File:016 ジュウシロウの後方支援
今日もいつもより少し長めです。
「落ち着いてほしい。何もしなければ危害を加えるつもりは一切ない。
2時間以内にすべて終わる」
機内は静寂だった。
制圧したはずの飛行機でさえ、あまりに無防備な呼吸をしている。
ジュウシロウは銃口を下ろした。
「落ち着け」とは言ったものの、誰に向けた言葉だったのか。
相手か、自分か、もう曖昧だった。
黒の隊、9名。
羽田発、アメリカ行きのP2010型。
乗客は座席に縛りつけられ、沈黙している。
(ケンの言っていた後方支援……確かにその通りだがまさかハイジャックをすることになるとはな)
いくら作戦の一部だとはいえ、
憎むべき/制裁対象でもない人間を目の前に、現実として“支配”し続けるこの時間は想像以上に重い。
その時、赤子が泣いた。
張り詰めた空気に、甲高くも弱々しい泣き声が突き刺さる。
こんな状況であまりに空気を読まない現象でもあった。
乗客たちの緊張が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
緊迫感に麻痺していた意識に、強制的に現実を呼び戻す音。
赤子を抱く母親が、咄嗟にその小さな体を庇い、わずかに身を乗り出した。
抵抗、というにはあまりにも本能的で、むしろ守ることしかできない、切実な動きだった。
ジュウシロウは、その光景にわずかに眉を寄せた。
赤子を守ろうとする母親。
無謀とも言えるその仕草は、しかし正しさとは別の次元で心を打つ。
(……そうだな。こんな状況でも、守りたいものがあるのか)
銃を握る自分の手が、異様に冷たく感じられる。
殺気と緊張に満ちたこの空間で、母子の存在はあまりに異質だった。
「……母親と子供は、降ろしてやれ」
静かに告げる。命令ではなく、判断だった。
部下が訝しげに振り返る。
「よろしいのですか?」
「いい。俺たちの目的はここを釘付けにすることだ。
母子がいようがいまいが、ここの価値は変わらない。
むしろ余計なノイズは減らした方がいい」
声は冷静だったが、心の奥底では別の何かが疼いていた。
合理性に擬態させながらも、確かにそこに情があった。
部下は無言で頷き、ゆっくりと銃を下ろす。
その間にスチュワーデスが動き、母子を静かに通路へと誘導する。
泣き止まぬ赤子の声が、離れるごとに遠ざかっていく。
スチュワーデスが母子を連れて機外へ向かう。
機内には再び、重苦しい静寂が満ちる。
「……これで、あと2時間か」
ジュウシロウは、ふっと息を吐く。
羽田発の国際便、P2010型機内は沈黙に包まれていた。
物理的な制圧は済んでいる。
乗客たちは静まり返り、銃口を向けるまでもなく、皆が「動かない」という空気に縛られている。
だが、その沈黙こそが、じわじわと緩み生む。
かつて銀行を占拠した強盗がいた。
ニュースでも話題になった事件だ。
あまりの緊張感と重苦しい空気に、主犯格が自分でも気付かぬうちに眠りに落ちた。
突入部隊は、その瞬間を逃さず強襲。
ほぼ無抵抗のまま制圧されたという。
「……バカみたいな話だが、笑えないな」
ジュウシロウは独り言のように呟いた。
案外、犯罪なんてものはメンタルが強くないと続けられない。
“正義”でも“信念”でもない。
どれだけ平常心を保てるか――
どれだけ自分を壊さずに、歯を食いしばれるか。
それが問われる。
遠くで爆発音がした。
始まった。ケン、ソウ、エルマーが動いた。
そこで自分の胃が痛くなっていることに気づいた。
表向きは威圧的に振る舞っていても、内心は胃が焼けるような緊張に支配されている。
そんな犯人を、ジュウシロウは何度も見てきた。
そして――
自分も、今その一人なのだと気づいている。
例外はボスだけだ。
あんな機械的に物をこなせる人間を見たことがない。
(結局、人を支配し続けるのは思想ではなく忍耐力かもな)
ジュウシロウは頻繁に腕の時計をみる。
その耐久力を試す時間は、20秒も変わっていなかった。
そのとき――
「若いの、暇なら話し相手になってくれんか」
不意にかけられた声。
白髪まじりの老人が、椅子に沈み込むように座っている。
「……悪いが、じいさん。ここから出すわけにはいかないぞ」
「そんなことは分かっとる。
動けもしない爺に逃げ場などない。
ただ、暇つぶしに話をしないかね」
その言葉に、ジュウシロウはしばし黙した。
無駄話に付き合う余裕など、本来はないはずだった。
だが――
(……無為に時間を潰す。それが今、俺たちがやっている作戦そのものだ)
皮肉に気づき、ジュウシロウは静かに腰を下ろす。
自分の意思で席を選ぶように。
あくまで“暇つぶし”という仮面を被って。
「じゃあ、じいさん。あんたが話題を振ってくれ」
「……こういう行動をする理由は、なんだ?」
声は穏やかだった。
押しつけがましさも、上から目線もない。
むしろ、問いかけるというより考えさせるような言い回し。
「君が悪いとか、間違ってるとか、そんなことは言わんよ」
ジュウシロウが身構えるより先に、じいさんは付け加えた。
「私は昔、人の話を聞く仕事をしていてな。
困っている人間を、少しでも楽にするのが役目だった」
懐かしむように目を細める。
だが、その目は今のジュウシロウをしっかりと見据えていた。
「答えを急がせるつもりはない。
ただ、人は――自分がどうしてその行動を選んだのかを、口に出してみないと気づけないこともあるんだ」
それはまるで、
語ることそのものが、救いになるとでも言うようだった。
「私は君に説教がしたいわけじゃない。
怒りも悲しみも、理由があって当然だ。
だが、その理由を自分の言葉で確かめたことはあるかい?」
静かに、深く問いかける声。
それは相手を責めない。
ただ、ジュウシロウ自身の“内側”に触れるための、導きの言葉だった。
「だから、聞かせてほしいんだよ。どうして君が、ここにいるのかを」
その瞬間、ジュウシロウは口を噤んだまま、
しかし、初めて逃げずにじいさんを見た。
(……そういうことか)
そして、ゆっくりと呼吸を整え、語り始める。
そして、ジュウシロウは口を開く。
「……こいつらのほとんどが“外”の人間だ」
口を開いた瞬間、吐き捨てるような響きが混じった。
“外”――
この国にとって、存在してはならない“異物”の烙印。
純正な日本人ではない証。
「不法に日本に入ってきて、そこで子どもを産む。
国籍を子どもに取らせて、自分も生き延びる。
日本人の子を作る必要なんてない。
金持ちのケツを舐めて、そうやって生き残ってきた奴らだ」
老人はただ頷いた。
憐れみも、否定も、賛同もなく。
それは「聞く」という行為に徹した、大人の姿勢だった。
「2042年の移民法で、俺たちは親と引き裂かれた。
子どもは基本的に施設行き。親は不要物として強制送還。
もっとも、ストリートで薬をやってたような奴らが、戻ったところで生きられるわけもなく、大抵は“処理”されたと聞いてる」
声は平坦だった。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、積み重ねた事実の列挙。
「施設はまだマシだったな。飯は少なくともでた。
チャウシェスクの落とし子よりはマシって、
施設の奴らによく言われたよ」
苦笑とも、毒ともつかぬ吐息を漏らす。
だが、そこには一滴の温度もない。
「そして、俺たちは売られることになった。
臓器だよ。養えない子どもを“資産”に変える、理屈は単純だった。
気がつけば、俺たちは武器を持ってた。
理屈はわかるか? 俺たちがやろうとしたことの」
ジュウシロウは、視線を老いた男に向けた。
試すように、問いかけるのではなく、ただの確認として。
言葉に飾りはなかった。
だが、その奥には
生きるために人を殺すことを選ばざるを得なかった
そんな人間の、静かな重さが確かにあった。
「……そうか」
老人は低く、呟くように言った。
だが、そこに押し付けがましさは一切なかった。
むしろ、静かに“重さ”を受け止めているようだった。
その後、二人はゆっくりと話し込んだ。
まるで、永遠に続くかのような静謐な時間だった。
老人は語った。
自分がもう老後を迎え、現役を退き、
今日は旧友の葬式に向かう途中だったこと。
生きる意味を、少しずつ“整理”し始めていること。
だが、それでも未練は尽きないこと。
ジュウシロウも話した。
組織のこと。
“アダルトレジスタンス”の理念と、
その裏にある、本音と、矛盾と、痛み。
彼らが今、何をしようとしているのか。
そして、自分がこれからも、その道を進む覚悟があること。
老人は、それを否定しなかった。
「そうか」と、ただ頷き、耳を傾け続けた。
驚くほど、静かに。
「じいさん」
ジュウシロウが言った。
「こんな話をして、楽しいか?」
「楽しいよ」
老人は即答した。
「わしはな、もう先が短い。
君のような若者の“本音”に触れられることは、この歳になると何より貴重なんだ」
「俺たちに止めてほしいとは思わないのか?」
「やめてほしいさ。
だが、君たちはもう“止まれない”だろう。
少年法も改正され、捕まれば君たちは死刑を免れないだろう。
それが分かるから、押し付けることはしない」
「……こうすることでしか俺たちは選べなかったから」
「そうか。なら、わしら大人の責任だな」
「責任?」
「わしは、変えられなかった。
動かなかった。
できるかもしれなかったのに、しなかった。
その“無為”が、君たちをここまで追い詰めた」
ジュウシロウは沈黙する。
責めたかったはずの相手に、自ら責任を引き受けられると、
その怒りの矛先が霧散していくのがわかった。
「……じいさんは、幸せなのか」
「幸せだよ。後悔は山ほどあるが、それでも、多くの人に必要とされた人生だったからな」
「……好きなことをできるようになるだけが幸せじゃないのか?」
「好きなことをやるのは、若いときの特権さ。
歳を取ると、“共に生きる”ことの重みが、それに勝ると分かってくる」
「共生か……そんなもん、俺たちには遠い言葉だ」
「遠くても、誰かが語らなければならん。
わしは叶えられなかったが、君が否定することではない」
「……やる意味があるのかよ」
「あるかもしれんし、ないかもしれん。だが“種を蒔く”のが、わしら大人の役目なんだよ」
「俺たちは、種なんかじゃない。摘み取られた側だ」
「そうかもしれない。
だが、“被害者”のままではいられない。
君も、やがて大人になる。
そのとき、次の世代にどう向き合うか――
それが、君自身が絶対に突き当たる問いになる」
ジュウシロウは、返す言葉を失った。
「ジュウシロウさん、帰還命令です」
部下の声が、静かに割り込む。
「……わかった」
立ち上がりかけた彼に、老人は微笑む。
「焦るな。結論は急ぐな。
人生は、そうやって少しずつ分かるものだ」
一度、足を止める。
「じいさん」
「なんだね」
「……また会えるか?」
「もちろん」
ジュウシロウは、深く一礼して背を向けた。
重い鎖のようなものが、心に絡みついたまま。
羽田空港で、犠牲者は一人も出なかった。
だが、彼の中では確実に、何かが傷跡を残していた。
Xの使い方がわからない…。
ポストの送信ができなくなる…。
いいねやリポストができなくてすみません!