File:022 VSケン
片頭痛がすごい。
皆さん体調には気を付けてください。
「上着だけ置かせてくれ」
そう言って前崎はスーツの上を置こうとする。
筋肉質な体が神経外骨格からでもわかる。
「私が預かっておきますよ!」
マスミが手を広げる。
前崎は渋々マスミに渡す。
「…よろしくお願いします」
「わぁ。前崎さんの匂いだ!」
「あんたねぇ…」
カオリがマスミに呆れる。
「準備はいいか?ケン?」
「いつでも問題無いです」
『はーい。審判はジュウシロウ君ね。始め~』
ルシアンの気の抜けた声が、重苦しい空気に水を差すように響いた。
オーソドックスな左手が前、右手が後ろのボクシングの基本スタイルのような構えだ。
両手には鉄製のメリケンサック――だが、形状はやや異なる。
拳を覆う金属の表面には、細かい放熱スリットと複数のリング状突起。
内蔵された機構が、微かに「ウィィィ……」と唸るように振動している。
「……俺から行っていいってことか?」
前崎が低く呟くと同時に、一歩踏み出してリボルバーを素早く抜き、試し撃ちの一発を放った。
パンッ!
雷のような音と共に、発射された弾丸が一直線に走る――
だが、ケンの体は弾丸の軌道を“読む”かのように滑るように横へ逸れた。
(――紙一重)
その瞬間には、すでにケンが地を蹴っていた。
彼の靴底が床を叩く音は極端に小さい。
距離が詰まる。雷のような速さだ。
拳が伸びる。
迷いなく、恐れなく、ただ「当てる」ことだけに集中された直線。
前崎はその拳を、肘を斜めに立てて手の甲ごと斜め上へ逸らすように受ける。
だが、ケンの第二撃が間髪入れずに飛ぶ――右ストレート。
前崎は身体を反らし、わずかに顔の前をかすめるようにかわす。
(ラッシュだ)
ケンの拳が次々と襲いかかる。
だが、それはただのラッシュではなかった。
肩・肘・腰――全身の関節を滑らかに連動させ、脱力と重心移動で打撃が生み出されている。
急所を狙わず、身体の中心軸に“振動と衝撃の残響”を刻みつけるような連打。
心当たりがある…ロシア武術――システマ。
「おいおい……良いもん身につけてるな、お前」
「光栄です」
拳が前崎の肩をかすめる。ほんのわずかに力が抜けた。
だが前崎はその隙にナイフを引き抜いた。
銀色の刃が、薄暗い照明の下で冷たい光を放つ。
ケンの拳が再び伸びる。
それに刃を合わせる――
ガキン!
ナイフが拳に触れた瞬間、粉々に砕けた。
「……なにっ!?」
刃先が霧のように飛び散る。
反射的にバックステップ。
だがその動きすらケンは読んでいた。
左足が前崎の足首を絡め取る。
身体が崩れる――そのままケンは一気に組み付き、マウントポジションを奪う。
「っ……!」
覆い被さるようにケンの影が重なった瞬間、メリケンサックの拳が顔面すれすれに振り下ろされる。
ゴッ、ゴッ――ッ!
打撃音は鈍く、だが内部から脳を揺らすように響く。
耳鳴りとともに、視界が白く滲む。
一発ごとに、意識が引き剥がされていく――
殴るというより、意識を震わせて「断つ」打ち方。
「……お気づきになられましたか?」
視界の真ん中、ぼやけた焦点に、金色の猿の仮面が浮かぶ。
機械のように無表情なそれが、間近でこちらを見下ろしていた。
周りを見てもそこまで時間は経っていないようだった。
「……振動か」
「はい。内部に共振装置が仕込まれています。
人間の脳は、わずかな揺れで簡単にシャットダウンするので。
それでなく出力を瞬間的に上げれば武器破壊も狙えます。
人体には過剰な攻撃ですがね」
前崎は歯を食いしばり、無理やり体をひねって体勢を起こす。
額からは汗が滴り、喉が渇いていた。
「……くっそ。負けたか。仕方ないな」
その時、ケンは一度距離を取り、深々と頭を下げた。
「前崎様」
「……なんだ?」
「――本気でやって頂けませんか?」
沈黙が走る。
前崎の目だけが、微かに細められた。
「国会議事堂での戦い、私は見ております。
あのときの“あなた”と、今の“あなた”――まるで別人です。
どうか、あの時の姿を“私自身の肉体”で体感させてください」
「……と言われてもな」
「――していただければ」
ケンの口調が変わる。
少しだけ、幼さと悪意が混じるような声音。
「マスミ様があなたに接触した際、右ポケットに小さな“記憶デバイス”を入れたこと……
そのことを、私は――黙っておきます」
前崎の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
静寂が、空間全体を支配する。
「安心してください。ボスは、まだ気づいていません」
仮面の奥で、ケンの声が微かに笑っていた。
「……お前、何者だ?」
「ただの“ケン”ですよ。前崎様。
でもこれが表沙汰になれば――マスミ様は、我々の手で“処理”される可能性があります」
前崎は短く息を吐き、目を伏せる。そして、一つの覚悟を固めた。
「……わかった。本気でやる。二分、くれ」
「御意」
直後、前崎の瞳が虚ろに光を失った。
神経接続の最適化、筋繊維の再調整、そして痛覚の遮断処理――
システムが自動的に“戦闘限界領域”へと肉体を再構築していく。
裂けた筋肉がふさがり、関節の動作が滑らかさを取り戻す。
折れたナイフは分子単位で修復され、手に戻る。
重力感覚が一瞬だけ途切れ、深層意識が沈んでいく。
──Zone。
時に「Flow」とも呼ばれる極限領域。
心拍は190を超えてなお安定し、脳内物質が緩やかに流れ込む。
唾液が無意識に垂れ、半開きの口から舌が出る。
魂だけが前へ滑り出し、肉体はただの道具と化す。
「……ねぇ、あいつって、ヤバくない?」
カオリがモニターを見つめながら声を漏らした。
マスミは冷静に返す。
「カオリ、英語って身につけたことある?」
「……単語くらい。喋れないけど」
「英語を“完全に”習得すると、人格が変わることがあるのよ。
言語が脳の使い方を変える。感情よりも論理、即応よりも処理。
命令遂行が“自動化”されるの。
英語は論理的だからプログラムにもよく使われるでしょ?
日本語よりも合理的な入力ができるわ」
「……二重人格みたいなやつ?」
「いいえ。もっと冷たいもの。
完全に相手を倒すことだけにすべてを注ぐ動き。
つまり今の前崎さんは――“Kill Machine”モードに入ったってことよ。
カオリ見ていなさい。
あれが前崎さんの本気よ」
2人の目線がモニターに注がれる
『2分経過~。開始~。』
「──The showtime, monkey bastard(覚悟しろ、猿野郎)」
言い終わる前に、前崎は動いていた。
リボルバーには手すらかけない。
ナイフを逆手に持ち、刃を軸に空気を切り裂くように前進。
先ほどとは逆。
前崎はケンに肉薄する。
ケンはその軌道を読み、右拳をクロス気味に構え、最短距離のカウンターを狙う。
だが――前崎の肩が沈み、腕が不自然に“蛇のように”しなる。
まるで関節が一瞬だけ消えたかのような動きで、ケンの肘に絡みついた。
「くっ……!」
ケンの拳が止まる。
前崎の神経外骨格が、ギリギリと音を立てて出力を跳ね上げる。
ケンが反撃に転じる。左拳を鋭く前崎の腹部へ――
だがその瞬間、前崎はわずかに重心を滑らせる。
拳は確実に入るはずだった軌道をそれて、ただかすめるだけに。
刃が閃く。
左肩口に斜めの線が走る。深く裂ける切創。
「──Dodge this, you bastard.(よけんなよ、クソガキ)」
ケンは即座に腕を振りほどこうとする――
だが前崎の関節封じが完璧だった。
柔術の要素を含んだホールド。無理に引けば、自分の肩関節が逆方向に裂ける。
「……誘っていますね」
だがケンもただの実力者ではない。
空いた右肘を逆回転させ、前崎の鳩尾へ振り下ろす。
その打ち方は、“折れてもいい”という覚悟の入った、命中ありきの一撃。
時間が遅くなる。
前崎はその一発が、どれほど危険か正確に読み取る。
刹那の判断。
ナイフの柄を逆手で構え、硬質部を正面へ突き出す――
ドンッ!
音が鈍く反響。ナイフの柄が砕ける。
ケンの拳が軌道を外れ、そのまま前崎が固定していたケンの肩へ打ち込まれるよう誘導される。
(受け流された…!?偶々!?いや狙っていましたね…!)
前崎の狂気の顔を見て確信する。
自身への武器による自爆。
前崎の集中力と角度の調整が成した神業だった。
「……ぐっ!」
ケンの拳が、自分自身の反動でダメージを増幅する。
その一瞬、ケンの構えがわずかに崩れた。
前崎は見逃さない。
右手のナイフが“返し斬り”で弧を描き、ケンの顔面を狙う。
ケンは寸前で首を引き、致命打は避けた――が、右腕が深く裂かれる。
それでも、ケンは後退しなかった。
右腕がぶら下がっていても、左手を拳にして踏み込む。
──その姿勢は、まさにロシア武術システマの型。
力まず、呼吸と重心を利用し、波のように間合いを切り崩していく。
ダメージを無視し、柔らかく、かつ予測不能に動くその姿は、まさに無機質な“制圧機構”。
だが前崎に動きを見切らせるには十分すぎた。
行ったのは至近距離での体重移動。
トレーニングルームの床がひび割れる。
前崎は一気に前傾姿勢。
右足を跳ね上げ、左膝を屈め――全出力を一点へ。
小技はいらない。捌くなら捌けない攻撃を放てばいいだけ。
「──It’s over. You lose, monkey.(終わりだ。負け猿)」
ゴギンッ!
右膝がケンの顎を真正面から砕いた。
格闘技ではあり得ない出力全開の鋭角な飛び膝蹴り。
神経外骨格の使用者のみ可能な武術が為した技だ。
仮面ごと骨の軋み砕かれた音が響き渡り、歯が飛び、首が揺れ、ケンの身体が宙を舞う。
無重力のように空中で回転し――
ズドォンッ!
床に叩きつけられた。
ケンは微動だにしない。
『勝者──前崎君!』
ルシアンの声が虚空に響いた。
しかし、誰も返さない。
沈黙が、戦闘訓練室を包み込んでいた。
作者は格闘技が好きなので結構こういう肉弾戦は積極的に書いていきたいです。
また前崎が本気の戦闘時英語なのはそういう理由でした。
だってカッコイイじゃないですか…英語。




