File:006 納得ができない
またしても、あのバイトの少女の動画だ。
街頭の大型ビジョンでも、SNSのタイムラインでも、救われた少女の感謝と、Houndの正義を称える映像がループしている。
編集の跡が露骨で、あまりに恣意的だ。
確かに一時的に日本は悪化した。
だが徐々に良くなっている。
数値の上では、治安も経済も。
……本当に、これが正解なのか?
坂上は、脳裏にこびりつく雑念を振り払うように、自重トレーニングの速度を上げた。
日課のメニューを終え、全身から噴き出す汗を拭う。
自衛隊は今、奇妙な「待機期間」という名の休暇に入っていた。
無理もない。
前崎が起こしたあの政権転覆だ。
組織の末端まで混乱が波及し、機能不全に陥っている。
それでも動けるものは動いている。
だがそれでもHoundとかいう前崎の私兵が独自に解決して動いている。
だから何をしたらいいかわからない。
そうやって自衛隊の後輩から連絡が届いた。
それでも、口座には予定通り給料が振り込まれている。
それがまた、前崎に対する薄気味悪さを助長させていた。
「パパー!」
「お、どうした綾香?」
リビングから飛び込んできた愛娘を、坂上は逞しい腕で抱き上げる。
「あのおねえさんとパパって、どっちが強いの?」
テレビに映るハウンドの少女を指差して、綾香が無邪気に首を傾げる。
「……そりゃ、パパに決まってるだろ。
パパは世界一強いんだぞ」
「本当? パパ、すごいー!」
綾香は満足げに笑うと、ママに報告すると言って駆けていった。
娘の背中を見送りながら、坂上の顔から笑みが消える。
「とは言え、あいつらをどう攻略すればいいかは、さっぱりだがな」
原爆ドームの式典の日、背後を取られた瞬間に感じたあの「隔絶した脅威」。
前崎の言葉がハッタリでなく、あれと同等の戦力が「一億人」規模で潜伏しているとしたら、直接的な戦闘に一切の意味がない。
戦う前に爆弾でもねじ込んだ方がまだマシだ。
今の状況は、米軍の爆撃機が空を舞っている時に、竹槍を握らされているかつての日本人の感覚に近い。
圧倒的な戦力差を前にした絶望感だ。
前崎のやっていることは間違っている、と坂上は思う。
彼には彼の「正義」がある。
だが、前崎のやり方はかつての敵『アダルト・レジスタンス』のそれと、本質的には変わらないように見えた。
排除する対象が「大人」から「先祖のシステム」に変わっただけだ。
それでも、坂上には守るべき家族がいる。
全責任を背負って革命を強行するあの男を、友人として支えるべきなのか、それとも、一人の軍人として止めるべきなのか。
「あー……もっと勉強しときゃよかったな」
答えの出ない問いに吐き気がして、坂上はその場に寝転がった。
大人になれば誰もが抱く、空虚な後悔だ。
その時、玄関のインターホンが鳴った。
「なんだ? 受信料の集金か? めんどくせえな」
モニターを確認した坂上の動きが止まる。
そこには、見慣れた、だが今の状況ではあり得ない男の顔があった。
「お前……一ノ瀬、何の用だ?」
ドアを開けると、そこにはスーツを端正に着こなした一ノ瀬が立っていた。
「坂上さん、ご無沙汰しております」
一ノ瀬は深々と、儀礼的なほど丁寧に頭を下げた。
「お話ししたいことがあったわけではありませんが。
一応、これを」
差し出されたのは、一通の手紙。
「私はこれから、前崎さんの下に付く予定です。
……あちらが受け入れてくれるかは、まだ分かりませんがね」
「……っ!? お前、正気か!」
気づいた時には、一ノ瀬の胸倉を掴み上げていた。
なぜ自分はこれほど激昂しているのか。
自分でも説明がつかない衝動だった。
「……なるほど。坂上さんはやはり、前崎さんのやり方には反対なのですね」
一ノ瀬は動じることなく、静かな目で坂上を見つめている。
坂上は、忌々しげにその手を放した。
「正直、わからないのが本音だ。
あいつは、ガキ共とやり合う前から奴らの兵器の有用性に気づいていた。
数年先の未来まで見据えていたんだ。
……現場の空気を吸うことしかできない俺が、口出ししていい領域なのかどうか、判断がつかん」
「私だって同じですよ」
その一言に、坂上はハッとして顔を上げた。
「なら、なぜあいつの側に行く?」
「一線を越えたら、私が彼に止めを刺します」
一ノ瀬の声には、一切の迷いがなかった。
坂上は毒気を抜かれたように息を吐く。
「……なるほどな。
0か1かでしか考えていなかったが、そういう『抑止力』のあり方もあるのか」
「そうですよ。
まあ思考放棄とも取られられるかもしれませんがね。
それは、私の遺書です。
……まあ、坂上さんに渡したのは、何となくですよ。では」
一ノ瀬は背を向け、去ろうとする。
「おい! 東雲の嬢ちゃんには渡さないのか?」
一ノ瀬の足が止まった。
「……恥ずかしくて、そんな重いものは渡せませんよ」
今度こそ、一ノ瀬は振り返ることなく雑踏へと消えていった。
残された手紙の重みを、坂上は手のひらで確かめる。
「……そっか。
まあ、俺も俺なりの価値観に従ってみるか」
坂上は空を仰ぎ、短く息をついた。
それぞれの正義が、取り返しのつかない場所へと動き出そうとしていた。
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「行ってくる」
そう短く告げ、坂上はまだ眠りの中にいる綾香の額に、慈しむようなキスを落とした。
「……あなた、本当に正気なの?」
背後から、妻・萌香の震える声が響く。
その瞳には隠しきれない不安と、どこか諦めに似た悟りが混ざっていた。
「話した通りだ。俺自身が納得できていない。
だから、自分が納得できるまで、あいつの顔面を張り倒してくることに決めた」
「……馬鹿な人」
萌香は呆れたように言い切った。
だが、その唇は微かに弧を描いている。
「でも、そういう馬鹿なところが好きで、私はあなたを選んだのよね」
彼女は坂上の逞しい背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
「必ず、帰ってきて」
「もちろんだ。俺を誰だと思っている。
世界最強の男、坂上真司だぞ」
坂上は愛する者の体温を振り払い、玄関へ向かう。
同時に、装着した神経外骨格に意識を接続した。
駆動部が「キィィィィン」と高周波の唸りを上げ、全身に膨大なエネルギーが充填されていく。
ドアを開け、外気に触れた瞬間、坂上は鼻で笑った。
「……まあ、予想通りというか。やっぱり監視されているよな」
そこには、月明かりを浴びて佇む5人の人影。
フリルドレスを夜風に揺らす、人形のように整った顔立ちの少女たちが、坂上の退路を断つように配置されていた。
「坂上真司様。どちらへ行かれる予定でしょうか?」
中央に立つ少女が、抑揚のない声で問いかける。
「決まってるだろ。お前らのボスのところだ」
「何をしに?」
「ぶん殴りに。
あいつ、広島での件が終わったら一緒に飯を食いに行くって抜かしやがったくせに、すっぽかしやがったからな。
礼儀知らずには教育が必要だ」
「……なるほど。状況を把握しました」
少女たちは一斉に、無機質な殺気を膨らませる。
「私たちの役目は、あなたを阻止することです。
ですが、ご家族が近くにおられます。
場所を移しましょう」
「随分と優しいんだな。
正直、人質に取られることくらいは覚悟してたぜ」
「私たちは国家の公僕です。
ルールは書き換えますが、人としての最低限の礼節は守るのが我々の規範ですので。
……なぜなら、ここで法を犯し、罪人となるのは、あなた一人だけですから」
「ハッ、5対1で『礼節』なんて、ブラックジョークが効いてるぜ」
「なんとでも。それが戦略的と……。――少々お待ちください」
ふいに、一人の少女が耳元に手を当てた。
数秒の沈黙の後、彼女の瞳が冷たく坂上を射抜く。
「坂上様。前崎総統から伝言です」
「……あ?」
『そいつら5人を倒してみろ。
そうすれば、会ってやる。
国会議事堂で待っている――だそうです』
坂上の口角が吊り上がる。
「……ハッ!! 相変わらず、どこまでも上から目線な野郎だ。
いいぜ、ぶっ潰してやんよ!」
坂上は腰の抜剣レバーを叩く。
高周波振動刃のナイフが鞘から解き放たれ、闇夜に青白い軌跡を描いた。
対する少女たちも、スカートの裾を翻し、それぞれの獲物を構える。
「――前崎総統直轄部隊『Hound』。
個体ナンバー34から39。制圧を開始します」
「――防衛省統合幕僚監部直轄、特殊作戦群(SOG)1番隊隊長。坂上真司。
どけ人形!……お前らに用はねぇ!!」
深夜の住宅街。
静寂を切り裂くように、日本史上最強の軍人と、新時代の暴力装置が衝突した。




