File:065 来訪者
セキュリティゲートを開けてもらい、出迎えたのは部下の東雲だった。
「お疲れ様です。一ノ瀬さん」
手には紙コップの冷たい緑茶。
彼女なりの気遣いだったのだろう。
「……ありがとう」
一ノ瀬は黙って受け取り、喉に一気に流し込んだ。
キリッと冷えた苦味が、疲弊した神経を一瞬だけ研ぎ澄ませる。
頭がキンと痛むほどに。
「……あの、お願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「ん? なんだい?」
「私に、神経外骨格での実戦運用を教えてください」
「……どうして?」
その言葉は意外だった。
東雲に求められているのは戦闘ではない。
彼女は女性工作員として、潜入捜査や諜報活動を担う役割であり、前線に立つ訓練は最低限しか受けていない。
「私……ケン君に対しても、前崎さんの件でも……
一ノ瀬さんが危険にさらされたとき、何もできませんでした」
「……気にしてたのか」
アダルトレジスタンスに対して、旧来の潜入や捜査マニュアルが通用しないのは現場の共通認識だった。
彼らは予測不能で、徹底して先手を打ってくる。
情報よりも行動が早く、理論よりも思想が鋭い。
東雲も戦うという決意を、自分の中で固めたのだろう。
しかも東雲は国会議事堂を襲撃された時に容赦なく子どもの手を跳ね飛ばした。
少なくとも罪悪感は多少あるだろうがこれは才能だ。
今思えば東雲は適性がある。
ただ――こう言うと批判を受けるかもしれないが、現実は現実だ。
東雲は女性であり、身体的には平均的な男性隊員よりも明らかに非力である。
訓練は受けている。
だが、テロリストの制圧という戦場において、その差が致命的に作用する場面があるのも事実だ。
しかし、不可能ではない。
「……方法はある。不動さんの戦闘スタイルだ」
不動明――孤高の公安だった男。
神経外骨格の黎明期から運用実験に前崎とは別に戦い方を確立させ、その技術を極限まで使いこなしていた男。
筋力差や体格差を無視できるという神経外骨格の本質を、彼は戦術として確立していた。
肉体を拡張するのではなく、反応速度と可動域の限界を超えることで優位性を生み出す。
「……わかった。やってみよう」
一ノ瀬は静かに決断した。
「不動さんが使用していた神経外骨格の設計データ、今も保管されているはずだ。
型式番号を特定して、再現してみよう」
「是非、よろしくお願いします」
東雲は静かに答え、深く息を吸い込んだ。
それは、単なる承諾ではなかった。
東雲は決意を固めた。
彼女は一歩、前に進もうとしていた。
その瞬間だった――
一ノ瀬の背中に悪寒のようなものが駆け巡る。
まるで首元に鎌をかけられている感覚。
「……ッ!!」
慌てて背後を振り返る。
何もいない。
「……?一ノ瀬さんどうされましたか?」
「……少し神経質になっているみたいだ。
気晴らしに運転するよ。
技術研まで一緒に行こう」
「わかりました。ご無理なさらず」
そういって二人は出口に向かっていった。
この状況で一つ言うのであれば一ノ瀬の悪寒は極めて正しかった。
2人の間を通りすぎた存在はさらに奥へと進んでいく。
人間の目にも、耳にも、神経にも知覚されない何か。
あらゆる監視カメラのフレームを避けるように、光学的にも物理的にも存在を消したかのように。
セキュリティゲートすら無意味だった。
扉を通過するというより、物質の境界そのものを無視して移動していく。
その不可視の存在は、さきほど一ノ瀬とケンが面会していた部屋へと進入した。
――誰もいない。
壁面のセンサーがわずかに反応を示したが、警報が鳴るには至らなかった。
その存在はさらに奥、厳重管理区域へと移動する。
独房。
国家による「重大犯罪者の隔離施設」の中でも、特に監視と物理拘束が強化された収容ユニット。
その一角で、ケンは全身を拘束され、昏睡状態のように目を閉じていた。
その目が、微かに開く。
『――久しぶりだね』
どこからともなく届いた声に、ケンのまぶたがぴくりと動く。
「……アレイスター……様……?」
彼の表情が一瞬で硬直し、恐怖とも驚愕ともつかない色が浮かぶ。
『相変わらずだね。他人行儀な敬語で』
その男――アレイスター。
アダルトレジスタンス最大の裏切り者にして、現在「個人として」世界で最も危険とされるテロリスト。
かつての仲間たちをも翻弄し、全ての秩序と破壊を嗤う存在。
「……何の用ですか」
ケンは依然、丁寧な言葉づかいを崩さない。
だがその声には、明確な敵意と拒絶の色が滲んでいた。
『話でもしようと思ってね。――暇でしょ、君。
外の情勢、ちょっとは気にならない?』
ケンは何も答えず、視線を逸らした。
だが、情報の飢えは確かにあった。
孤立無援の独房で、何も知らずに死を待つ
――それよりは、わずかな情報すら価値がある。
アレイスターは、愉快そうに続けた。
『エアは完全に解析されちゃったけど、マルドゥークの方は問題ないよ。
サテライトキャノンで証拠は全部消えたし。
まあ、素材レベルの分析はされるかもしれないけど、中枢データまでは無理だろうね』
ケンは目を細めたが、特に反応を見せなかった。
『……あんまり興味なさそうだね』
「捕まっている身です。何を知ったところで、状況は変わらない」
淡々とした声で、ケンは目を閉じる。
『なるほど。じゃあ、他に聞きたいことは?』
しばらく沈黙が流れた後、ケンは口を開いた。
「……アダルトレジスタンスの犠牲者は?」
『ん~……教えてあげな~い♪』
アレイスターは少年の前で、舌を出して嘲笑するかのように煽った。
ケンの眉が微かに動く。
いつもの無表情な彼にしては、明らかに苛立ちの兆候だった。
『冗談だよ。教えてあげる。
君以外は、全員無事だよ。……よかったね?』
「……そうですか」
その返答には、安堵も怒りも混じっていなかった。
ただ、どこか終わったという表情。
『それだけでいいの? 本当にそれで満足?』
「ええ。私はもう――死ぬだけですから」
『ふーん……そうなんだ』
アレイスターの声が、わずかに変化する。
低く、何かを探るような響きが加わる。
『ちなみにだけど、君を救出しようとする動きがあるみたいだよ?
ほら、この場所でホログラム転送装置特有の前兆の波長の動きがある。
たぶんまた攻め込むつもりだろうね、ルシアンのバカは。
君を助けるためだけに……ね』
そういって何かレーダーのようなものをケンに見せる。
そこでケンはすべてを察する。
「……!!あなたが今更戻ってきた理由は……まさか……!」
『そう。君を“ダシ”にして、ルシアンからすべてを奪うためさ。
ようやくあの忌々しいSGの箱庭から出てきてくれたからね。
こっちとしては万々歳だよ』
「く……そがッ!!」
ケンの顔に、激しい怒りが浮かぶ。
静かな表情の奥から、むき出しの感情が噴き出した。
『じゃあね。……今さらだけど、警察とでも手を組んでみたら?』
最後に、アレイスターは皮肉な一言を残し――
その存在は、音も熱も残さずに消え去った。
まるで、最初から存在しなかったかのように。




