。
青年は、尚も入り口に背を向けたまま、真白のまぶたに指を添えて言った。
「おやすみ」
その瞬間――、
部屋の空気がふっと沈み込み、結界が揺れ、ひと息に解かれた。義堂はその境界が消えた気配を感じた。
◇
青年が、ゆっくりと立ち上がり、義堂のほうへと振り返る。
「……誰だい、君は? 呼んでいないよ」
創一の声は、穏やかだった。しかし、その直後、バリバリと激しい音を立てて床が軋んだ。
重力が反転したかのような感覚。それと共に、義堂の身体は部屋の中に引き込まれていた。
刹那、硬い床が眼前に迫る。――が、義堂は咄嗟に肩を丸めて受け身を取り、勢いを殺し、その反動で素早く起き上がると一直線に創一へと踏み込んでいだ。
「ふっざけんな……!」
怒声と共に、義堂の拳がしなるように放たれる。
狙いは正確だった。グシャリ、と肉が潰れるような鈍い音がして、創一の左頬に義堂の拳が深く食い込む。
直後、創一の頭部がぐらりと傾き、顔が傾いたまま半回転して後頭部の位置で止まった。
だがそれは、終わりではなかった。
一拍置いてから、まるで壊れた人形のように、背中の顔がさらにそのまま回り続ける。
ぎぎっ、という軋んだ音とともに、皮膚の下で骨がゴキリと鳴った。
回転するにつれ、顎の関節が一瞬外れたように歪み、口元が横に裂けかけるが、それすら徐々に元の位置へと収束していく。
やがて、ぐるりと一周した創一の顔が、正面に戻ってきた。
目の前でそれを見た義堂は、背中を這い上がる冷たいものに思わず息を呑み寒気を覚えた。
創一と目が合う。
笑っていた。
その顔は、まるで何事もなかったかのようにひどく整っており、口元だけがゆっくりと動いた。
「痛いなあ。君は乱暴だな」
創一は自分の顎に手を添え、首をほんの少し傾けて顎の骨格を確かめるように指先でカクカクと動かすと、すっと唇の端を長くて白い指でなぞった。
義堂の濡れた服からぽたり、と水が床に垂れた。
「先に手ぇ出してきたのは、てめぇだろうが。……しかも、これが二度目だ。湖の中で俺の足を掴んだのはてめぇだな」
義堂の声はかすれ気味だった。しかし、怒気を孕んだその言葉は、空気に吸われるようにすぐに消えた。
創一は微笑んだまま、何も言わずただ片手を持ち上げた。その指先が、ゆるやかに空をなぞる。まるで見えない何かを払い落とすように、静かに、穏やかに。
それだけで、義堂の身体はふわりと宙に浮いていた。
床から足が離れたそのとき、背中が何か硬いものにぶつかった――。ぐしゃり、といういやな音を立てて、義堂の身体がテーブルの上に叩きつけられる。家具の脚がきしみ、嫌な音を立てて崩れた。
「……っ、く、そ……」
空気が肺から無理やり吐き出される。
息を吸いこむたびに、わき腹と胸が割れるように痛んだ。あばらの数本が逝ったかもしれない。
それでも、動かなければならなかった。ここにいてはいけない。何かが、明らかに狂っている。
義堂は床に手をつき、体を起こす。視界の端で、天井がわずかに歪んで見えた。目の奥がちかちかと痛み、吐き気が喉の奥にひっかかる。けれど、意識はまだ、かろうじて繋がっている。
「この程度の……こと、で……」
痛みを無理やり押し込み、義堂は歯を食いしばった。逃げる理由が、今はまだ、ない。いや――逃がすわけにはいかない。
ふらつく脚を制しながら立ち上がろうとした瞬間、足元に転がっていた黒光りするものに気づいた。
暖炉の前に置かれていた火かき棒が、今の衝撃でベーススタンドから落ちたようだ。
義堂はそれを拾い上げた。手のひらにひんやりと冷たい質感が張りつく。尖った先端が、煤けた鈍色の牙のように見えた。
そして、ひと呼吸ののち――、義堂は吼えるように叫びながら創一へと踏み込んだ。
「……っざけんなよ、てめぇ……!」
火かき棒の尖端が、低く構えた義堂の手から、鋭く突き出される。狙いは、創一の胸。
ザクリ、と嫌な音がした。
手応えがあった。刃物ではない。ただの鉄だ。しかし、それでも確かに肉にめり込んだ感触が、義堂の手を震わせた。
血の匂いはしない。ただ、圧だけが返ってくる。
だが創一は、顔色ひとつ変えることなく義堂を見下ろしていた。
その表情に、吐き気がこみ上げる。
義堂は火かき棒を引き抜くと、それを片手に持ったまま、構わず、今度は重心を乗せて横から蹴りを放った。痛む脇腹や疼く足も庇う余裕もなく、右足を勢いよく振り上げる――。
だがその直後、創一の手が義堂の足首を掴んだ。
ほんの一瞬、確かに距離があったはずなのに、まるで時空が歪んだかのように、創一の手はそこにあった。
冷たくて、硬い指だった。正に死者の手のように。
「……ああ、まだそんなに動ける気力があるんだ? でも、……いいなあ、君は。そうやって……、何度転んでも、また立ち上がれる。走れる足っていいものなんだろうな。風を切って、どこまででも行ける――、彼と一緒に……」
創一は、真白を一瞥したあと、義堂の目をじっと見つめた。
「僕は、足が悪くて走れなかったから、ここで待つことしかできなかった。君が心底、羨ましい」
淡々とした声と共に、創一の身体が、不自然にねじれるよう動いた。
次の瞬間――、片脚をつかまれたままの義堂の身体が床から浮き、軌道を描くように空中を飛ぶ。
そして、そのまま大の字で壁に叩きつけられ、まるで磔にされたかのように動けなくなった。
激しい衝撃音が、部屋の中に響き渡る。
肺の空気が一気に抜け、喉からかすれた息が漏れた。痛みと酸欠で視界が白く霞み、全身の感覚が鈍くなる。
それでも――。
義堂の手の中には、火かき棒があった。
指は力を失わず、それだけは、何があっても離さなかった。
視界の端で、創一が音もなく滑るように近づいてくる。
やがて、ぬるりと義堂の喉に指が巻きついた。細く、硬い、冷たい指が。
じわり、じわりと圧が加わる。血管が押し潰され、骨の軋む音が内側から聞こえる。
「まだ持っているのか」
創一の目が、義堂の手に握られた火かき棒をちらりと見た。
「――そんなものをで刺したところで、僕には効かないんだよ」
囁くような声が耳元に触れる。冷ややかで、まるで墓の中から聞こえてくるかのように。
だめだ。意識が……。
それでも、義堂は火かき棒を、離さなかった。
たとえ、何の効果もなくても、せめてもう一撃だけでも――。
視界が黒く染まりかけたそのとき、義堂の目に飛び込んできたのは、動けない自分の体のすぐ横に掛けられた一枚の肖像画だった。
微笑んでいる創一の顔。
まるで、誰かが彼をこの世で最も美しいものとして記憶に留めようとしたかのような、優しく、慈しみに満ちた筆致だった。
それが、かえって義堂の胸を締めつけた。
残酷さも執着も纏わぬ、透きとおるような笑み。この館に、最も不似合いなもの。
視線が離せなくなる。
朦朧とする意識の中、義堂は蠟燭の光に照らされる絵の表面に、わずかな明滅があることに気付いた。
まるで、ほんのかすかに呼吸をしているかのように絵が波打っている。
最後の力を込めて、義堂は火かき棒を指先で回し逆手に握り直した。
そして、喉を絞める創一の手を振り払うこともできぬまま、なんとか腕だけを壁の横へと伸ばす。
鋭い音を立てて、鉄の尖端が肖像画の中心――、描かれた創一の胸の位置に、深々と突き刺さった。
刹那。
「――っ!」
対面する創一の身体が痙攣したようにビクリと跳ねた。目を大きく見開き、立て続けに喉から泡の混じった咳を漏らすと、口の端から鮮やかな血がどろりと溢れ出す。
創一の指が義堂の喉から離れ、その身体がゆっくりと後ろへ崩れていく。
「……まさか、こんな……」
倒れたその身体は、次第に、音もなく風化するように白く乾きはじめる。
創一は、身を捩ってうつ伏せになると、両肘と膝をつき、まるで這うようにして床を進んだ。爪が血の跡を引きずりながら、軋む音を立て、ゆっくりと窓の方へ――。
干からびかけた腕で窓枠にすがりつき、創一は壁にもたれかかるようにして座った。
顔をあげると、ちょうど窓の向こうに湖が広がっている。その目に、ほんの一瞬だけ、わずかに光が戻ったかのようにも見えた。
やがて、身体が音もなく崩れはじめる。
皮膚がひび割れ、肉が崩れ落ち、骨が覗く。眼球が眼窩からぽたりと滑り落ち、床に転がった。
白く濁ったそれは、なおも何かを訴えるように義堂の方を向いたまま動かない。
やがて、急激にぐずりと内部から崩れはじめる。ゼリーのように形を保っていた膜が萎み、わずかに残った粘液がじわりと滲み出す。薄皮が裂け、中の組織が乾いた粉となる頃には、もうそれが誰かの身体の一部だったかどうかさえわからなくなっていた。
創一の力から解放された義堂は、一度、床に倒れ込んだのち、ふらつきながら真白の元へと走った。
◇