第三話
◇
時の流れは、まるで柔らかな繭の中に包まれているようだった。朝も昼もなく、空には月が浮かび続け、夜だけがこの世界を支配している。だが、寒さも孤独もなかった。ただ、穏やかで満たされた時間がそこにあった。
創一と真白は、紅茶を飲みながら語り合い、アトリエでは肩を並べて絵を描いた。
「白斗くんのこの筆の感じ、好きだったんだ。君は、ずっと変わらないね」
創一はそう言って、火のついた煙草を指の間に挟み、ゆっくりと煙をくゆらせる。紫煙がゆらぎ、アトリエの光の中に溶けていく。
そんな言葉に真白は微笑むしかなかった。まるで自分が誰なのかわからなくなるときがある。本当に真白という高校生だったのか、確信が持てなくなっていく。けれど、それは不安ではなく、むしろ優しい迷いだった。
湖畔を創一と歩く時間が、真白はとくに好きだった。
風ひとつなく、湖はまるで鏡のように空を映していた。ふと真白は足を止め、履いていた靴を脱ぎ、無邪気に裸足になって、湖岸へと歩き出す。月を映す湖にそっと足を差し入れると、ひんやりとした水が肌をなぞった。
「気持ちいいよ。創一さんもおいでよ」
くるりと振り返って笑う真白に、創一は一瞬ためらうも、微かに首を傾げながら微笑んだ。
「君は昔から、そういうところがある」
彼は靴を脱ぎ、ズボンの裾を少しだけたくし上げると、そろそろと真白の隣へと足を踏み入れた。水面がさざめくように揺れて、二人の影をなぞる。
その瞬間、足を滑らせた真白の身体がふらりと揺れた。
「あっ——」
とっさに創一の腕が伸び、真白をしっかりと抱き留める。
小さな水音のなかでお互いの身体がぴたりと重なった。真白は驚いたまま創一の胸に寄りかかるかたちになり、ほんのわずかに息を呑んだ。
創一はそのまま腕をまわして真白をやさしく抱きしめた。
何の言葉もなく。ただ、互いの心音だけが、かすかに響いていた。
真白は目を閉じた。心の奥が不思議な安らぎで満たされていく。
この腕のぬくもりを、ずっと知っていた気がする。理由もなく涙が滲みそうになるほどに懐かしい。
やがて、創一がそっと離れる。
「……ごめん、驚かせたね。でも、君が水に沈んでしまうのは嫌だった。この湖の水は、表面こそ穏やかでも下はとても冷たいんだ。とても……、体の芯まで凍えるように……」
その声もまた、どこか切なげでやさしかった。
あるとき、創一と真白は小舟に乗って、ゆっくりと湖の中心へ向かった。月はひっそりと輝き、水面と空とが溶けあい、境のない世界が広がっている。
櫂からこぼれた水が、ぽたりと音を立て、小さな波紋を描いて消えてゆく。
気づけば雨が降りはじめていた。
一滴、また一滴。すぐに細やかな霧のように雨は降り注ぐ。
逃げ場のない舟の上で、真白は最初、手のひらを天に掲げ空を見上げたが、やがて何かを諦めたようにただそのまま雨に打たれることを選んだ。
創一も、櫂を置いて微笑む。
「館に戻ったら、暖炉を焚こうか」
不意に創一が言った。冗談とも本気ともつかない声音だった。
「……真夏に?」
真白がきょとんとした顔をして創一を見た。
「うん。火のそばで濡れた髪と体を乾かそう。白斗くんが風邪をひかないように」
その言葉に、真白は一瞬目を伏せ、やがてふっと微笑んだ。
二人は見つめ合い、沈黙のなかでどちらからともなく笑った。
雨粒が真白の髪をつたって頬へ落ち、肩先からしっとりと服を濡らす。創一は何も言わず、そっと真白を見つめる。その間、言葉はなかったが、確かな安堵があった。
舟はかすかに揺れ、雨粒だけが夜の湖を包んでいた。
創一は時折り昔話をした。「白斗」と過ごした日々、アトリエでのささやかな出来事、二人とも夏の風邪で寝込んだ夜のこと。
けれど、それはまるで真白自身が体験した記憶のように感じられてならなかった。
終わりのない夜がひときわ深く感じられるころになると、創一と真白はアトリエの壁に埋め込まれたアルコーブベッドに身を預けた。
その寝台は、重厚な木材で縁取られ、まるで小さな聖域のようだった。
天井にはゆるやかなカーブのアーチがかかり、赤褐色のビロードに金糸のクッションが並ぶ。燭台の火がやわらかく揺れ、壁面に温かな影をうつし出す。
外の世界とは切り離された世界の中でも、その空間は、まるで時間そのものから護られているかのようだった。
柔らかな布団に包まれて、隣に横たわる創一の呼吸を感じながら、真白は他愛のない会話を交わす。
「……目が覚めたら、これが夢だったって思うのかな」
真白が創一の指に触れながらぽつりと呟いた。
創一は少しの間だけ黙ってから、真白の髪にそっとその指を差し入れた。
「夢なんかじゃないよ」
「そうだね。でも、目を閉じるのが怖い」
「僕が隣にいるから。……ずっと」
ぬるい闇に包まれながら、真白はゆっくりと目を閉じた。
――もう、どれくらいの日が過ぎたのだろう。
この世界には太陽がない。だから、日数の感覚も曖昧だった。けれど、真白は確かに感じていた。自分が少しずつ、そして激しく創一に惹かれていっていることを――。
気づけば、彼のそばにいる時間が、何よりも心地よかった。
まるで、過去の感情が再び血肉を与えられて、動きはじめたかのように。
◇
昼が近づき、台所の時計が十一時半を指していた。
ロゴ入りのTシャツに膝上丈のバギーショーツ、素足という夏の定番ともいえる格好で、義堂は冷蔵庫の扉を閉めながら、ふと階上を見上げた。
「……起きてきてもいい頃だけどな」
昨夜の真白は表情も明るく、声に張りが戻っていた。心配していた体調も回復しつつあるように見え、義堂はほっと胸をなで下ろす。
夏休み中の寝坊くらい、いつものことだ。今日はきっと昼過ぎまでぐっすり眠るだろう、と義堂は思っていた。
しかし、あの女将の話にあった湖の逸話は、今思えば妙に引っかかる――。
「ま、そろそろ降りて来るだろう……」
そうつぶやきながら冷凍庫を開けかけた義堂の足が、ふと止まった。
――ぴちゃっ。
床に何かが落ちたような音がした。
「……ん?」
視線を落とすと、二階へと続く廊下に薄く水たまりができている。上を見やれば、天井からの水漏れではない。
じゃあ、どこから――?
嫌な予感がして、義堂はスリッパを濡らしながら階段を駆け上がった。木の段差がしっとりと湿っていて、踏むたびにぴしりぴしりと不快な音を立てた。
真白の部屋の前で、またぴちゃ、と水音が響いた。扉の下の隙間から、水がじわじわと滲み出している。義堂は思わず膝をつき、手で触れてみた。
間違いない。冷たい水が確かに部屋の中から漏れ出しているのだ。
ありえない。昨夜も、今朝起きたときも何の異常もなかった。外はカンカン照りだ。水回りはこの部屋にはない。
「……真白?」
何度かノックしても、返事はなかった。
もっと強く叩いても、中からは何の気配も感じられない。
「おい、真白! 開けろ! 聞こえてるか!?」
声が、思わず強くなる。それでも返事がない。
ノブを握って回そうとするが、扉はびくともしなかった。鍵がかかっているのではない。
心臓に冷たいものが走り抜けた義堂は、逡巡の末にドアノブをつかみ、身体ごとぶつかっていった。 しかし、何かが内側から圧をかけているかのように動かない。
「……ふっざけんなよ!!」
義堂は扉に背を向け、走った。
ほとんど飛ぶようにして階段を下り、土間に降りる。
「くっそ!」
スポーツサンダルを無造作に突っかけ、納戸へと走った。戸を乱暴に開け放つと、壁に立て掛けられた古びた斧が目に入ってくる。義堂はすみやかにそれを掴んでそのまま母屋に戻り、土足で再び階段を駆け上がった。
水に濡れた廊下を踏みしめ、靴音を響かせながら戻ってきた彼は、一言も発さず真白の部屋の前に立ち尽くした。
肩が大きく上下し、荒い呼吸が胸の奥から漏れ出す。
そして、息を深く吸い込み、斧を振り上げた。
振り下ろされた刃が木に食い込み、鈍い音が廊下に響く。
もう一度。もう一度。
やがて扉の蝶番が悲鳴を上げ、軋みとともに崩れ落ちる。
――どっ、と音を立てて、部屋の中から水があふれ出す。
床を流れ出した冷たい水が、義堂の足を濡らした。
水浸しの室内はしんと静まり返っている。布団も蚊帳も、無人のまま。真白の姿は、どこにもない。
「……真白……!?」
湿気を含んだ空気が重く肌にまとわりつく。
そのとき、目に入ってきたのは、壁に掛けられた一枚の絵だった。
義堂の視線が、その絵に吸い寄せられる。
湖畔。桟橋。対岸の洋館――。
「……っ」
そして、絵の中の湖が揺れていた。絵具で描かれたはずの水面が、まるで本物のようにゆらゆらとたゆたっている。
その湖畔に、確かに真白の姿があった。――いや、それだけではない。
傍らには、もうひとり、見知らぬ青年が寄り添うように立っていた。
――動いている。
真白が、ゆっくりと振り返った。
「……うそ、だろ……」
額縁の下の縁からは、じわりと湖水があふれつづけていた。
義堂は、無意識に絵へと手を伸ばした。
指先が湖に触れた瞬間、水の膜を割る感触が手にまとわりつく。
「……真白っ……!」
叫ぶと同時に、義堂の身体は、絵の中へと呑み込まれていった。
◇
その水の中は、想像以上に冷たかった。義堂は暗がりにもまれながら、なんとか水面へ浮かび上がろうと手足を必死に動かした――。そのとき、足首に、ぞっとする感触がまとわりついた。
……ぐっ、と水底へと引かれる。
視界が揺れ、耳の奥まで水が染みこんでくる。
全身が引きずり込まれる直前、義堂は《それ》を見た。
白く細い手。川と肉のない剥き出しの関節がいびつに折れ曲がりながら、義堂の足首を確かに掴んでいた。
動きに乱れはない。
音もなく、ただ確実に、意志を持って――、湖の底へと、引きずり込もうとしていた。
藻のような布が揺らめいている。
水の中の顔は、白骨化した髑髏だった。
眼窩は深く抉れ、口が、ぽっかりと開いていて、まるで何かを言おうとしているかのように顎の骨がかすかに動いた。
義堂は叫び声もあげられず、反射的にその手を蹴り払った。
ごぼり……、と音を立てながら《それ》は遠ざかっていく。肺が痛い。必死に酸素を求める中、義堂はなんとか水面へ顔を出し、大きく息を吸い込んだ。
息も絶え絶えに岸を目指し、湖岸へと泳ぎ着く。
膝をぶつけながらも身をよじり、ようやく桟橋に這い上がる。
湖は、何事もなかったかのように静かだった。だが、自分の足元を見た義堂の表情がこわばった。
右足首にくっきりと痣が残り、鈍い痛みが走る。指の跡は五本――。赤黒く、まるで火傷のように皮膚を焼きつけていた。
桟橋に這い上がった義堂は、しばらくその場でうずくまるようにして息を整えていた。喉が焼けつくように痛み、心臓がどくどくと脈打っている。
それは、この世界がただの幻ではない。確かに存在しているという痕跡だった。
それでも、彼は無言で立ち上がった。
水に濡れたシャツが肌に張り付き、足元のスポーツサンダルはびしょ濡れで、その感触が不快だったが、構わず洋館を目指して歩き出す。
湖畔には深い靄が立ち込めている。
空には相変わらず青白い月が浮かび、まるで時が止まったかのような夜の景色は、熱気を孕んだまま、じっと身を潜めていた。道はぬかるみ何度か滑りそうになりながらも、義堂は痛む右足に力を込める。進むたび、ある確信が揺るぎなく膨らんでいく。
――真白は、この先にいる。
やがて、視界の先、淡く煙るような闇の中に、洋館の影はぼんやりと浮かび上がった。
◇