第二話
◇
翌朝。
義堂は台所で、のんびりと朝食の支度をしていた。
夏休みに入ったばかりだ。
真白が起きてくるのはどうせもっと先だろう――、そう思っていた。
いつもは学校があるから朝の六時半にはきちんと起きていたけれど、休みに入ると何か予定でもない限り、大抵、十時を過ぎても布団にくるまって出て来ない。
まだ高校二年生、十六歳の子供だ。
「そのくらいでちょうどいいんだけどな……」
義堂は口の端で小さく笑いながら味噌汁の火を弱めた。
「味噌は煮えばな……、てな。味噌汁は、煮立てすぎると風味が抜けるって昔から言うけど――、真白、けっこうこういうのうるさいからな」
魚をひっくり返し、個包装の海苔のパックを小皿に置く。
冷蔵庫に入れておけるよう、真白の分の朝食もあらかじめ皿に盛りつけておくつもりだった。支度を終えてたら洗濯をして風呂を掃除して、そのあと、麓のスーパーとドラッグストアにまとめて買い出しへ行かなければならない。
壁の時計はまだ八時を少し過ぎたばかり。
そのときだった。
階段を降りて来る足音が聞こえた。
義堂は一瞬、聞き間違いか? と思ったが、一拍ほど置いて廊下の襖がすっと外側から開いた。
「……あれ、起きたのか? 夏休みモードだと思ってた」
「あー、……うん。なんか、起きた。おはよ」
「おう、おはよう」
現れた真白は、淡い伽羅色のワンピース風ロングスリーパーを着て、後頭部の髪が寝癖でふわりと跳ねていた。
胸元のボタンは留められていない。薄布の襞もところどころ乱れている。明らかに今さっき起きたまま出てきました、といった様子だ。
そして、顔色が――、妙に悪かった。
血の気が引いたように蒼白く、目の下には青い影が落ちている。
言葉こそ普段通りだったが、義堂は即座にそれに気づいた。
「……おい、顔色、やばいぞ。なんかあったか?」
「え? 別に。……ちょっと寝苦しかっただけ。暑かったから」
言葉を濁すような真白の声に、義堂はしばらく目を細めた。
「マジでに大丈夫か? 顔、真っ青っていうか、血の気引いてんぞ」
「……だから、なんでもないって」
真白は座布団に腰を下ろし、座卓の上に肘を乗せて、縁側の奥の庭を見つめた。
いつもなら軽口のひとつも出るはずなのに、今日はそれすら全くない。
義堂は、焼きたての卵焼きと、いい塩梅に焦げ目のついた鮭の切り身を皿に移しながら、その視線の先に言葉にされない何かがあるのを、なんとなく感じ取っていた。
「朝飯、ちゃんと食えよ。食わないと体調、戻らないぞ」
「……うん。食べる」
そう答えた真白の声は、かすかに掠れていた。
義堂はそれ以上は何も聞かず、いつものように笑いながら、茶碗にごはんをよそってテーブルに置いた。
「ま、昼寝でもすりゃ、そのうち元に戻るさ。今日は別にやることもない。のんびりでいいんだから」
真白はその言葉に、わずかに口角を持ち上げた。
しかし、その目には、まだどこか夜の夢の続きを映しているような儚さがにじんでいた。
義堂の炊いたごはんは、ほんのり甘く、湯気の立つ味噌汁には、昨夜の残りの野菜と刻みねぎが浮かんでいた。焼きたての鮭は皮まで香ばしい。卵焼きも、いつもと変わらず、かつおの旨みが効いている。
真白は最初こそ箸の動きが鈍かったが、次第に普段のペースを取り戻し黙々とそれらを口に運んでいった。
義堂は特に話しかけることはせず、真白の食欲が戻っていく様子を見守るように、自分の茶碗を空にしていく。
食べ終えたあと、義堂が「せっかくだ。時間はたんまりあるんだから少し映画でも観ないか」と言い出し、真白はこくんと頷いた。
義堂は立ち上がり、ローボードの横に置いてあったバッグをおもむろに開ける。中には、事前に麓のレンタルショップで借りてきた数本のVHSカセットが並んでいた。
手を伸ばし、迷いつつもホラーでもサスペンスでもない一本を選ぶ。
そのままビデオデッキにカセットを差し込み再生を押すと、ブラウン管にやや褪せた色調の映像が浮かび上がった。
真白は手近にあった座布団を胸元に抱えるようにして立ち上がると、戻って来た義堂の隣に腰を下ろして、そのまま、そっと上半身を傾けて体重を預けた。
「……昔の映画って、画面にちょっと埃っぽさあるよな」
真白が言った。
「でも、なんか落ち着かないか? 音響も」
画面の中では、四人の少年たちが真夏の森を歩いていく。
死体を探しに行く旅なのに、何故か明るくみずみずしい。
あの頃の思い出は、いつも夏のにおいがする――。そんなナレーションが、画面の外の空気に染み込んでいくようだった。
やがて、真白のまぶたはゆっくりと重くなっていった。
「……ちょっとだけ、横になってくる」
ぼそりとそう呟いて立ち上がった真白に、義堂がやわらかな声で声をかけた。
「二階に上がらなくても下でいいだろ」そう言って、義堂は大広間に移動し、布団を手際よく敷いた。天井のフックに蚊帳を吊り下げ、風の通り道も確保し、朝、起きてすぐに納戸で見つけた扇風機もセットする。「これで蒸さないはずだ」
真白はこくりと頷くと、ふらりとした足取りのまま蚊帳をくぐり、布団に身を沈めた。
肌に触れる布地の感触が心地よく、すぐに呼吸がゆっくりと深くなっていく。
穏やかな光の中、真白はあっという間に眠りへと落ちていった。
◇
真白が目を覚ましたのは、真上にあった陽が少し西へと傾きはじめた頃だった。
ぼんやりと天井を見上げたあと、のそりと布団から這い出し、中庭に面した回り廊下へと向かう。
まだうっすら昨夜の夢の残り香のようなものが胸に残っていたが、それも次第に薄れ、ちょうどそのとき耳に入ってきたのは遠くから聞こえてくる車のエンジン音だった。
やがて正面玄関の庭の方からシルビアのタイヤが砂利を踏む音と、フロントドアが閉じられる音が聞こえた。
勝手口の扉が開く。
「たでーまー。けっこう重かったわー……」
義堂の声が屋敷の中に響き、真白は「おかえりー」と小さく返した。
まだ頭が少しぼんやりとする。
義堂は台所へ向かい買ってきた食材を冷蔵庫に収め、トイレットペーパーや洗剤の入った袋を続き部屋の保管庫に詰め込んだ。
「よしっ」
ぱんぱんと手を払ってから大広間までやって来た義堂が、片眉を上げながら真白を見やる。
「起こしちまったか?」
「うううん。さっき起きたとこ」
「そっか。で、ちゃんと寝れたか、坊ちゃん」
そう言いながら、義堂は手にしていたお盆を中庭とは反対側の奥庭に面した縁側にそっと置く。その上には、メロンパンとチョココロネが入った小さな紙袋と、冷えたラムネの瓶が二本――、瓶の表面は、うっすらと汗をかいていた。
「昼、食ってないだろ? 食えそうなら少しだけでも」
「……うん、ありがとう」
「顔色は良くなってるな。ラムネ。キンキンに冷やしてから夜にでも飲もうかと思ったけど、今、開けるか?」
「飲む!」
義堂と真白は縁側へ移動し、軋む板の上に腰を下ろした。
お盆の上から一本のラムネを取り、義堂はビー玉の栓を付属のパーツを使ってぐっと押し込む。
しゅぽん、という軽快な音とともに、泡が勢いよく立ち上った。
「ほら、どうぞ」
手渡されたそれを真白は両手で受け取り、からんとビー玉を鳴らしながら口をつける。
喉に冷たい炭酸が流れ込んでいく。
「うまっ……」
真白がぽつりとこぼすと、義堂は隣で瓶をあおりながら、くっと笑った。
「パンも食っとけよ。コロネはチョコレートクリームが入ってる」
「うん」
ラムネの瓶を両手で持ったまま、真白は小さく頷いた。
ゆるやかな風が吹き抜けていく。
「……あのさ、真白」
「ん?」
「さっき、スーパーの帰りに立ち寄った温泉宿、割といいとこだったぞ。昔の旅館っぽい建物で、女将さんが気さくで。予約なしで日帰り入浴できるっていうからパンフレットもらってきた」
「へぇ、知らなかった」
「父さんと母さんが合流する前に、俺たちだけで一回行っとく?」
「いいね。風呂、でかいとこ入りたい」
「よっしゃ決まり。明日の午後あたり行くか?」
「いいよ」
義堂と真白は、しばらく縁側に並んで座ったまま、ぼんやりとした時間を共有していた。ラムネの瓶から小さな泡が上がっては、すぐに消えていく。
「……ああ、そうだ」
不意に思い出したように、義堂が口を開いた。
「宿の女将さんと少し話したんだけどさ。目の前の湖、ちょっと妙な噂があるらしい」
「噂?」
「昔、想い人を待っていた若い男がいて、結局その相手は帰ってこなくて、悲観した男が湖に身を投げたんだって。しかも、遺体は今も見つかっていない」
「……じいちゃんからは、藻が多いから湖には入らないように、遊泳禁止とは言われて、いつも中庭にビニールプールを出して水を張って遊んでもらってたけど、そんなホラーな噂は聞いたことがないな」
真白はラムネの瓶を両手で持ったまま、そうつぶやいた。
「まあ、ありがちな話っちゃ話だな。ほら、田舎の湖とか池とかって、ひとつはそういう怪談あるだろ?」
義堂はあっけらかんと笑って、瓶の底に残ったラムネをぐっと飲み干した。
けれど、真白の胸の奥には、ぬるい水をそっと注がれたかのような感触が残っていた。
今聞いたばかりのはずなのに、どこかで知っていた――、そんな既視感。
胸に、奇妙なざわめきが広がっていった。
◇
日が沈むと、屋敷の中にもゆっくりと夜の気配が入り込んできた。
その夜の夕食は、軽めに冷やしうどんと、サラダと残りごはんで済ませた。
菓子パンを食べていたせいか、真白はあまり多くは手をつけなかったが、それでも朝よりずっと生気が戻っていた。
「明日は出かけるからな。朝はゆっくりして、昼過ぎに宿に向かえばいい」
「うん」
食事を終えると、義堂は後片付けをすませてから風呂へと向かった。真白は先に入っていたので、濡れた髪をタオルで拭きながら縁側で涼んでいた。
夜風がゆるやかに吹き抜ける。
入れ替わりで風呂から戻った義堂が、扇風機の前に腰を下ろしながら言った。
「明日、宿に着いたらまず風呂だな。あっちの大浴場、きっと気持ちいいぞ」
「楽しみだな」
そう答える真白の声は、朝よりもずっと明るく、柔らかかった。
しばらく風に当たったあと、二人はそれぞれの部屋へ引き上げる。廊下を歩きながら、義堂が真白に声をかけた。
「出かけるんだから、しっかり休めよ」
「うん。おやすみ、ギイ」
「おう。おやすみ」
そして、それぞれの扉を閉めた。
部屋に入った真白は、室内の空気がほんのわずかにひんやりしていることに気づいた。日中の熱気が嘘のように引いて、静けさだけが残っている。
行灯をともし、天井の灯りを落とす。窓のカーテンの隙間から月明かりが差し込んで壁にかけられた絵に、かすかな光が宿った。
真白は蚊帳をめくり、布団に入る。少しだけ身体を横たえた角度から、ちょうどその絵が見えている。
湖畔。対岸の桟橋と洋館。
また呼ばれるかもしれない。
そう感じたときには、もう意識は深く沈み、夢の中へと落ちていた。
次に意識が浮かんだとき、真白はまた玄関の格子戸の前に立っていた。
重く古びた木戸が、ほどなくして音もなく横へと滑っていく。
見覚えのある光景――。しかし、前とは少し違う。
さざめくように波立つ湖面に、浮かんでいたのは、一艘の小舟。
祖父が手入れしていた桟橋の先端に繋がれていたそれは、まるで真白を待っていたかのように、小さくゆらりと揺れていた。
気づけば真白は桟橋を歩いていた。
もう戻れない気がして……、けれど不思議と怖くはない。
足元の木の板がみしっと音を立て、そっと舟に乗り込むと、櫂もないのにそれは音もなくゆっくりと動きはじめた。
遠ざかる岸辺。近づいてくる対岸の洋館。窓には灯りがともっている。
誰かが、いる。
四方八方から伸びてきた手に心臓を掴まれたかのように、真白の胸が締め付けられた。
水面は凪いでいるのに、舟は止まることなく向こう岸へと真っすぐと進んでいる。
現実世界では崩れ落ち朽ちていたはずの対岸の桟橋が、ここでは、まるで時間の流れから守られているかのように木目を湛え艶やかにこちらへと伸びている。
今、目の前にあるこの景色は――、
「絵の中と同じ……」
そう口にしたとたん、空気の感触が変わった気がした。
風が吹き、湖がさざめく。
灰銀の石壁は月光を受けてひっそりと輝き、苔むしたアーチの庇が玄関ポーチに影を落としている。二階のバルコニーには薄布のカーテンが揺れ、ほんの少しだけ室内の気配を覗かせていた。今も誰かがこの館で暮らしている、そんな痕跡が、いたるところに息づいている。
やがて舟が桟橋に吸い寄せられるかのように近づくと、夜に溶け込むように建つ洋館の扉がそっと開いた。
その先に立っていたのは、月明かりに照らされたすらりとした背の高い青年だった。
真白はその姿に、思わず息を呑んだ。
白磁のように滑らかな肌、翳りを帯びた伏し目がちのまなざしに、夜の湖面のような深い光が宿っている。黒髪が額にかかる繊細な顔立ちは、ひっそりとした空気に融けるような涼やかな美しさがあった。
初対面のはずなのに、なぜか懐かしい。
心が震えたのは、冷たい風のせいではない気がした。
青年は微笑み、静かに言った。
「お帰り」
その言葉は、真白の中の何か深いところに、しんと沁み入ってきた。
紡がれた声は、夢にしてはあまりにも温度があり、誰かにとって懐かしい響きを持っていた。けれど、それが真白自身の記憶ではないことを、彼は本能で知っていた。
青年は何も言わず、そっと手を差し出していた。真白は迷わず、その手を取った。
夢の中のはずなのに、触れる感覚があまりにも生々しくて、逆に現実味を失っていく。
玄関の扉をくぐり、館内へと足を踏み入れると、空気がすっと澄みわたり、時間の流れがどこかへ遠ざかったような気がした。
静寂が肌を撫でる。
足元に敷かれた深紅色の絨毯は、ふっくらと厚みを保っていて、踏みしめるたびに柔らかな感触が伝わってくる。そこここに焚かれた香木のかすかな余韻が漂い、どこか言葉にできない、けれど懐かしさを誘った。
すべてが整えられ、丁寧に保たれている――。
まるでこの館自体が、主の暮らしとともに、記憶を内に抱いて息づいているかのようだった。
青年は、真白の手を引いたまま館の奥へとゆっくり進んでいく。
真白はそれに導かれるように歩を進めた。
並んで歩く足音が、しんとした時間の深層へと沈み込んでいく。
目の前の廊下が、果てしなく続いているかのように思えた。
そのたびに、現実の記憶が少しずつ霞んでいくのを、真白は確かに感じていた。
やがて辿り着いたのは、月明かりの差し込む応接間――。
大きな窓からは銀の光が降り注ぎ、部屋全体が淡く照らされている。
暖炉の前には、黒い鋳鉄のシャベルや火かき棒などがすっきりと揃えられたファイヤーツールと、孔雀が羽を広げた姿を模した真鍮のファイアスクリーンが置かれていた。繊細に重なり合う羽根の細工が、揺れる蝋燭の火を受けてかすかに輝いている。その姿は、まるでこの空間に迷い込んだ幻獣のようだった。
傍らには、深紅のビロードのソファとテーブルが据えられていて、そのテーブルの上には、数本の吸い殻が入った銀縁の灰皿とマッチ箱、そしてティーポットと二客のティーカップが、まるで静物画のように並んでいる。
真白は目を丸くしながら、きょろきょろと室内を見回していた。見知らぬはずの部屋に、どうしようもなく懐かしいものを探すかのように。
その様子を見て青年はふっと笑うと、ズボンのポケットから煙草を取り出し口にくわえ、マッチ箱を手に取り一本取り出してシュッと火を点けた。
小さな炎が一瞬、彼の横顔を照らす。それから燃えさしを軽く振って火を消すと、青年はマッチを傍らの灰皿に無造作に放り、小首をかしげ、首筋に手を添えながら、ふう、と煙を吐き出した。
「……変わっていないだろう?」
青年の瞳は、懐かしい誰かを見るように真白を見つめていた。
「白斗くんが遊びに来ていた頃のままだよ」
その声を聞いたとき、真白の胸がどくんと大きく鳴った。
白斗。
青年が口にしたのは、祖父の名――。
その声音は、驚くほど優しく、まるで夢の奥で幾度も耳にしてきたような懐かしさを帯びていた。
一瞬、自分のことを呼ばれたのだとは思えず、真白は返事をするのが遅れた。
けれど次の瞬間には、その名が、確かにこの場にいる真白へ向けられたものであることを、心の中で、なぜか疑いようもなく理解していた。
青年のまなざしが、ふと緩む。
煙草を手に、蝋燭の灯りに頬を照らされながら、彼は言った。
「……また来てくれるなんて思わなかった。また会えるなんて思ってもみなかった」
真白は、どう答えたらよいのかわからず、けれども自然に口が動いていた。
「……久しぶり、って、言うべき……なのかな?」
「うん。久しぶり。僕にはもう、どれくらい時が経ったのかわからないけれど……」
空恐ろしいほど美しい青年の笑みには、かすかな痛みのようなものがあった。
「座って」
青年は、煙草をゆるやかにくゆらせたまま灰皿に置いた。赤い火はまだかすかに灯っている。
促された真白がソファに腰を下ろす。ふかりと身体が沈み込む感触は、現実と変わらない。
「まだ手を付けていないんだ。熱くはないけれど、香りだけは、覚えているはず」
湯気の立たない紅茶のカップを青年がそっと差し出す。
カミツレのほのかな香りが、真白の鼻腔をくすぐった。
「この香り……」
どこで感じたのか思い出せないまま、ただ、胸の奥のやわらかな部分がじんわりと熱くなる。
真白はカップを口元へ運び、一口、口に含んだ。ぬるんだ液体が喉を滑り降りるとともに、ふいに涙腺がじんと熱くなる。
思い出せないはずの記憶の端っこに、そっと指が触れたような気がした。
「白斗くん。君が来てくれる夢を、何度も何度も見たんだ。もう会えないと思ってたから……。本当に、嬉しい」
そう言って青年は微笑んだ。
その声が真白の耳にやさしく流れ込んでくるたびに、自分が誰なのかが少しだけ曖昧になっていく。
真白という名前の重みが、薄紙のように剥がれはじめているような感覚――。だけど、それを恐れてはいなかった。
「俺は……」
何かを言おうとした真白の言葉が、そこでふと止まった。
青年が、まるで過去に戻ったような声で、ゆっくりと語り出したからだった。
「……あの夜のこと、覚えてるかい? 君が戦地へ行く前の日。ここで言ってくれたことを」
真白は黙って首を振る。
言っていない。自分は何も知らない――、そう思うのに、心のでこかで懐かしさがざわつく。
「……もしも帰って来ることができたなら、必ず会いに来るって、君は言った」
青年はそう言って、目を伏せた。
「僕はここに残るしかなかった。子供の頃の事故で足を悪くしているからね。歩くことはできても、走れない。徴兵検査では、それだけで不合格だった。……戦える身体じゃないって。あの夜から、ここで絵を描いていたよ。いつか君が「ただいま」ってドアを開ける日を夢を見ながら」
青年は、ずっと待っていたのだ。何十年もの時を。
そして今、自分に祖父の姿を見て――、その続きを、ようやく紡ぎ出そうとしている。
真白の喉の奥で、熱い何かがこみあげる。けれどそれが借りものの記憶なのか、なんなのか、自分でも判別がつかない。
「……なのに、君が戦地で亡くなったって知らせが届いた。あれからしばらく、僕は……、自分を見失っていたんだ。君がもう二度と戻らないなら、僕がこの世界に存在する意味なんてこれっぽっちもないと、本気で思った。思って……、」
――僕は館に火を放ってから、湖に……。
「……え?」
不意に言葉が途切れたせいか、それとも、かすかに聞こえた言葉があまりにも現実離れしていたせいか、真白は思わず聞き返してしまった。
けれど青年は、そのまま小さくかぶりを振って笑い、視線をそらした。
「いや、何でもない。冗談だよ。――館はこうして今もここにある。僕もここに居る」
青年は息を吸って、真白をまっすぐに見つめた。
「そして、白斗くんは、やっと帰って来てくれた」
戦地で亡くなった、――その言葉を聞いて、真白の心にふとした違和感が浮かんだ。
父の言葉が、薄れつつある記憶の底でじわりと浮かび上がる。
祖父、白斗は戦地で一時は死亡したと伝えられたが、生きて戻ってきた、と。
彼は、そのことを知らない。
思わず顔を上げると、青年は穏やかな目でこちらを見ていた。
真白の胸に、言い知れぬ痛みが広がる。
彼の過ごした時間と、現実世界の歴史とが、どこかで噛み合っていない。
それでも、青年の心の中では、白斗は帰ってきたのだ――。真白という姿で。
言葉にできない想いが、体中にじわりと広がっていく。
やがて青年は立ち上がり、灰皿の縁に置いていた煙草を指先でつまむと、ゆっくりと押し潰すようにもみ消した。薄く残った煙がふわりと立ち昇り、空気に溶けていく。
「行こう、白斗くん。君に見せたいものがある」
差し出された手に、真白は迷いなく自分の指を重ねた。
青年に手を引かれたまま、真白は応接間をあとにし、廊下を歩いていた。廊下の壁には蝋燭の灯りが等間隔に並び、月光とゆれる炎が織りなす影が、二人の足元をそっとなぞっていく。
やがて両開きの扉の前で立ち止まった青年が、その片方に手をかけた。音もなく開かれたその先には、壁際に並ぶ画材棚、イーゼルに据えられた描きかけの風景画があり、絵具と古びた紙の、かすかな匂いが漂っていた。
「……アトリエだよ」
真白の目が吸い寄せられたのは、正面の壁に並んだ二枚の肖像画だった。
ひとつは青年のもので、頬に落ちる影、穏やかな線で描かれたまなざしは、まるで今、目の前に立っている彼の息遣いをそのまま写し取り、閉じ込めたかのようだった。
もう一枚には、若き日の白斗がいた。
細部が、雰囲気が……、あまりにも真白に似ている。
「完成していて驚いた? 君が出兵したときは、まだ未完だったからね」
沈黙のなか、真白はぽつりと声を落とした。
「……名前、教えてくれる?」
青年がゆっくりと振り向く。
「……どうしたの? 前みたいに、創一さんって呼んでくれないの?」
真白の喉がひくりと動いた。思いがけず受け取ったその名前が、知らないはずなのに懐かしい――、そんな響きだった。
「……創一……、さん」
そう呼んだ自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。まるで、その響きが、自分自身のものではないように。
創一は真白の手をそっと取った。
「そう、それでいい」
蝋燭の灯りが二人の影をひとつに重ねる。真白はふと、ここが夢の中であることも、現実がどこにあるのかも、ほんの少しずつ曖昧になってきているのを感じていた。
◇