File:089 拷問
1.6万PVありがとうございます。
旧網走刑務所への到着が遅れたのは、偶然ではない。
シュウとジュウシロウの救出作戦と並行して捜索を進めてはいたが、ケンと前崎が既にそこまで移動しているとは予想していなかった。
それは前崎がケンを嵌めるためであったが。
そのため捜索は後手に回り、時間を浪費した。
さらに、東京拘置所に自ら展開したEMPが災いした。
電子機器はほぼ沈黙し、即時転送も不可能に。
だから選べる手段は——航空機からのパラシュート降下のみ。
さらにS.G.からソウが転送されても、状況は劇的には好転しなかった。
地上に降り立った後、偶然見つけた切り倒された木が唯一の手掛かりとなった。
あれがなければ、発見はさらに遅れ、結末はもっと悲惨だっただろう。
結局それは間に合わなかったが。
『……どこまで私の足を引っ張る。』
唇から零れた言葉は、怒りよりも苦味を帯びていた。
脳裏に浮かぶのは、かつての同志——今は豹変し、敵となった友の顔。
アレイスター対策はすでに整えてある。
次こそ、確実に潰す。
だがその間に、ケンと前崎が殺し合う事態になってしまった。
理由は分からない。
アレイスターは「ケンが先に襲った」と語っているが——その言葉を信じる気にはなれない。
だが証拠などを集めていくうちにやはりケンが前崎を襲ったとみるのが妥当だろう。
ケンのバックアップの肉体が入ったカプセルを見る。
表示には「ALIVE」とある。
通常、ケンが死亡すれば、自動的にバックアップされた肉体が稼働する。
だが今回は全く反応がない。
脳を完全に破壊されていたため、バックアップが正常に作動したかどうかも定かではない。
さらに悪いことに——ケンの頭部が潰されたタイミングと、捕縛後のバックアップ処理はほぼ同時。
エアで何とか居場所を特定し、そこからバックアップを開始したからだ。
また肉体そのものは損傷がないとしても、本人の脳が「死」を認識すれば、その瞬間に意味を失う。
高所からの落下死が良い例だ。
多くは衝撃そのものではなく、落下中に脳が「終わった」と判断して停止する。
その瞬間、回復も複製も——不可能になる。
もし脳死判定が成立すれば、肉体はただの容れ物。
動くことのない廃人として余生を送るしかない。
それに復活したとしてもその場でバックアップしたのでそれはもうケンとは呼べない「誰か」になっている。
だがせめてどんな形でもいいから生きてほしかった。
祈るしか、なかった。
さらに不可解なのは、ケンの死体が存在しないことだ。
死体がなければ、バックアップが発動している可能性も否定できない
——だが現に動いていない以上、何かが失敗している。
アレイスターによる妨害か、あるいは前崎が死体を隠したのか。
この事実に最も怒りを露わにしたのは、黄色の隊とカオリだった。
「即時処刑」「拷問にかけるべきだ」と口を揃える。
ジュウシロウもカオリ寄りの意見ではあったが、その前に理由を知りたがっていた。
——なぜ、ケンは前崎を襲ったのか。
答えは、まだ闇の中だ。
アレイスターの妄言と切り捨てれば簡単だが、その簡単さこそが引っかかっていた。
正直、前崎の知識や肉体は活用価値が高い。
PCもいいが、自分の負荷が高い。
完全な死刑は避けたい――それがルシアンの腹の内だった。
地下の留置房。蛍光灯が低く唸り、消毒液と鉄の匂いが混じる。
前崎はキリストの十字架のように貼り付けにされ、手枷は外されていない。
すでにカオリとジュウシロウがいた。
カオリは今にも飛びかかりそうで、ソウが肩を押さえ込んでいる。
「よくもケンを!!
こいつが現れてから全部狂ったの!! 今すぐ殺すべきよ!!」
鋼のように細いメスが、彼女の指の間で閃いた。
「落ち着いてください。まだ理由を詰めるべきです」
ソウが腕を極め、カオリの動きを止める。
そこへルシアンが入ってきて、短く息を吐いた。
『……何をやってる、君たち。』
「――ルシアンッ!」
カオリは胸倉を掴み、顔を近づける。
「こいつ、殺していいわよね?」
『……!
ケンを奪われた恨みで、彼女に冷静さはなかった。
『まず、ケンが“生きている”可能性がある。
話を引き出すのは、その後でも遅くない。』
「ごちゃごちゃと何を言っているの?!
YESかNOで答えてくれない?!」
ルシアンはため息を吐く。
『ではNoだ。まだ待て。』
「ふざけるなぁ!」
拳が飛ぶ。
ルシアンは避けずに受けた。
頬がわずかに揺れた。
「よくも仲間をやられて、そんなに平然でいられるわけ?
死体がないとはいえ、脳は潰され、熊に食われた
――全部こいつの仕業よ!」
現場報告は、すでに全員に共有済みだ。
死体がないとはいえ、状況証拠と血痕から判断された。
『そうだな。』
「なんでそんな冷静なのよ、あんた!」
「冷静になるのはあなたよ、カオリ。」
扉口に、元総理の娘・マスミが立っていた。
その瞳は冷え、声は低い。
「この人を今殺しても、何も進まない。情報を吐かせた“後”でいいでしょ?」
「でも――!」
「感情で決めないで。私たちは世間では”犯罪者”。
短絡的な判断が皆を殺すの。
もしそれでも暴走するなら――」
マスミはナイフを抜いた。震えはない。
「私が、あなたを止める。
あなたを刺し違えてもね。」
「マスミ……!あんた……!」
勝てるはずはない。それでも、覚悟だけは本物だった。
普段感情的にならない友人を見て動きが止まった。
『ジュウシロウ、一旦二人を外へ。』
「……わかりました。」
ジュウシロウはカオリとマスミを連れ出す。
扉が閉まり、室内に静寂が戻った。
ソウが肩をすくめる。
『前崎君。起きているだろう?』
「……あれだけ騒がれたらな。
女の怒鳴り声ってなんで頭に響くんだろうな」
耳鳴りがまだ残る、と前崎は乾いた笑いを一度だけ漏らした。
「……悪いが、女の戯言を聞くほどの余裕はなかった。
で、俺は結局、殺されるのか?」
『まだしない。――“まだ”だ。』
ルシアンの拳が、前崎の腹部に軽く触れる。
一呼吸。次の瞬間、拳は寸分の溜めもなく沈み込んだ。
「ぐふっ……!」
外傷はない。だが内臓が握り潰されるような鈍痛が腹腔全体を満たす。
吐息が掠れ、胃の酸が逆流して喉を焼いた。
前崎は堪らず吐き出す。
俗にいう寸勁――外傷を与えず、臓器にだけ致命的な衝撃を与える技だ。
『質問だ。――なぜケン君が君を襲った? 心当たりは?』
「……さあな。」
言い終えるより早く、二撃目が走る。
空気も裂かず、骨も鳴らない極短距離の寸勁。
だが衝撃は臓腑を狙い撃ち、胃の奥で鉛を押し込まれたような重さが広がる。
「お、えぇ……っ」
『次だ。レスターと何を話した? なぜ国と組んでいる?』
前崎は答えない。
ルシアンの目が細まり、今度は拳ではなく掌底が顎下を抉る。
舌を噛みかけ、視界が一瞬白く飛ぶ。
続けざまにみぞおちへ寸勁、脇腹への膝、さらに背後から腎臓を叩く掌底。
衝撃は外へ逃げず、すべて内側へ突き刺さる。
呼吸が奪われ、胸郭が勝手に痙攣する。
「……っがはっ……!」
膝を折った前崎の頭を掴み、膝蹴りを二発。
鼻骨が軋み、鼻腔に鉄の味が溢れる。
髪を掴まれたまま顔面を壁に押し付けられ、頬の骨が冷たい鉄格子に当たる。
『答えろ。』
呼吸を奪うように喉仏へ手刀。
意識がかすみ、耳鳴りが爆ぜた。
そこから、拷問はさらに苛烈になった。
呼吸を奪う寸勁、脇腹や腎臓への連打、顎や後頭部を狙う掌底――その間隔は徐々に短くなり、前崎の酸素供給は限界まで削られる。
何度も床へ膝をつき、そのたび髪を掴まれて引き起こされる。
顔面を壁へ叩きつけられ、耳の奥で金属音が鳴り止まない。
時間の感覚が削り取られていく。
何発殴られたか、何度呼吸を封じられたかすら分からない。
光と闇が交互に押し寄せ、意識は波間のように途切れた。
腹への寸勁が決まるたび、肺の奥の空気まで絞り出され、胸郭が痙攣する。
やがて痛みは鋭さを失い、重く鈍い塊となって全身を覆い、思考すら鈍らせた。
膝から崩れた前崎を見下ろし、ルシアンは最後に深く沈む一撃を腹へ与えた。
意識の糸がぷつりと切れる。
次に目を開けたとき、ルシアンの姿はもうなく、
室内には荒い呼吸音だけが残っていた。
『強情だね……後は任せるよ。』
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
鉄の空気が、急に静まり返った。
ソウが紙コップを手に、前崎の前にしゃがみ込む。
水面が小さく波打つ。
「……飲みますか?」
前崎は視線だけを上げ、水を受け取らずに沈黙する。
「僕で良ければ、話を聞きますよ。
前崎さんがそんな無作為にケンさんを殺すとは思えないし。
ボスみたいに痛めつけるつもりはないですよ。
――ただ、本当のことを教えてほしいです。
一体、何があったのか。」
前崎は心の中で苦く笑った。
“悪い警官”の後に“良い警官”を置く――典型的な二段構えの揺さぶり。
公安の尋問室で幾度も見てきた光景だ。
だからそんなことを考える余裕がある自分に笑ってしまった。
「黙秘権を……主張する」
それが、最も有効な防御であることを知っている。
余計な言葉は、必ずどこかで足をすくわれる。
ソウは肩をすくめ、紙コップを机に置いた。
天井隅の黒いドームカメラが、無機質な赤い点を灯している。
この沈黙と呼吸音までもが、冷たい記録として保存されていく。
ーーーーーーーーーーー
『これが妥協だ。
僕としても、ここが最低ラインだ。』
ルシアンは端末を傾け、拷問中の前崎の映像を無言で再生した。
殴打痕、嘔吐、寸勁の衝撃で痙攣する腹部。
音声は消してあるのに、痛みだけが画面から滲む。
「……あんたにも思うところがあるのね。意外だわ。」
『裏切りの中でも“仲間殺し”は最上位の罪だ。
ケン君が勝っていても罰は避けられない。
――前崎ほど口は固くないだろうがね。』
そして端末の映像を切る。
『彼には何度もいうが利用価値がある。
しかもアレイスターの狙いも彼だ。
餌としても人的資源としても貴重な人材だ。
可能な限りとっておきたい』
「……」
その合理主義な考え方に避難の目を浴びせる。
『それに状況証拠的に前崎君がやはり被害者だ。
どのような理由があったにせよ、ケン君が最初に襲ったのは確かだ。
そのような状態で前崎君だけが悪者にするのはおかしいだろう?』
「……わかったわよ……で、これからは?
前崎から情報を聞き出して何をするつもりなの?」
『アレイスターを殺す。』
「まあ、そうなるわよね。」
カオリは当然だと言わんばかりに肩をすくめた。
アレイスターと会ったのは三年前。
一年で決定的に袂を分かった。
ルシアンと相対した時の目をカメラ越しに見たが、それはもう“彼”ではなかった。
「もう元の彼じゃないのね……?」
『そうだ。――ちなみに、ケンも似たことをしたらしい。
姿形だけでなく、人格の層にまでメスを入れた。』
「馬鹿ね。」
『ケンは組織に忠誠を誓いすぎた。
私が一度のミスで君を貶めるはずがないだろう。』
ルシアンの肉体はあるが、死んだように目が瞑ったままだ。
中身がない廃人同然の肉体である。
『……祈るしか、ない。』
そのとき、インカムが軋んだ。
『ボス! 聞こえる!?』
エルマーの焦った声。背後でキーボードを乱打する音がする。
『どうした、エルマー。息を整えろ。』
『この場所が――逆探知されてる!』
『……どういうことだ?』
『アレイスターが誰かに発信機を仕込んでた! ビーコンが生きてる!
もう間もなく、ここに――ザザッ……ッ、ッ……!』
『エルマー!? 応答しろ!』
「どうしたの?」
『敵襲だ。――警報、全系統に。』
赤灯が回り、甲高いサイレンが施設全域を貫いた。
非常時しか鳴らない音だ。床が微かに震え、隔壁が自動で閉まり始める。
廊下の片隅――空気が白く霞んだ。
霧の芯がひび割れ、光がねじれて弾ける。
そこに現れたのは、黒スーツに身を包んだ公安の突入班と、無機質な装甲を纏う自衛隊の小隊だった。
楯が上がり、銃口が一斉にこちらを向く。
号令が短く響き、施設は瞬時に戦場へと変わった。