File:084 死者の亡霊
こんな逸話がある。
――臓器移植を受けた人間の「好み」が、まるで別人のように変わってしまったという話だ。
ある男は、それまで穏やかなカントリーミュージックを愛していた。
土の匂いがするような、懐かしい旋律に包まれていた男の嗜好は、心臓移植を受けたその日から、不可解な変化を遂げる。
突如として、彼の耳は轟音を求め始めた。
ハードロック、ヘヴィメタル。
以前なら「うるさい」とすら感じていた音楽に、今や「魂が震える」とまで言い始める。
家のリビングがロックフェスの会場と化したことに家族は困惑し、やがて調べを進めた。
すると――提供された心臓の持ち主は、生前、ハードロックの熱狂的なファンだったことが判明する。
メタリカのツアータオルをボロボロになるまで肌身離さず握りしめるほどの熱狂っぷりだったそうだ。
これらは関係者からわかったことであり、騒音トラブルも隣人同士で頻繁にあったようだ。
偶然の一致にすぎないのか?
だが、こうした話は世界各地に点在している。
移植を受けた患者が、提供者の癖や好み、さらには夢や記憶の断片まで受け継ぐという報告は、決して一件や二件ではない。
都市伝説として囁かれているものの一つに、こうした話がある。
――世界有数の財閥、ロックフェラー家の当主、デイヴィッド・ロックフェラーは生涯で六度、心臓移植を受けたという。
そしてそのたびに、性格までもが変化したらしいと。
科学は、この奇妙な共鳴とも言える現象に対して明確な答えを持たない。
だが、一つだけ確かに言える。
「人間から人間へ、何かを移すという行為は、その人の在り方ごと、何かを感染させる。」
もしそれが、臓器ではなく――
記憶そのものだったとしたら?
それも、“生”を終えた兵士たちの、
戦闘と死と狂気の記録だったとしたら。
そこに残るのは、「情報」ではない。
人格の断片、衝動、恐怖、咆哮……そして、生き様の重みそのものだ。
科学的ではないが「死者の亡霊」とも言える。
つまり、記憶を移植するとは、
単に「知識」を与えることではない。
それは、誰かの人生を、生き直させるという行為に等しいのだ。
だが――
「……姿形まで変わるかよ」
火傷でただれていたはずの顔面は、まるで時を巻き戻したかのように再生し、瘢痕は消え、ただの痣となっていた。
背丈も伸び、骨格そのものが変化している。
面影はかすかに残っている。
しかし「同一人物」として認識するには、違和感の方が勝っていた。
その目が、カッと見開かれる。
光を吸い込む漆黒の瞳――いや、その奥に何者かが「いる」感覚。
「……私が引き継いだのは、中国の名もなき兵の一人です。
中国に忠誠を誓い、貴様の命を大総統に捧げる」
前半と後半で、明らかにイントネーションも声質も違う。
淡々とした抑揚のない声から、低く、重く、怒気を含んだ咆哮へ。
まるで別人が喋っているかのようだ。
(記憶の混濁か? それとも……人格の同居?)
目の前に立つのは「ケン」のはずだった。
だが、言葉ではなく、“存在”が、何か違っていた。
目は歴戦の戦士の目だ。
目と目が合った瞬間、何かが走った。
坂上のとき以上の、警戒信号。
頭の奥で、警鐘というよりも、何かの封印が軋んで開くような音がした。
だからだろうか?
自分でも、なぜ次の言葉が出たのか、わからなかった。
「……なあ、一つ聞いていいか?」
「なんですか?(なんだ?)」
返答が、重なって聞こえた。
少年のような無垢な声。
老練な兵士のような、低く沈んだ殺意。
魂が裂けて重なるような違和感に、神経がきしむ。
理性ではなく、何かもっと深い部分――
戦場をともにした者だけが持つ、奇妙な共犯感に突き動かされたように、言葉は口をついていた。
「俺たち敵同士だったけど……短い時間でも、楽しかったよな?」
沈黙。
そして――爆発するような咆哮。
「それを裏切ったのは貴様だッ!!」
地を割るような踏み込みとともに、咆哮と同時に跳躍蹴り。
空気を裂く速度で叩き込まれる前脚の一撃。
その勢いを殺さぬまま、拳が突き出される。
野生の獣のような一撃――だが、その中にあるのは訓練された精密性。
前崎は寸前でその突きを流すが、
それでも重心は一歩も揺るがなかった。
(……ボクシングの体重移動……?)
そう思った矢先、視界からケンの姿が消える。
いや、裏側に回られていた。
脳天めがけて叩き込まれる肘――バックエルボー。
その軌道すらも読み切り、前崎は咄嗟に防御。
だがケンはすでに至近距離から、脇腹への横蹴りを叩き込んでいた。
「ぐっ……!」
内臓を揺さぶるような鈍痛。
完全に予想外の角度――まるで死角を読んでいたかのような蹴りだった。
そして、確信する。
「……散打か……!」
中国武術の実戦型、散打――
打撃、投げ、関節技を融合させた、まさに“戦場”の格闘術。
拳で距離を詰め、蹴りで崩し、掴み、投げ、止めを刺す。
それは「技術の組み合わせ」ではない。
戦闘の中で進化してきた“殺しの体系”そのものだった。
だが――見切った。
どれほど洗練された武術でも、万能ではない。
前崎は冷静に、ケンの動きを観察し、その“穴”を見抜いた。
――組み。
散打は打撃と投げを融合させた戦闘術だが、組技に特化しているわけではない。
極端な近距離、それも密着状態まで持ち込めば、乱打のリズムを崩せる。
前崎が一気に距離を詰める。
タックル――神経外骨格で加速したそれはまるで雷のようだ。
低く潜り込むようにしてケンの膝下に体重をぶつけ、そのまま前のめりに倒れ込む。
蹴りを封じ、体勢を崩させた。
だが――ケンの目に、焦りは一切なかった。
上にのしかかる前崎を見上げながら、
ケンは冷静に、前崎の手首を指先で押さえた。
「ぐあっ……!?」
わずかな指の動き。
それだけで、前崎の体勢が崩れた。
指、関節、神経、筋肉――
人間の動作原理を逆手に取った制圧技。
それは中国拳法の中でも、幻術とすら言われる技法。
――擒拿術
重心をズラされた前崎は、あっという間にマウントを奪い返される。
その喉に、ケンの掌がぴたりと絡みつく。
「……ッ、ぐぅ……!!」
全身を振り乱して前崎は暴れる。
もがき、肘を使い、脚で蹴り上げるが――
ケンの力はまるで冷たい鉄の鉤爪のように離れない。
ケンの目冷静だった。
だがなぜか締めを解いたケンは、無防備な状態にある前崎の腹部を、容赦なく蹴り飛ばした。
「がっ……!」
だが、前崎はギリギリで身を捻り、その攻撃を外す。
そのまま、よろめく足取りで後退する。
深い息。視界が揺れる。
(……強いッ……!)
この戦闘――想定以上に短期決戦だ。
前崎の装着する神経外骨格スーツは、
耐久性よりも攻撃力と出力に全振りされた設計。
バリアが剥がれれば、中身はほとんど“生身”同然だ。
(……それでも、この程度で済んでいる俺の身体か、
それともこのスーツを作ったメーカーか……どっちを褒めるべきか……)
「精々もっと抗ってください。
ここで終わらせたら制裁どころか慈悲になる」
冷たい目でケンは前崎を見据える。
相変わらず喋っている言葉が重なって聞こえる。
息を整えながら、問いかける。
「……俺が……そんなに憎いか?
そこまでして自分を捨てるほど……?」
ケンの顔は微動だにしない。
「憎しみではありません。
我々の偉大なる指導者への忠誠のため――
かつての記憶を上書きしたまでのことです」
「……記憶を、上書き……?」
「私は、敵に捕らわれるという失態を犯した。
だからこそ、潔白を同志に示さねばならない。
記憶を消すことで、私は純粋に生まれ変わったのです」
「そこまでするのかよ……」
「当然です。我々には先がないのだから」
一歩、また一歩――ケンがにじり寄る。
その歩みに、迷いはなかった。
「……時間稼ぎは、終わりですね?」
前崎は確信する。
勝ち目は――ない。
これで何度目だ?
自分が「負け」を悟ったのは。
坂上に、ケンに。
――いや、レインボーブリッジの時も、完全に敗北していた。
(……一対一では勝てない)
だがそれは、あくまで「正面から戦った場合」の話だ。
偉大なる指導者。中国人。忠誠。記憶の上書き。
いくつかのキーワードが、脳内で接続する。
(相手は俺を舐めている……なら、試す価値がある)
言葉もなく、前崎は最大出力で“森”へと駆け出した。
突然の行動に、ケンは微かに眉を動かす。
「……あれが、公安最強と言われた男ですか?」
軽く肩をすくめながら、
だがその足取りに油断はなかった。
静かに、哀れみすら浮かべながら――ケンはその背中を追った。