File:083 ケンの独白
ケンの過去編。
カンボジア・スバイリエン州――
かつて“楽園”と呼ばれた場所に、今や楽園の影すら残っていない。
この地にそびえる都市、シアヌークビル。
それは本来、南国の海と観光を楽しむ港湾都市だった。
だが――
いまや中国資本のカジノが無数に乱立し、都市の形を歪めている。
ガラス張りのタワーとLEDスクリーンが並ぶこの街は、「闇カジノ都市」「アジアのディストピア」とさえ呼ばれる。
それは誇張ではない。
不法就労、賭博詐欺、人身売買、臓器売買――
噂や匿名掲示板ではなく、国際報道が警鐘を鳴らすほどの危険地帯となって久しい。
それでも――
この街は今日も、光に満ちている。
降り続く雨を、何事もないかのように、ネオンが遮る。
通りを照らす赤と紫の電飾は、ホテルの塔を天空まで引き伸ばし、
その足元では、ゴミ袋と段ボールが混じり合う路地裏に、
誰にも見向きされない“影”が一つ、転がっていた。
――それが、「ケン」だった。
かつてタキシードだったものは、今や布切れの亡霊と化している。
破れた襟、もはや色も形も曖昧なスーツの生地が、
雨水を吸ってずっしりと彼の細く、骨ばった体に貼りついていた。
顔の大半は焼けただれ、
頬と顎の皮膚は剥がれ、血と膿が滲む断面が雨に濡れて鈍く光っている。
それは拷問の痕跡に近かった。
いや、拷問というよりも見せしめだったか。
主人の潔白を証明するために犠牲になったのだ。
手元を見ると、爪の間には赤黒い血が固まっていた。
それは、彼が何かを――いや、誰かを――
拒絶し、抗い、爪を剥がすほどにもがいた証だった。
そして、髪。
もとは何色だったのか、誰にもわからない。
今、彼の髪は真っ白に変わっていた。
まだ十代半ばのはずの少年が、老人のような白髪をまとい、
闇と光の境目に、人間とも廃棄物ともつかぬ姿で沈んでいた。
もはや、生への執着はなかった。
死が近づいているというよりも、ようやく辿り着いた安堵のような感覚。
“これで終われる”
――それだけだった。
ただ一つ、もし願いが叶うのならば。
せめて、最期の時ぐらいは家族と一緒に過ごしたかった。
だが、それはあまりにも遠い記憶の彼方。
最期に見た家族の姿は、――
銃口を向けた憎き中国人たちの手によって、一瞬で奪われた命の映像だった。
今となっては、あれすらも夢だったのではないかと錯覚する。
現実なのか、虚構なのか。
何もかもが曖昧になっていく。
――もういい。
全部どうでもいい。
私は、ここで静かに死ぬのだ。
この腐った街の片隅で、
名前すら忘れられ、ただの廃棄物として朽ちていくだけだ。
少年一人がゴミ箱に捨てられていようと、誰も足を止めない。
誰も見ない。
誰も気にしない。
それが、この世界の本質――貧富の断絶の残酷さだった。
富める者たちは、関わりたくないものには近づかない。
「税金を払っている」と思えば、それで“責任”を果たした気になっている。
その傘の下で、見て見ぬふりを決め込む。
これが社会。
これが秩序。
これが大人たちが守り抜いてきた“文明”の正体。
そして、ケンもまた、その犠牲者リストに名前を刻まれようとしていた。
せめて最期に、この腐った世界の景色を網膜に焼き付けて死のう。
生まれ変わって復讐してやる。
そう思い、彼は朦朧とした視界を持ち上げる。
その瞬間だった。
靴が視界に入る。
『いい目をしているね、君』
静かに、だが確かな声が降ってきた。
振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
黒のコートに身を包み、雨に濡れているのにどこか整然としている。
その黒いコートは全く少年には似合っておらず、背伸びして着たような印象だった。
だが眼差しは、燃えるように強く、どこまでも底が見えなかった。
それがルシアン。
少年が、この世界の理の外に出会った瞬間だった。
**********
そこから先の記憶は、断片的にしか残っていない。
霧の中に浮かぶ言葉だけが、今も脳裏にこだまする。
――「君を”最強”にしてあげる」
「中国人民解放軍の対特殊作戦部隊が長年積み上げてきた格闘術と戦闘アルゴリズムを、そっくりそのまま君にインストールする」
「脳機能の制御と補完は、私が担当しよう。君の神経系を“その域”まで復活させる」
「成功するかはわからない。神にでも祈っていて」
そう語ったのはルシアンだった。
医療用の高機能カプセルで朧げな意識の中、頷いた。
頭には幾重にも神経接続端子が張り巡らされたメタルヘルムが着けられてあった。
その眠りは、ただの回復ではない。
過去を断ち切り、脳の構造を書き換え、最強の兵士として再誕するために拳を休めていただけだった。
そして、ケンは医療用の高機能カプセルの中で1年の歳月を眠った。
*********
結果として成功した。
記憶はまだ解放はしていないが、少なくとも頭の神経の障害は完治した。
目を覚ましたとき、世界はすでに違って見えた。
体は自由に動き、頭は信じられないほど周り、顔には醜いほどの火傷があったにも関わらず、古傷のようになっていた。
鼻は無くなっていたが。
『お目覚めの感触はどうだい?』
ボスが鏡を閉じながら、ケンに問う。
「……これから私はどうすればいいでしょうか?」
答えにはなっていなかったが、生きてしまった。
そう思わずにはいられなかった。
死ぬのが怖いから生きている。
死んだほうがマシだった出来事もそれで耐えることができた。
ケンの人生はそんなようなものだった。
『ゆっくり決めればいいよ。それより会わせたい人がいる』
それで紹介されたのがジュウシロウとカオリそしてアレイスターだった。
ジュウシロウとカオリは、初対面の自分に驚くほど親切だった。
顔の火傷も、壊れた身体も、見て見ぬふりをするのではなく、まっすぐに向き合ってくれた。
こんな優しい人間がいるのかと驚いてしまった。
出身は日本らしい。
中国人と思って警戒してしまったが杞憂だった。
その優しさが、逆に自分の醜さを助長させた。
当初は布を被って、頭巾のようなもので顔を隠していた。
そんなとき、カオリが言ったのだ。
「こっちのほうが、似合ってると思う」
彼女は、日本の民芸品である木製の猿のお面を手渡してくれた。
「お前、サルみたいに身軽だし、俺の国には猿飛佐助って忍者もいる。
名前にサスケって後からケンって繋げるし、ピッタリじゃないか?」
そしてジュウシロウがその一個だけでは無くした時、大変だろうとわざわざ木を削って既製品の仮面と変わらない猿のお面を作ってくれた。
しかも予備まで10個も。
それ以来、ケンはこの猿面を手放さなくなった。
これは仮面ではない。
――彼にとっての“顔”となった。
カオリはよくケンに構ってくれた。
ジュウシロウとの模擬戦で、毎回ケンが勝つたびに、彼女が不機嫌になるのが少しだけ可愛らしく、少しだけ面倒だった。
彼女によくちょっかいをかけた。
認めたくなかったが私は彼女が好きだった。
もちろん、報われる恋ではないことはわかっていた。
ジュウシロウとカオリは、互いに強く惹かれ合っていたし、ケンにその関係を壊すつもりはなかった。
ただ――ほんの一瞬だけでもいい。
最も”恋人”に近い“友人”でいたかった。
ジュウシロウが、自分とカオリの関係をただの仲の良い友人としてしか見ていなかったのは、ありがたかった。
彼の鈍感さがここで幸いした。
アレイスターとはよく世の中の話をした。
曰く、君がそんな不幸に巻き込まれたのは資本主義が原因だと。
金があるから人は争う。
アレイスターの言ったことは全部が全部わからなかったけど、
最終的にアナーキーになればいいのでは?と今は結論づけた。
アレイスターはジュウシロウ、ケンの師匠となった。
本当にいい時間だった。
アレイスターの事件は残念だったが、それでも仲間がドンドン増えていき、私も任されることができ、生に喜びを覚えていた。
シンフォニア襲撃は爽快だった。
世の中に対して報復ができたのだ。
このままいけば私たちの。
子どもだけの国ができる。
そう仲間たちと共に信じて疑わなかった。
だが、その仲間たちを――裏切った者がいた。
前崎だ。
ジュウシロウを国会議事堂で踏み抜き、レインボーブリッジでは仲間に加えてやったのにそれでも何か私たちにわからない手で情報を流出させていた。
そうかと思えばメディアの一般市民を殺し、総理を殺した。
許せなかった。
我々はテロリスト。相手は国家権力。
世間から見れば、許しを請う立場などどこにもない。
しかし、一度“家族”になった人間が、再び裏切るという非道だけは――
どうしても、許すことができなかった。
さらに言えば、浮気性で、一貫性がなく、都合の良い方へと平然と鞍替えするような人間。
フラフラと信念もない。
ケンにとって、それは人としての“死”と同義だった。
最初は尊敬していた。
こんな模範とするべき、大人もいるのだと。
だがそこは我々と敵対する大人。
やはり、大人はクズだった。
彼には、この場所しかなかった。
だからこそ――誰よりもこの組織に忠誠を誓った。
ルシアンに対して、自ら申し出たのだ。
「万が一、情報漏洩の兆候が出た場合、自動的に脳機能を停止する自殺プログラムを組み込んでくれ」と。
それは、ただの保険ではなかった。
己の忠誠心を証明する唯一の機会だとさえ思った。
その覚悟が、ルシアンにとって信頼の証となり――
ケンは、この組織の黄の隊のリーダーにまで上り詰めた。
そんな彼の前に、今――
「全力を出すに値する敵」が現れた。
ケンの脳内に埋め込まれた記憶の断片、ステンドグラスのように鮮やかで複雑な“武術データ”が、次々と開放されていく。
――本来ならば、5年かけて少しずつ、食事のように咀嚼して吸収していくはずだった。
それを今、一気に開放する。
ルシアンが定めた最も安全に記憶を定着させるには本来であれば後2年は必要だった。
最初の休養期間を差し引いたとしてもだ。
当然、精神構造にも、身体機能にも多大な負荷がかかる。
人格が変わる可能性もある。
アレイスター――
記憶の“過負荷”によって別人のように変貌してしまったかつての同志の名が脳裏をよぎる。
今も裏切っているのはそれが理由だ。
いずれ救ってあげないといけない。
私はそれに関われそうにない。
私も今からそうなるからだ。
だが、それでもいい。
私は――
もう十分すぎるほど、もらった。
家族も、居場所も、信頼も。
すべてを“ここ”でもらった。
だからこそ、最後にひとつだけ。
伝えたい言葉がある。
――カオリ。
私は、あなたが好きでした。