File:034 ジュウシロウの過去
「……」
前崎は無言で装備を整えていた。
手の動きに迷いはない。すべて――オールライト。
破損した部位や物はエルマーにリボルバーと弾丸以外は整えてもらった。
これで完璧だ。
あとはメンタルだけだ。
深呼吸しようとするとその隣にケンが立っていた。
「今日は皆さん、張り切ってますよ」
「……なぜだ?」
前崎の問いに、ケンは笑みすら浮かべず淡々と答えた。
「メディアやマスコミに、個人的な恨みを抱えている子どもが多いんです。特に、この国では顕著ですね」
前崎はその言葉に、思わず息を呑んだ。
肌で感じてはいた。日本におけるメディアリテラシーの低さは、他国と比べても圧倒的だった。
切り取られ、歪められ、捨てられてきた真実。
それに晒されてきたのは、大人だけではなかった。
「中でも、ジュウシロウ殿は……今回はかなり気合を入れている様子ですよ。
憂さ晴らし、というには少々熱がこもりすぎているほどに」
「ジュウシロウが……?」
意外だった。
前崎の記憶にある彼は、真っ直ぐで礼儀正しく、何より健全さを感じさせる少年だった。
暗い情念など、微塵も感じ取れなかったはずだ。
「彼はあまり語らないのでしょうね。
でも、もうそろそろ知っていてもいい頃でしょう。彼は我々の“特攻隊長”ですから」
その言葉に、前崎の胸がわずかにざわめいた。
ただの元気な少年ではない。
何かを喪い、何かに怒り、そして、何かを賭ける覚悟を持った子ども――。
そうでなければ、この作戦の先陣には立てない。
ジュウシロウは、いつもの素振り五百回を終えた。
そのまま、射撃演習に一時間。
重い呼吸のまま、目を閉じる。
──思い出すのは、「何もできなかった」あの時のことだ。
彼は日本人とインド人のハーフだった。
だが、見た目はほぼ純粋な日本人。
少なくとも「肌の色」でいじめられることはなかった。
──人種では、なかったのだ。
広島には中国人のコミュニティがあり、そこに小さなインド系の一角も存在していた。
ジュウシロウは、その片隅で生まれ育った。
家と呼べるかすら怪しい場所。
ボロボロの服。
母と二人きりの暮らし。
生活保護を受けた方がいい。いや、受けるべきだった。
だが、まずその「制度」すら知らなかった。
母親は漢字が読めず、ジュウシロウの名前すら正確に書けなかった。
そもそも、彼女は不法滞在者だった。
──子どもを産めば、居場所が手に入る。
そんな打算と祈りで、生まれてきたのがジュウシロウだった。
けれど、彼自身はそれを気にしていなかった。
明るく、元気で、少し抜けていて、そして体が大きかった。
友達もできたし、時にはその母親たちが食事を分けてくれた。
困ってなど──いなかった。
少なくとも、子どもの頃は。
中国人の武術家のような老人に弟子入りし、武術を学んだ。
本当に達人だったのかはわからない。だが、彼には師がいた。
当時の師をジュウシロウはカンフーマスターだと思っていた。
「日本に頼られる存在になれ」
──それが、その街に住む者たちのモットーだった。
だが、年齢を重ねるにつれ、気づいてしまう。
他人と比べることで、自分の“無さ”に気づいてしまう。
自分の家だけが異質だった。
父親がいない。家がない。未来がない。
「ねえ、どうしてうちにはお父さんがいないの?」
「……海外で働いてるの」
嘘だと、すぐにわかった。
そんな嘘しかつけない母親の目の奥に、絶望だけがあった。
そして──あの事件。
小学生の頃、上級生に家のこと、服のことを馬鹿にされた。
思いきり殴った。相手は鼻血を流して倒れた。
すると、学校も、町も、一斉に牙を剥いた。
「異常な家庭だ」
「監査が必要だ」
彼の家に行政が踏み込んだ。
そして母は、容赦なく強制送還された。
──昔は、こんな暴力的じゃなかった。
人権の建前も、制度の壁もあった。
けれど今は違う。
髪を掴んで引きずり出す。殴り、蹴り、無理やりトラックに押し込む。
誰にでも優しかった日本は、もうない。
移民を受け入れて、崩れ去った。
ジュウシロウは、取り残された。
誰にも引き取られず、制度からも見放された。
生きるために、盗む。奪う。
それが「当たり前」になった。
そして──もう一度、あの少年を襲った。
かつて、自分を「異常」にしたきっかけの少年を。
今度は徹底的に。
顔面を、砕いた。
誰が見ても「犯罪」と言える暴力だった。
それが転機だった。
警察に追われる日々。
だが、同時に、街にも異変が起き始めた。
「広島でオリンピックを開催する」
それは、チャンスだった。
町を“掃除”する、口実。
「ついでだ。不良外国人どもを、まとめて消せ」
ジュウシロウの事件は、見事に利用された。
ワイドショーが騒ぎ、週刊誌が煽り、世論が沸騰し「更地にしろ」の声が巻き起こった。
そして──本当に火が放たれた。
一部の過激派によるものだったらしいが一帯すべて、灰になった。
中国人も、インド人も、残らず追い出された。
だからこそかつて仲間だった者たちは、ジュウシロウを恨んだ。
「お前のせいで」
日本人たちは敵意をむき出しにした。
「不法外人が、何をしても無駄だ」
こうして、ジュウシロウには、どこにも居場所がなくなった。
盗んだバイクで、東京を目指していた。
理由なんて曖昧だった。ただ──そこに行けば、何かが変わる気がした。
時に盗み、時に暴力を。
恵まれた体格から繰り出す一撃は、誰にも止められなかった。
ただ、何も残らなかった。
孤独は埋まらず、胸の穴は広がる一方だった。
──多分、死に場所を探していたんだと思う。
そんなある夜のことだった。
少女の悲鳴が、耳に飛び込んできた。
目を向けると、ワゴン車の後部に押し込まれていく少女がひとり。
3人の男に囲まれていた。
目が合った。
「助けて!!」
その瞬間、時間が止まった気がした。
──生まれて初めて、人に“必要とされた”気がした。
次の瞬間には、身体が動いていた。
近くに落ちていた鉄パイプを掴み、一直線に走る。
フロントガラスに突き立て、そのまま運転席ごと破壊する。
男の叫びは、鈍い衝撃音にかき消された。
──ためらいなんて、なかった。
かつて上級生の顔面を踏み砕いたあの日から、「躊躇」は自分の中に存在しない。
助手席から飛び出してきた男が、スタンガンを構えて突進してくる。
だがジュウシロウは、武器への対処も心得ている。
──思い出すのは、師匠の教え。
道場を焼かれ、自ら命を絶った男の背中。
(あれも……俺のせいだ)
鬱屈とした後悔が、拳に乗る。
容赦なく相手の顔面に打ち込んだ。
武器を奪い、スタンガンで止めを刺す。
終わった。
全てが、数十秒の出来事だった。
ジュウシロウは少女に目を向ける。
「……大丈夫か?」
少女は怯えるどころか、まっすぐ彼を見た。
その目は、深く澄んでいて──すべてを引き込むような光を宿していた。
そして、無言でジュウシロウに抱きついた。
「……!」
身体が硬直する。
どうすればいいかわからない。
抱きしめられるなんて、いつ以来だ?
三十秒後、ようやく脳が働きはじめた。
「……逃げないと危ない。警察が来る」
「えっ?警察に来てもらったほうが……いいでしょ?」
少女の声は震えていたが、どこか落ち着きもあった。
ジュウシロウは目を伏せる。
「……俺も追われてるんだ」
その一言で、空気が変わる。
少女はわずかに考えたあと──微笑んだ。
「じゃあ、私を連れてって!」
そう言って、背中に飛び乗る。おんぶの姿勢。
驚くほど軽い。
そのまま、何の迷いもなくバイクにまたがった。
「ねえ、名前は?」
「……ジュウシロウ」
「苗字は?」
「そんなもん、ない」
「あるでしょ?」
「生まれたときからなかった。母に聞いたことすらない」
少女は少し驚いた顔を見せたが、すぐに微笑んで言った。
「カオリ」
「え?」
「私の名前。私も、名前だけ。似てるでしょ?」
エンジンが唸りを上げる。
2人を乗せたバイクは、夜のトンネルへと走り去った。
その背に、微かな希望の匂いを残して──。
ちなみにですが、ジュウシロウに名字がないのは、母親がシク教徒だったことが関係しています。
ヒンドゥー教徒に囲まれた土地(たとえ広島の小規模インド人コミュニティとはいえ)で、姓を明かすことは異端視され、時に危険を招くことになる。
それを母親はよく知っていたため、あえて語らず、名乗ることもありませんでした。
信心深い彼女は、ヒンドゥー教徒の真似をすることすら拒み、姓について口を閉ざし続けたのです。
カースト制度をはじめ、異教徒がどのような扱いを受けるのか、彼女は身をもって理解していたのでしょう。
そしてジュウシロウは、母が強制帰還させられた後も、結局自らの姓を知ることはありませんでした。