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File:032 ストックホルム症候群

「なぜソウ様とアリア様を前崎様に引き合わせたのか、その理由がようやくわかりました。」


ケンの声は冷ややかだったが、どこか達観した響きを含んでいた。

彼の視線の先、巨大モニターには前崎と二人の人物の映像が映し出されている。

ルシアンは分析するように見ていた。


「……悪く言えば、これは“洗脳”そのものでは?」


ケンはため息混じりに問いかける。

しかしルシアンは口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。


「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。これはただ……前崎君に“私たちを知ってもらっている”だけさ。」


その声は柔らかだったが、内に潜む黒い熱がにじみ出ていた。

モニターに映る前崎の表情が、わずかに柔らぎ、ソウとアリアに向ける目に迷いの色が混じり始めている。

ボスはその変化を見逃さなかった。


「絶対に……裏切らせないようにね」


その言葉は自分への誓いのようであり、同時に冷酷な呪いのようでもあった。

ルシアンの笑顔は、もはや笑みではなく、支配と執着にまみれた薄気味悪い仮面だった。


画面の向こうで、前崎の心の奥底にゆっくりと、しかし確実に“毒”が染み込んでいく。

名も知らぬ暗闇が、彼の理性を少しずつ侵し始めていた。


――ストックホルム症候群。


1973年、スウェーデンのストックホルムで発生した銀行強盗事件に由来する。

犯人が銀行員を6日間人質にとったこの事件では、解放された人質たちが犯人に好意的な態度を示し、警察の行動を非難するという異例の事態が起きた。


そこから名づけられた心理現象は誘拐や監禁などの極限状態において、被害者が加害者に対して好意や共感、時には愛情を抱くようになり、被害者が自らの意思で加害者をかばったり、救出後も加害者を弁護したりなどした。


前崎も例外なく気づかぬうちに、無意識の檻に閉じ込められていくのだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


前崎は無言で食堂の片隅に座っていた。

今は食事を取る時間ではないからか食堂でご飯を食べている子どもはいなかった。


キッチンではジョンがレシピを見ながら何か試行錯誤していたようだった。


ソウとアリアは「練習するから」といってその場で練習し始めた。

――練習をしないと「頭の中の悪魔が自分たちを襲いかかる」らしい。

その言葉は、まるで呪いのような強迫観念だった。


今日の食堂は、特別豪華なメニューではなかった。

カレー、焼肉定食、スパゲッティ――どこか学校の給食を思わせる、素朴な料理たち。

前崎は、それらをすべて注文した。


悩んだり考え事をしている時でもやはり腹は減る。


子どもたちの好奇と困惑が入り混じった視線が突き刺さる。

だが、前崎は黙々と箸を進め、口に運ぶ。

無理に視線を逸らさず、真正面からその視線の重さを感じてしまったとき、心の奥がひどく疼いた。


(能力があるはずの俺が、この時代で何もできなかったのか。

 あの子たちのために、俺にできることはなかったのか――)


思い返せばシンフォニアの時もそうだ。


冷静に事件の内容を調べていても基本は文字列であり、報告でしかなかった。

それをいざ直視すると俺一人で頑張った所で意味はないと考えてしまう。


ただし公安で鍛え上げられたマインドセットが勤めを果たせと訴えてくる。

だからこそ冷静に考えていまい、気にしたところで諦めるしかない。


そんなドライな考えが嫌だ。

そして自己嫌悪といった負のスパイラルに嵌まってしまった。


己の無力さが、咀嚼のたびに喉を詰まらせる。

それでも、そんな感情は心の底に押し込めるしかない。

気にしたところで変わるものなど、何もないのだから。


前崎は無理にその想いを振り払うように、食事を口に詰め込んだ。

そのとき、向かいに一人の影が腰を下ろす。

森田首相の娘。真澄だった。


「…父を殺したそうですね。」


その声は静かで淡々としていたが、底の見えない冷たさが滲んでいた。


「そうだ。」


前崎は箸を止めず、真澄の目を正面から見据えた。

だが、真澄もまた視線を逸らさなかった。


「俺を恨んでいるか?」


前崎の問いに、真澄はわずかに首を横に振った。


「必要経費だとは理解しています。

 父は清廉潔白だとは思っていませんでしたし、おそらく避けられないことだったのでしょう」


「そうか…」


言葉は理性で絞り出されたものだったが、真澄の瞳には確かに、抑えきれない憎しみの色が宿っていた。


「……森田総理は最後まで、あなたのことを心配していましたよ。」


ホテルで森田首相に銃口と突き付けた時を思い出す。

本当は違う言葉であり、金で寝返るように持ち掛けられた。


すべての言葉を紡ぐより早く前崎は脳幹を銃撃した。


真澄が「私のことを政争の道具にしか感じていない」というのは正しかったかもしれない。


だがそんなことをいうつもりはなかった。


”娘のことを最後まで心配していた。”


嘘でもその一言が、真澄の鎧を打ち砕いた。

溢れる涙が、無音で頬を伝う。


前崎は静かに皿を平らげ、言葉を残さず席を立った。

背中には、重苦しいものがのしかかっていた。


カオリは、まだ涙の跡が残る真澄の横顔を見つめ、そっと声をかけた。


「あんたみたいなのでも……泣くときはあるのね。」


皮肉のつもりだったが、どこか優しさが滲んでしまう自分に、カオリは内心で舌打ちする。


真澄は静かに涙を拭き、カオリを見やると、ほんのわずか、けれど確かに笑みを浮かべた。


「……カオリだって、ジュウシロウ君が追い詰められてたとき、泣いてたじゃない。」


その一言に、カオリの頬が一瞬で赤く染まった。


「あ……あれは、その……別にっ!」


「何それ……」


真澄の笑みは、ほんの一瞬だけ胸の重さを和らげた。だがその奥で、鋼のような冷たい決意が再び疼き始める。


(どのみち……父を道連れにする以外、私には選べる道なんてなかったんだから。)


ふと、真澄が視線を遠くにやったまま問いかけた。


「カオリ……もし、この国が本当にこの組織のものになったら……その先、あんたは何をするつもり?」


唐突な質問に、カオリはわずかに眉をひそめた。


「……医者の免許くらいは取ろうかしらね。どうしてそんなこと聞くのよ?」


「現実的ね。」


「悪い?」


「いいえ。ただ、少しつまらない答えだと思っただけ。

 ジュウシロウ君と幸せな家庭でも築きたいって、言うかと思った。」


「そこまでお花畑な頭じゃないわよ。マスミこそ、どうなの?」


「……私?」


自分に向けられたその問いに、真澄は言葉を探した。

最初は――父の罪を背負って生きるためにここに残った。

その先なんて、考えたことがなかった。


「……先生でも、しようかしら。」


「へえ、いいじゃない。医者よりよっぽど似合ってるわ。」


「男子生徒を何人か誑かしてやるわ。」


「……全部台無し。」


カオリが呆れたように肩をすくめると、真澄は少し悪戯っぽく目を細めた。


「カオリだって……どうせ身体検査のとき、いやらしいこと考えるんでしょ?」


「な、なに言ってんのよ、そんなわけないでしょ!」


声を荒げるカオリを見て、真澄の胸の奥にわずかな暖かさが灯った。

だがその奥底には、拭いきれない暗い影が、まだ沈んでいた。


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