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【☆3.2万PV】アダルトレジスタンス   作者: オレノマツ
第二章 国家騒乱編
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File:010 ナイフと斧

最初から「あの領域」まで集中していれば、ソウ相手にこれほど苦戦はしなかったかもしれない。

それは事実だ。

だが、坂上が手を抜いていたわけではない。

単純に、爆発的な集中力を維持し続けることは、彼の戦い方には存在しないからだ。


坂上は武人としての矜持を持っているが、その本質はあくまで自衛官である。

彼の精神構造は、プロが用いるマインドセット(色彩による警戒区分)に基づいていた。

軍事や護身では『クーパーのカラーコード』と呼ばれるものだ。



【白色(Condition White)】

:完全な平時。無防備な状態。


【黄色(Condition Yellow)】

:警戒状態。周囲に気を配り、不測の事態に備える。


【赤色(Condition Red)】

:交戦状態。特定の標的に対し、即座に対処する。


「黄色」で最適化された意識を、接敵の瞬間だけ「赤色」へ引き上げる。

それが、心身を疲弊させずに長期間の任務をこなすための、自衛隊で叩き込まれた鉄則だ。

坂上にとって、ハウンドに襲われる程度は個人という条件付きであれば「日常の延長」

――即ち、黄色信号の範疇でしかなかった。


事実その時はダメージの一つすらもらっていない。


だが、ソウというイレギュラーを前にして、彼は初めて意識を「深紅(ディープ・レッド)」へと叩き込んだ。


それは前崎が見せるような、視界がモノクロに染まり、銃弾が止まって見えるほどの「怪物の領域」ではない。

あれは脳の構造を根本から理解し、神経を焼き切る覚悟で行う、半分は自殺に近い禁忌の技術だ。

対して坂上のそれは、高度な訓練を積んだ人間ならば到達しうる「プロの極致」。

だが、その僅かな差が、生死を分かつ確実な勝因となった。


そして、もう一つの勝因。

それは「武器の構造的欠陥」にある。


子供はよく純粋な疑問を抱くものだ。

「なぜ軍人は、圧倒的なリーチと破壊力を持つ剣や刀を捨て、わざわざ射程の短いナイフを腰に差すのか」と。


物語の中の英雄たちが長剣を振るう姿に見慣れた目には、ナイフはあまりに無力で、貧弱な武装に映る。

だが、硝煙と泥にまみれた現実の戦場において、ナイフが生き残ったのには、美学を排した「血の教訓」がある。


最大の理由は、言うまでもなく「圧倒的な多機能性(ユーティリティ)」だ。

実のところ、戦場でナイフが「人を傷つける」ために抜かれる機会など、全体の運用の1割にも満たない。


残りの9割は、食料の開封、障害物の除去、シェルターの設営、あるいは不発弾の処理といった「道具」としての役割だ。

重く嵩張る剣は、これらの日常的な作業において、ただの「使いにくい鉄の棒」に成り下がる。


しかし、対人戦闘という極限状態に話を絞ったとしても、ナイフには長剣や斧が逆立ちしても勝てない「戦術的優位性」が存在する。


その最たる強みが、「左右の完全な互換性(アンビデクストラス)」だ。


日本刀や斧、あるいは大型のコンバットソードといった得物は、その重量と遠心力を利用するために、特定の「構え」と「利き手」の連動を前提としている。

これらを利き手ではない「逆の手」で扱おうとすれば、精度は劇的に落ち、威力は半減し、隙だらけの無様な踊りを晒すことになる。


対して、ナイフという武器はあまりにコンパクトだ。

右から左へ、あるいは順手から逆手へ。

コンマ数秒の間に持ち手を変えたとしても、その殺傷力と取り回しにはほとんど変化が生じない。


この特性が、生死の境目で決定的な差を生む。

例えば、銃撃戦の中で利き腕を撃ち抜かれたらどうなるか。

あるいは、近接格闘で右腕を封じられたら。

その瞬間、剣や斧を頼りにしていた者は、その重い鉄塊とともに死を待つだけの存在に転落する。

しかし、ナイフを扱う者は、残された左手で即座に「100%の牙」を剥き出しにできるのだ。


「片腕を失っても、殺傷能力が欠損しないこと」


これこそが、数多の武器が淘汰されてきた歴史の中で、ナイフが最後まで兵士の腰に残った最大の理由である。


さらには「閉所における回転率」も無視できない。

現代戦の主戦場は、広々とした平原ではない。

狭い路地、視界の悪い室内、あるいはもつれ合った組み打ちの状態だ。

長すぎる刃は壁に当たり、振るうための「予備動作」が隙となる。


しかし、ナイフには予備動作がいらない。

密着した状態から、ただ「押し込む」だけで致死的なダメージを与えられる。


「リーチが短い」という欠点は、プロの技術によって「どこからでも、どの手でも刺せる」という究極の機動力へと変換されるのだ。


だからこそ、坂上は自らの肉体を賭してでも、ソウの「利き腕(武器の持ち手)」への攻撃を優先した。

相打ちで右肩を潰されれば、斧を振るうソウの戦闘力は激減する。

だが、ナイフを扱う坂上にとって、左手への持ち替えは「微調整」の範囲に過ぎない。


「……ま、それが敗因だ。クソガキ」


利き手ではない左手で必死に放たれた斧の最後の一撃。

そんなものは、坂上にとっては左手一本で白刃取りできるほどに「脆弱」で、鈍いものだった。


気絶し、泥のように地面へ倒れ込んだソウを冷たく見下ろしながらも、坂上の指はアリアの細い首を、万力のような力で掴んだまま離さなかった。


前崎と目が合う。

最初の場所から一度も動いていない。


だが一連の死闘を静観していた前崎が、ふっと天を仰ぐように坂上を見つめた。

その視線は、坂上の勝利を確信しているのではなく、むしろ彼の「無知」を憐れんでいるかのようだった。


「……なぜアリアを人質に取っている?」


「お前がまた"交渉だ"なんだと、寝言を言い出したら面倒だからな。

 確実な抑止力という、馬鹿でも分かりやすい形を取ったまでだ」


坂上はアリアの首にナイフを当てたまま、冷笑を浮かべる。

だが、前崎の表情はぴくりとも動かない。


「理屈は通っている。

だが坂上、お前は一つ致命的なミスを犯しているぞ」


「あん……?」


「4年前の一ノ瀬の報告書を、一度も読んでいないのか?」


「何を……!?」


その瞬間、坂上が拘束していたアリアの細い腕から、暴発するような「圧」が漲った。

爆ぜた空気の弾丸が坂上の腕を弾く。

アリアの片手には、先ほど破壊されたはずの片手斧が真っ新な状態で、意志を持つ獣のように握り直されていた。


「なっ、何だと!?」


完全に想定外の反撃。

神経外骨格の防御を突き抜け、鋭い刃が坂上の肉体まで届き、鮮血が舞う。


完全に想定外の反撃。アリアの振るった刃は、坂上の肩から脇腹にかけてを袈裟懸けに深く切り裂いた。

神経外骨格の簡易装甲を断ち割り、生身の肉と骨を削る確かな手応え。


「ふっ……が……はぁぁぁぁぁ……ッ!!」


坂上が膝をつき、激しく、しかし規律の取れた呼吸を吐き出す。

溢れ出そうとする内臓と鮮血を、強引に筋肉を硬直させることで押し留める止血操作。

顔面をどす黒い余裕が消え、脂汗が流れる。

死の淵を歩いてきた男特有の、凄絶な生存本能だった。


前崎はその様子を眺めながら、淡々と語を継ぐ。


「……そいつらは、意識をシンクロさせているんだ。

 幼少期からの異常なピアノ練習の副産物か、脳波を同調させ、

 互いの人格を"入れ替える"ことができるらしい。

 科学的にはあり得ないオカルトの類だが……

 面白いと思わないか?人間というのは」


坂上が改めて目の前の少女を見据える。

そこには、怯えていた少女の面影は微塵もない。

冷徹で、鋭利で、先ほどまで刃を交えていた「あの少年」の気配を纏った異形。


「……馬鹿げているな。全く、虫酸が走る」


坂上は屈辱に震える手でナイフを構え直した。


「勝負は、既に決しました」


少女の唇から漏れたのは、少女の声でありながらも少年の理知的な声音だった。

アリアは国会議事堂の屋上の床を粉砕するほどの踏み込みで、坂上の懐へと肉薄する。


「クソッ!」


凄まじい衝撃波。

アリアは一切の小細工を捨て、重力と遠心力を乗せた斧を叩きつける。


(大振りだ……!

  所詮は女の戦闘勘、容易く見切れる!)


坂上はまだ、自らの優位を信じていた。

視界を奪うべく、自らの傷口から溢れる血を、目つぶしとしてアリアの顔面へ撒き散らす。


「それはもう、見ました」


「人格」は入れ替わっても、戦いの「経験」は共有されている。

坂上は見た。目を閉じたまま肉薄する少女の姿を。


ナイフを振ったのはほぼ無意識だった。


それでも坂上の数段レベルの落ちたナイフの攻撃を斧の(あご)と呼ばれる部分で坂上のナイフを引っ掛け、無慈悲に弾き飛ばした。


気を取られたのか、彼女を見失う。

だから死角から迫る少女の姿を、遅くなった時間の中で坂上はただ呆然と見届けるしかなかった。


「お返しです」


坂上の顎に、強烈な左フックが突き刺さる。

利き手ではないはずの左。

だが、その一撃は坂上の意識を完全に断ち切るに十分な威力だった。


「……あなたに、大事なことを教わりました。

 斧はともかくとして素手に関しては、左右の差は思ったより関係ないのですね。

 僕たちは『ピアニスト』ですから。

 両方の指先まで、同じように神経を通わせているのでね」


坂上の体は、糸が切れた人形のように国会議事堂の屋上から投げ出された。


だが、地面に叩きつけられる寸前、落下地点に先回りしていた前崎がその体を無造作に受け止めた。


「まさかここまで食い下がるとは思わなかったぞ。

 さすがは俺のライバルだな。

 ……おい、手当の準備を」


前崎の背後から、影のようにHound(ハウンド)のメンバーが現れる。

担架で運ばれていく坂上は、薄れゆく意識の中で、自分を見下ろす前崎の顔を最後まで呪わしげに睨みつけていた。

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