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第一話

 夏休みに入った翌日、高校二年の真白(ましろ)は、大学三年の兄、義堂(ぎどう)とともに、湖畔に建つ誰もいない祖父の屋敷へと向かっていた。


 二人は兄弟――、とはいえ血のつながりはない。

 義堂は、真白の父が再婚した相手の連れ子で、いわゆる義理の兄にあたる。それでも出会ってからもう五年以上が過ぎ、今では実の兄弟以上に気心が知れた関係になっていた。

 長く一緒に暮らしてきた家族だけが持つ、自然な距離感と気安さ、それが、義堂と真白とのあいだには確かにあった。他の誰とも置き換えがきかない、家族としての形を持って。


 本来なら両親も一緒に来るはずだったが、父も母も予定外の仕事が入り、結局、「先に行って風を通しておいてくれ」とだけ告げられ、一足早く二人だけで出発することになったのだ。


 義堂の運転する愛車、濃い灰色の日産シルビアは、緑に包まれた山道を滑るように登っていく。丁寧にワックスがかけられ磨かれた車体は、しっとりとした光沢を帯び、窓の向こうの景色を映していた。

 日差しは強く、空は果てしなく青かったが、すり抜ける風はどこか涼しげで、街中の夏とは違う顔を見せていた。

 道中、車窓を流れていく緑の色が、標高の上昇とともに深くなっていく。

 葉擦れの音が時折、耳に届き、やがて視界の先、山の稜線(りょうせん)の合間に、水面(みなも)のきらめきがふっと覗いた。


 森に抱かれるようにして、ひっそりと横たわる小さな湖。

 そのほとりに、九条家の古びた屋敷が、眠るように(たたず)んでいた。


 屋敷は、かつて祖父、九条白斗(くじょう はくと)が晩年を過ごした場所だった。

 もともとは九条家の避暑地で、白斗は毎年、夏になると必ずここを訪れていた。

 終戦直後にしばらく家族で住んだのち、東京へ戻ったが、仕事を引退してからは再びこの地に腰を落ち着け、ここで人生を閉じた。

 今では、訪れる者もいない。


「……静かすぎて、逆に不気味だな。耳を澄ませても蝉の声ひとつ聞こえない」

 庭に車を停めた義堂が、細く長い指で軽くハンドルを撫でながら呟いた。肩を過ぎて伸びた黒髪は後頭部の高い位置でざっくりと無造作に束ねられ、緩んだ前髪の毛先がふわりと頬にかかっている。

「このへん、標高八百メートル超えてるから。蝉、そもそも生息しないんじゃないかな」

「……物知りだな、真白」

「じーちゃんが言ってた」


 屋根は黒ずみ、外壁には蔦が絡まっている。まるでこの一帯が、時間ごと湖の底に沈んでいたかのような湿った気配がそこら中に漂っていた。


「それより、スーパーで買ったやつ早く冷蔵庫に入れないと!」

 助手席の真白がちらりと義堂を見る。

「……って、冷蔵庫って使えるのか? そもそも、電気は通ってんのか、この家?」

「失礼だなあ。通ってるよ。プロパンガスも父さんがちゃんと手配してくれた」

「へぇ、流石、抜かりがない」


 車を降りると、むっとするような湿気が肌にまとわりついた。

 玄関までの石畳は、ところどころ苔が濃くむしている。

 真白はポケットから鍵束を取り出すと、そのうちの一本を錠穴に差し込んだ。


 ――カチリ。


 (じょう)が外れる音がしてから、真白は両手で木枠を掴んだ。

「開けようか?」

 背後から義堂の声がする。

「……肩にスポーツバッグ、右手にもバッグ、背中にリュック、左手にクーラーボックス。それでどうやって開ける気?」

 真白が嫌味っぽい半眼を向けると、義堂は苦笑した。

「じゃあいったん、荷物を車に戻してぇ――」

「あー、めんどくせぇ」

 真白は、内側から分厚い板が張られた見るからに重そうな格子戸を、ぐっと横に引いた。鈍い音を立てながら、木戸がわずかにきしみ、わずかに揺れる。体重をかけ、真白がさらにぐいと力を込めた。


 ――ギギ……ギ……。


 木と木がこすれ合う苦しげな音が玄関に響いた。ようやく動いた戸の中から、ひんやりとした空気が流れ出る。湿り気と、閉じられていた空間特有の埃の匂いが鼻をかすめた。

「……重てぇ……」

 少しだけ斜めに差し込む陽の光が真白の横顔に落ちている。

 透きとおるような肌、くっきりとした二重、伏せた長いまつげが落とす繊細な影――。

 誰が見ても整っていると言わざるを得ない顔立ちだった。けれど、その容貌に見合うほど、性格までもおとなしく上品かというと、そうではない。

 どちらかといえば短気で、遠慮なく言葉をぶつけるタイプだ。年相応の軽口も多く、物言いにはどこか青さが混じっている。

 見た目の印象と、内に秘めた等身大の高校生らしさ。そのギャップに、最初は戸惑う人もいるかもしれない。だがそれもまた、真白という人間の輪郭を形づくる、大事な一部だった。


「この玄関扉、もうダメだな。勝手口は古いけど開閉式のドアだから今後はあっちを使ったほうがいい。どうやらこの閉めっぱなし感半端ない様子だと、たまに来る管理業者さんも勝手口から入っているみたいだし」

 敷居をまたぎ、十畳以上はあると思われる三和土(たたき)に足を踏み入れる。

「……なんか、湿ってんな、すごく。まあ、湖がすぐそこにあるんだから仕方ないか」義堂は、透かし彫りの木製衝立が据えられた上がり框に荷物を置きながら辺りを見回した。「つーか、思ったより玄関、広れぇー、つーか、家が広れぇ……、旅館かよ」

 背の低い衝立は格子のような桟が組まれ、中央には花のような意匠が彫り抜かれている。年月を経て飴色に変わった木肌は、古い家屋の空気と調和し凛とした気配を纏っていて、来客の目隠しとしての役目はとうに終えているはずなのにそこにあるだけで空間が「家」としての矜持(きょうじ)を保っている気がした。

「これは通り土間っていうんだ。古い日本家屋ってこんなもんだろ」真白は、靴を脱ぎながら廊下の奥へと目をやった。突き当たりには昔よく遊んだ大広間がある。「ここに来るの、久しぶり」


 今回の旅は、真白の父、九条白哉が突然言い出した一言から始まった。

「この夏は、父――、白斗の七回忌にあたる節目だから、家族で湖畔の屋敷に滞在しよう」と。


「俺、部屋の空気抜いてくる。ギイは先に冷蔵庫に食料入れて、それから二階に俺の荷物持ってきて。父さんが(ふもと)の知り合いに連絡して、急きょ、別注で庭の草刈りと、あとは、寝室とキッチンと、取り合えず使いそうなところだけは綺麗に掃除してもらったらしいんだけど……、新しい寝具も手配してあるって。ただ、一応、陽が落ちる前にその布団は一度干しときたい」

「確かに」

「んじゃ、頼んだ!」

「あっ、待て真白! キッチンどこだ!? 俺、ここに来るの初めてだぞ!」

 義堂の声に、すでに廊下を駆け出していた真白が振り返ることなく片手を上げた。

「右の奥ー!」

 それだけ言い残し、玄関脇の廊下を走っていく。

「……ざっくりだなあ」

 小さくぼやく声が背後から聞こえたが、そのとき、真白はもう廊下の向こうに消えていた。


 外気と閉ざされた家屋の気配が混じり合う空間を真白が抜けていくたび、どこか懐かしい空気が肌を包んだ。古びた障子を開けてまわり、客間の窓を解放し、仏間の雨戸を引き、風を通す。埃っぽい畳の香りが風に乗って外へと逃げていく。


 階段を上がり、二階の一番突き当たりの部屋へ足を踏み入れた真白は、窓辺へまっすぐに歩み寄り、分厚いカーテンを両手で引いた。

 その瞬間、目の前に広がった光景に、思わず息をのむ。

 窓の向こう、森に抱かれた湖面が、夕暮れの柔らかな光を映し輝いていた。水面(みなも)は、淡い金糸銀糸で折られた絹布(けんぷ)反物(たんもの)を交互に敷き詰めたかのように、滑らかにたゆたっている。


 時間が止まったかのような、現実とは思えないほど澄んだ景色。

 まるで夢の中に迷い込んだかのようだった。


 この部屋は、元々は祖父が使っていた部屋で、真白が今回の旅行で自分の寝室に使おうと思っていた。

 屋敷の中でいちばん眺めがよく、窓からは湖が一望できる。幼い頃から、真白はここから見える景色が一番好きだった。


 ふと反対側の壁を見ると、古びた木枠に収められた一枚の油絵が掛けられていた。

 幻想的な夜の湖。

 猫の爪のように鋭く細い月が、高く澄んだ夜空にかかり、その光が薄(もや)に包まれた湖面に静かに落ちている。

 奥には、青白い光を纏った洋風の建物がぼんやりと浮かび、手前には、水面へと滑り込むように一本の桟橋が伸びていた。


「……この洋館……?」


 真白は小さく首をかしげた。こんな絵は、以前から見た覚えがない。

 もしかしたら、掃除に来た麓の知り合いが、納戸か押し入れから見つけて気まぐれに飾っていったのかもしれない。

 しかし、湖のほとりには、この祖父の屋敷と祖父が手入れしていた桟橋が今も真っ直ぐ湖面へと伸びているが、対岸には、朽ちて半ば水に沈みかけている桟橋があるだけで、それ以外の建物など、真白の記憶にはなかった。だが、なぜか心がざわついた。

 見覚えはない。

 けれど、奇妙な既視感のようなものが胸の奥底に広がっていく。


 もう一度、窓の外に目を向けた。


 洋館など、影すらもなかった。

 祖父が亡くなるまで毎年のようにこの屋敷で短期間、夏を過ごしていた真白には、それが確かにわかる。


「でも、どう見てもこの絵、うちの敷地から描いてる景色なんだよな……」


 つぶやいてから、真白は再び油絵に視線を戻した。

 湖や木々は、まさに、いま目の前に広がる風景と同じだった。


 けれど、現実に()()()()()()()()()が描かれている。


 この(やかた)は、いつの時代に存在していたものなのだろう。それとも、幻想なのか。――もうひとつの世界が、キャンバスに封じられているかのように。


 ふと、絵の右下の片隅に視線を落とすと、かすかにサインが読み取れた。


 ──Hakuto Kujo


 祖父の名だった。


 真白の祖父、九条白斗(くじょうはくと)は、戦前、趣味で油絵を描いていた。戦後は筆を置いていたが、晩年、この屋敷で再び絵を描くようになったのだと、父から聞いたことがある。


 これは、いつ頃の作品なのだろう……。


 真白は絵の前で立ち止まり、しばし目を逸らすことができなかった。気がつけば無意識に手を伸ばし、祖父のサインにそっと指で触れていた。かすかに浮き上がった絵の具の感触が、指先にぬくもりのように残った。


「真白ー? お前の荷物、どこ置くー?」

 階下から義堂の声が聞こえてきて、真白がはっと我に返る。

「あ、ここー、二階の奥の部屋ー!」


 まもなくして義堂が、真白のスポーツバッグとリュックを抱え、階段を上がってきてどさりと畳の上にそれらを置き、壁に掛けられた絵を見つけて目を細めた。

「へえ……、これ、そこの湖じゃないのか?」

 真白は頷きながら、絵の右下を指さした。

「見てここ、じーちゃんのサイン!」

「あ、ほんとだ。えー、すげぇ」

 義堂の言葉に、真白は少し誇らしげに笑った。

「なんか、これ……、俺、好きだな」

 何気なく呟いた自分の声が、自分自身のものではなかったかのように感じ少し驚く。

 絵の中の湖は、今まさに窓の向こうに広がる湖とそっくりだった。けれど、どこか(うつつ)と幻の(あわい)に滲むような夜の気配の深みがあった。


 ――今、絵の中の水面(すいめん)が揺れた?


 ふいに、そんな錯覚を覚えた。だが、次の瞬間には、それがただの光の反射だったようにも思える。


「……気のせい、かな」

 そう小さく呟いた真白の背後で、義堂が欠伸(あくび)まじりに伸びをした。

「じゃ、飯の準備、すっか。パーキングエリアで食った昼飯、時間、早かったしなあ」

 義堂が腹をさすりながら言うと、真白は窓の外に目をやりうっすらと茜に染まりはじめた空を見詰めた。

「……それより、布団! 先に干したい。山は陽が暮れるのが早いから陽のあるうちにやっとかないと」

「マジか。せっかく飯の下ごしらえモードだったのに……」

「すぐ終わる。俺、干す場所案内するから」

「……はいはい、お兄ちゃんは可愛い弟のため、労働しますよっと」

 義堂は肩をすくめながらも、文句を言わず、先に扉のほうへと歩き出す。

 真白はその背を追いながら、ふと、もう一度だけ壁の絵に目を向けた。

 絵の中の湖は、やはりどこか現実のそれよりも静かで、深く、閉ざされたような印象を帯びていた。


 胸の奥にかすかに残る、名前のつけられないざわめき――、それを振り払うように、真白はひとつ息をつくいてからその部屋を後にした。





 二人して一階へと降りると、真白は軒先の縁側に出て、届けられていた敷布団を干しはじめた。

 父の伝言通り、それらはすべて新品で、畳まれた状態で大広間の中央に置かれていた。シーツやタオルケットも、クリーニング済みのものが袋に入ったまま揃っており、薄紙のタグがまだついている。

 真白は義堂と手分けして、それらを縁側に運び出し、陽が強すぎない場所を選んで干していく。

 途中、義堂がふと何かを手に取って首をかしげた。

「……なあ、真白?」

「ん? 何?」

「これ、蚊帳(かや)じゃね?」

 義堂の問いかけに真白が振り向くと、淡い緑の目の細かい布が丁寧に折りたたまれていた。

「うわ、ほんとだ!」

「俺、昔、サッカーチームの夏合宿で一回だけ使ったことがあるんだ。中に入るとなんか秘密基地っぽくてちょっとワクワクすんだよ」

「今夜、張ってみる?」

「決まりだな!」

 義堂と真白は、ちょっとした宝物でも見つけたように、目を合わせてふっと笑いあった。

 布団を干し終えると、スーパーで買ってきた食材を広げ、夕食の下準備に取りかかる。

 地元産の野菜をざくざくと刻む音や、湯の沸く音が台所に響き、ゆるやかに日が傾いていく。やがて外の光が和らぎはじめたころ、干していた布団を取り込み、それぞれの部屋へと運び込んだ。


 そのあとは、義堂が台所で手際よく夕食を用意した。

 冷凍の和風ハンバーグを湯煎しながら、下ごしらえした野菜を炒め物と味噌汁に仕上げていく。

 一方で、パックごはんのレンチンは真白の担当だった。

「玄関開けたら二分でご飯……、玄関開けたら二分でご飯……」

 真白が電子レンジの前でぼそぼそ呟いていると、義堂が吹き出しかけながら振り返った。

「なにそれ。CMかよ」

「いや、なんか……、言いたくなるじゃん」

 真白が照れ隠しのように笑うと、義堂もくすっと喉の奥で笑った。

 分担して動くうち、あっという間に簡単なプレートディナーが整う。

 湯気の立つ皿とスーパードライの缶ビール、それに真白用の冷たい麦茶が、茶の間の中央に据えられた座卓に並べられた。

 その座卓は、無垢の一枚板から切り出された節や木目が生きたままのような造りで、木の縁は自然の曲線を残していた。滑らかに磨かれた表面には、時折りわずかな傷も見えたが、それすらこの家の時間の流れを物語っているようだった。

 食卓というより、古道具のような風格すら漂うその上に、夕暮れの色が少しずつ落ちてゆく。

 義堂が「これ邪魔だな」と呟きながら、卓上に置きっぱなしだった大きな灰皿を脇にどけた。

 義堂も真白も、二人とも煙草は吸わない。

 じいちゃんが使っていたものだ……、と真白は箸を手に取りながら思い出す。縁に小さな欠けがひとつあって、それすらも妙に見慣れた形だった。

「なんかさあ、引っ越し初日の簡単メシって感じだな」

 義堂が胡座をかき、缶ビールを片手に笑いながらぽつりとつぶやいた。真白を見やる視線に、やわらかい灯がともる。冗談めいた口調の裏に、気遣うような温もりがにじんでいた。

「別にいいよ。これくらいが、ちょうど落ち着く」

 真白はそう言って、少し目を細める。

「んじゃ、いただきます」

「いただきます」

 天板の木目を縫うように、二人の箸が伸びる。天井から吊るされたラタン編みのランプシェードが、柔らかな光を食卓に落としていた。編み目を通してこぼれる灯りが、義堂と真白の肩にやさしい影とぬくもりを宿す。

 窓の外はすでに闇が降りていて、風の音がまだ慣れない山の夜を運んできていた。

「なあ、真白」

「ん?」

「……こういうの、悪くないなって思って」

 義堂の声は、思ったよりも静かだった。真白は答えずに、味噌汁を口に含んで飲み込んだあと、ひと呼吸おいて小さくうなずいた。





 食事を終えると、義堂が食器を洗い、真白が拭いて片づけた。

 それから風呂の湯が沸くまでのあいだ、なんとなくテレビでも見るか、と義堂が提案し、真白と共に茶の間へと戻る。

 黒と朱のコントラストが印象的な民芸調のローボードの上に、奥行きのある古いブラウン管のテレビが据えられていた。ボードの引き出しには、時代の重みを感じさせる鉄の取っ手がついており、その風合いが空間に馴染んでいる。


 真白がリモコンを押すと、テレビは、じり……と低い音を立てながらゆっくりと画面を明るくした。ローカル局のニュースが終わり、映し出されたのは賑やかな音楽と共に始まった人気お笑い番組──、『オレたちひょうきん族』。

 ドタバタとしたやり取りに過剰な効果音、雑多でケレン味たっぷりの演出。

 画面の中では、タケちゃんマンとブラックデビルたちが派手な扮装で体を張って笑いを取っている。

 義堂と真白は座卓の角を挟んで座り、それを眺めていた。芸人の大げさなリアクションに義堂が「いや、それはやりすぎだろ」と苦笑し、真白が「たぶん、打ち合わせと台本通り」と小さく笑う。


 そのときだった。


 画面が唐突にノイズを走らせ、ピリピリと乱れた横縞が数秒だけ現れる。番組の音声もぷつんと切れ、代わりになぜか水の滴るような音がテレビから一瞬だけ漏れた。

 台所からではなく、確かにテレビのスピーカーから。


 ……ぽちゃん。


 真白が少し眉をひそめ、「今……、なんか音が……」とつぶやいたときには、すでに画面は元に戻っており、芸人の甲高い引き笑いがいつも通りに流れていた。


「……ん? 気のせいじゃね?」

 義堂がそう言って軽く肩をすくめると、真白は「だよなぁ……」と呟いて、特にそれ以上は追及しなかった。


 やがて、卓上にセットしておいたタイマーが控えめに鳴りはじめた。

「沸いたと思う。先、風呂入っていいよ」

 真白はそう言って、手元のボタンを押し電子音を止めた。

 義堂は「じゃ、遠慮なく」と笑い、立ち上がって浴室へと向かう。

 やがて、カラカラと引き戸が開閉する音がして、その後すぐに、水の落ちる柔らかな音が遠くからかすかに響いてきた。


 真白は麦茶の残りを飲み干し、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。

 内容が頭に入ってくるでもなく、ただ映像と音が流れてくるのを見つめている。

 窓の外は、すでに夜の闇に深く沈んでいた。都会には必ずあった遠くの車の音も人の気配も、ここにはない。木々も空も、すべてが黒い影に溶け込み、景色というより輪郭だけがそこにある。

 ガラスに映る自分の姿と、窓の向こうの景色とがひとつに重なる。ここは現実になのか、幻想なのか、それすらも分からなくなってしまうような気がして、真白はそっとまばたきをし、静寂に抵抗するかのようにリモコンの音量ボタンをひとつ押した。


 半時間ほどして風呂から戻ってきた義堂は、濡れた黒髪を無造作に乱したまま、首にタオルを掛けていた。

 上半身は裸で、細身の体には無駄のない筋肉が浮かび、ところどころにまだ水滴が残っている。

 その肌からは、湯気がほんのり立ちのぼっていた。

 母親譲りの整った顔立ちは、こうして何も飾らないときほど目を引く。伏し目がちの横顔はどこか儚く、濡れた前髪の隙間から覗く切れ長の目が、妙に色気を帯びている。

 真白は、ちらりと視線を向け、それから少しだけ目を逸らした。

「湯、ぬるめにしといた」

 義堂が、何気なく声をかける。

「……サンキュ」

 真白は短く返すと、立ち上がってそのまま浴室へと向かった。


 脱衣所に入ると、木の香りが鼻をかすめた。床板は少しきしむが、その上に(とう)のタイルが敷かれていて、裸足にやさしい。

 服を脱いで浴室に入り、身体を洗ってからゆっくりと湯船に浸かる。ぬるめの湯が肩まで包みこみ、真白は長く息を吐く。

 浴室の窓を開けると、湯気の向こうにかすかに湖が見えた。

 水は、どこか吸い込まれそうなほど静かで暗い。

 真白は、湯の中でそっとまぶたを閉じる。

 なぜか胸の奥が騒いでいた。


 古びた絵と、洋館と、湖と――。


 思い出せない何かが、そこにある気がしてならなかった。





 その夜、義堂と真白は別々の部屋で眠ることになった。

「一緒に大広間で寝ようぜ。あそこなら布団も二組どころか十組ぐらい敷けそうだし」

 と義堂が気軽に言うと、真白は笑って首を横に振った。

「修学旅行かよ。つーか、もう二階に蚊帳張って布団敷いたじゃないか。それと、ギイは昼間、長時間運転して疲れてるだろ。ちゃんとゆっくり休めよ」

 それでも義堂は、「別にそんな疲れてねぇよ。布団なら、二組大広間に残ってるし。折角、トランプと花札とオセロ盤も持ってきたのに」とぶつぶつ言いながらも、最後には少しだけ肩をすくめ、観念したように、「……わかったよ」とうなずいた。


 そのあと、二人は洗面所で並んで歯を磨いた。

 鏡の中、義堂は口を泡だらけにしながらも、どこか楽しげな顔をしていた。

 真白はその様子をちらりと見て、肩の力を抜き、ふっと息を漏らす。

「ギイ、何笑ってんの?」

「別に。なんか、懐かしいなって」

「何が?」

「こうして一緒に歯磨くの。昔、ほら、母さんたちが結婚して俺たちが一緒に住み始めた頃、よくやってたじゃん」

「……ああ、そうかもな」

 義堂が軽く口をすすいでタオルで口元を拭き、真白の方に視線を流す。

「んじゃ、寝るか」

「ん」


 階段を上がる二人分の足音が、古びた木の段をしんしんと伝い、夜の家に溶けていった。


「なあ、真白?」

 義堂が部屋の前まで来たとき、ふと立ち止まりいたずらっぽく笑った。

「なに?」

「もし一人で寝るのが怖かったら、すぐにギイ兄ちゃんを起こすんだぞ! 朝までオセロに付き合ってやる」

「……この過保護めっ」

 呆れながらも真白は笑って、突き当りの部屋へと廊下を歩いていった。

 扉の前で足を止め、ノブに手をかけたそのとき、何気なく肩越しに振り返る。

 義堂はまだ自室の前に立ち、こちらを見ていた。

 目が合うと、彼はくしゃりと笑って、ほんのわずかにあごを引き軽く手を振る。

「おやすみ、真白」

「……おやすみ、ギイ」

 そう言って微笑むと、義堂と真白はそれぞれの部屋の中へと入っていった。





 真白は布団に入ってからもしばらく目を閉じず、蚊帳(かや)越しに天井を見つめていた。

 別に、枕が変わると眠れないというタイプではない。旅先でもすぐに寝つくほうだし神経質な性格でもない。

 けれど、この夜は何かが引っかかっていた。

 理由ははっきりしない。ただ、心の奥にごく小さな異物が沈んでいるような――、それが眠りの入り口でそっと阻んでいる。そんな感覚だった。


 部屋の隅では、竹細工の行灯がほのかに灯っており、縦格子越しにこぼれる淡い光が壁に陰影を落とす。室内に、掛け時計の秒針だけが規則正しく、乾いた音を刻んでいた。

 カチ、カチ、カチ……と、まるで時間そのものが部屋の静けさを切り分けるように。

 耳を澄ませば、折々り軋む木造家屋の音と、風が木々を渡る音が混ざって聞こえてきた。

 そのどれもが、遠くて、近い。まるで夢と現実の境目が、最初から曖昧だったかのように。


 やがて、いつしか意識がゆるみ、真白はゆっくりと浅い夢の中へと沈んでいった。


 ――気が付けば、真白は屋敷の通り土間に立っていた。

 重くてきしむ格子戸がすぐ目の前にある。

 間を置かずして、その木戸は手を触れずとも、まるで(あるじ)(うやうや)しく送り出す意図を持っているかのように、すーっと横へと滑っていく。

 それは、不気味なほどにぬめらかで、生きものめいてさえ感じられた。


 そして、開け放たれた戸の向こうに、あの絵に描かれていた風景が、まるで現実の延長のように広がっていた。


 仄暗い空気。

 深い(もや)が漂う中、湖の水面(みなも)は鏡のように凪ぎ、向こう岸の森は影絵のように沈黙している。

 空には雲ひとつなく、それでいてどこか曇っているような、不思議な灰青の色をしていた。


 草花すらも、絵筆で塗られたもののようにどこか実感が薄く、けれど一歩踏み出せば、足裏にはちゃんとひんやりとした土の湿り気が伝わってくる。


 真白はその光景をただ見つめていた。


 そこに広がっているのは、かつて祖父の描いた『風景画』――、壁に掛けられた絵の中の場所。

 だが、今は違った。

 目前の景色は、夢というよりも、『向こう側』としか呼べないような、現実とは別の論理で成り立った世界だった。


 ふと、対岸の館から、何者かがこちらを見ているような気がした。


 ――これは夢だ。


 そう自覚した途端、真白の足が、勝手に湖のほうへと動き出した。

 湖は、底があるのかさえわからないほどに暗い。それでも真白は、そのまま、何かに引かれるように一歩一歩前進し、桟橋に足をかけた。


 ――ここから先は、行ってはいけない。


 思った瞬間、不意に、()()()()()の窓に灯りがともった。


 ――誰かがいる。


 直後、息が詰まり、全身が固まる。


 そして――、


「……うっ!」


 真白は跳ね起きた。

 何故か行灯の明かりが消え、部屋は闇に沈んでいた。

 息が荒く喉がひりついている。冷たい汗が額をつたって首元の布団を湿らせていた。


 まだ夜のはずだ――、そんな確信だけを頼りに手探りで布団を押しのける。

 床がきしむ音がやけに大きく耳に響いた。


 真白は窓際まで歩き、カーテンをゆっくりと開けた。湖の水面が、わずかに月明かりを拾ってぬるく光っている。

 しかし、その向こう岸には、夢の中で見たはずの洋館はやはりどこにもなかった。

 風が一度だけ窓を鳴らした。

 真白は胸に手を当て、しばらく動けずにいた。


 あの夢、……いや、あれは夢だったのか?


 遠ざかるようで、内側から近づいてくるような、不思議な感覚。

 そして、確かに感じた。

 あの窓の向こうに――、『誰か』がいた。



お越しいただき、ありがとうございます。


本日より、一週間連続で投稿し七話で完結予定の《「夏のホラー2025」のテーマは「水」》参加作品となります。

(* ᴗ ᴗ)⁾⁾. (♥︎︎ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾ 宜しくお願い致します。

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