File:054 目的と手段 夢と職業
「……ひとつ、お聞きしてもいいですか?」
「ん?」
神経外骨格も武器も外され、手足どころか体幹まで制圧具で拘束されたケンが、近くにいた黒岩に声をかける。
すでにルシアンとのオフライン接続は切られており、A.D.R.の情報流出を警戒した処理だとわかる。
顔全体の露出は避けられたが、視線や表情の読み取りを防ぐために、目元だけは黒岩のスーツの布で覆われていた。
組織の主要戦力である〈マルドゥーク〉と〈エア〉の出撃で、手の内はほぼ晒されたも同然。
まだ“切り札”と呼べる兵器は残っているが、事実上の敗北は否定できない。
本来なら、真っ先に「裏切り者――前崎英二」の処理命令を伝えたかった。
だが通信が遮断された以上、焦っても仕方がない。
無為に時間を潰すくらいなら――と、目の前の男に話しかけることにした。
「最後、私のフェイント……あなたは反応できなかったように見えました。
なのに、どうしてあの一撃を私に当てられたのですか?」
少し間を置いて、ケンは静かに言った。
「……あれさえなければ、私の勝利だったと自負しているのですが」
「あぁ、あれか」
黒岩は肩をすくめ、思い出すように言う。
「前崎主任のフェイントのかけ方に似てたんだよ。
だから来るって直感的に分かった。
逆に言えば――お前が他のフェイントをしてたら、俺がやられてたかもな」
「……そんな“勘”に賭けて、拳を振るったんですか?」
「そうだな。賭けだったよ。
死んでりゃ、それまでだ。あとは他の奴らに任せるしかねぇしな。
そもそも前崎主任のフェイントは、初見で見切れるもんじゃねえ。
お前のは“主任に似てた”から、読みやすかった。それだけの話さ」
ケンは沈黙した。
無意識に自分は前崎のフェイントを真似していたかもしれない。
それにしても――賭けの一撃で命を懸けるとは、狂気に近い。
「なぜそこまでして……
命を投げ出す覚悟で、その職に執着するのですか?」
「……答える順番があるな。まず“なぜこの職業に就いたか”だろ?」
黒岩は視線を外さず、平然とした口調で続けた。
「答えは簡単だ。偶然だよ」
「偶然……?」
その答えにケンは目を細める。
「最初から高い志持って入ってくる奴もいる。
でもな、そういう奴ほど早く折れるんだよ。
理想と現実のギャップに苦しんでな。
辞めていった奴、何人も見てきた」
「では、あなたは違うと?」
「俺は……たまたま続けられただけだ。
性格的に合ってたのかもしれねえし、たまたま運が良かっただけかもしれねぇ。
できてるから、やってる。理由はそれだけだ。
シンプルだろ?」
ケンは不服そうに顔をしかめた。
その答えは、彼の合理的な価値観にとって“理解不能”だった。
だが黒岩にとっては、それが全てだった。
信念ではなく、継続できる現実。
誰かの理念に共鳴したわけではない、泥の中に残った意志。
「……納得できませんね」
ケンは視線を外さず、黒岩に問いかけた。
「医者を目指すのは、人を助けたいという動機があるから。
芸術家になるのは、自分の内側にある何かを表現したいから。
夢というものは、そういう目的のはずじゃないんですか?」
黒岩は一拍置いてから、短く吐き捨てた。
「――職業を夢だ? バカ言っちゃいけねぇ」
その声は、理屈ではなく、経験に根ざしていた。
「まずな、職業を夢にする時点で、その夢のレベルは極端に低い。
職業ってのは、あくまで“手段”に過ぎねぇんだよ。
金を稼ぐ、やりたいことをやる、遊ぶ、家族を守る……全部そのための道具だ」
黒岩はケンを見据えた。
「お前もそうだろ?
この国を壊すことが目的じゃない。
何かを変えるための手段としてテロを選んだ。それと同じことだ。
やり方は間違っていると思うがな」
「……確かに。一理ありますね」
ケンは否定しなかった。
だが、彼の中にくすぶる疑問が消えたわけではない。
「手段と目的を履き違えれば、人間は迷走する。
それは志が高かろうが、低かろうが関係ねぇ。
で、次の質問だ。この国に命を懸ける価値があるか――正直、俺にもわからん」
その曖昧な答えに、ケンはさらに理解できなくなった。
「わからないのに、命を懸けるんですか?」
「そうだ。だがな――」
黒岩は背筋を伸ばした。
「真面目に生きてる人間が、ちゃんと報われる社会。
それが少しでも近づくなら、命を懸ける意味はあると思ってる。
もちろん正しさを突き詰めすぎりゃ、かつてのSNS社会みてぇに、息が詰まる窮屈な世界になる。
だから不正の一つや二つ、目をつぶる余裕も大事だがな」
「……それで死んでも?」
「俺たちは、もう託す側の世代だ。
死んだって、何かを残せるならそれでいい」
黒岩は淡々と言った。
「坂本龍馬だって、29で死んでる。
それでも名前が残るってのは、大したもんだよな」
その時、ケンは生まれて初めて“尊敬”に近い感情を抱いたかもしれなかった。
大人とは、こういう存在だったのか――自分の偏った定義が崩れかけているのを自覚する。
「……もっと早く、あなたに出会っていたら、俺の人生も少しは変わっていたんですかね?」
「かもな。だがそれは過去の話だ。
今できるのは、罪を償うことだ」
「……死刑でしょう。どうせ」
ケンは静かに笑った。
前崎の提言により少年法は改正され、未成年でも重大犯罪であれば死刑が適用されるようになった。
自分が生き残る可能性は、限りなく低い。
「情状酌量の余地は、まだある。
たとえば、協力する気があるなら――」
「……それだけはできません」
ケンは即答した。微塵も迷いはなかった。
「どうしてだ?」
「第三者に特定の情報を話した場合、私の体は自動的に自殺行動に移るよう設計されています。
プログラムです。意思とは関係なく」
黒岩の表情が変わった。
「……人権を、なんだと思ってやがる……!」
思わずルシアンに対して怒りがこみ上げた。
子どもにそこまでの拘束をするとは。
「たとえ自爆装置がなくても、俺は話さなかったでしょう。
あの人たちは――家族です。
身内を売るようなことは、前崎様のようにはできません」
「……気づいてたか」
「確証はありませんでしたが、違和感はありました。
こんなに早く裏切られるとは、思っていませんでしたけど」
「それでも、命懸けで潜入してるんだ。
国のためにな」
「――馬鹿らしいですね。本当に」
言葉とは裏腹に、ケンの胸の内には奇妙なものが残っていた。
“敬意”と呼ぶには未熟で、“羨望”と呼ぶにはまだ遠い。
だが、確かに何かが残った。
「前崎様が、どうやって私の知らないうちに情報を外部に伝えたのか。
今は……それだけが気がかりです」
静かに目を閉じる。
それは敗北を受け入れた少年が、自分の無力を噛み締めながら行う“内省”だった。