アダルトレジスタンス グラウンドゼロ
1997年、オーストラリアの大学で、ルシアンたちは世界で初めて量子テレポーテーションに成功した。
これは「世紀の大発見」と称され、世界中の学術界を震撼させた。
ルシアンはまだ助教授に過ぎなかったが、その歴史的瞬間に立ち会い、名を刻むことができたことは何よりの誉れだった。
その証拠として多くの研究者の夢でもあるNature に論文として掲載され、多くの学術論文で引用された。
教授に至ってはノーベル賞候補にノミネートされたほどだ。
しかしその成果は、メディアが騒ぎ立てるような人間が瞬時に移動する奇跡や、子どものころにアニメで見た「どこでもドア」の実現には程遠かった。
実際に転送できるのはたかが粒子の量子状態のみであり、人間レベルの情報量(原子数で10の28乗以上)には程遠い。
人間一人を構成する原子数――10の28乗。
そのうちのわずか1、つまり1兆分の1兆分の1兆分の1。
砂漠に落ちた一粒の砂を拾う方がまだ容易い。
光子を1兆年テレポートし続けても、人間の形には一歩も近づかないだろう。
後の研究でも盗聴不可能な量子暗号通信や、長距離の量子インターネット開発が主なものになっていった。
もちろん人工的なブラックホールで空間を歪めるような方法なども考えられたが現実的ではないし、例えできたとしてもあまりにも危険すぎる。
現実の応用までには越えなければならない壁が山ほどあった。
ただいずれは必ずできるという確信があった。
原理自体は簡単だからだ。
瞬間移動の仕組みを説明するならこうだ。
平面の紙に2つの点があり、「点と点の最短距離を教えて」と僕があなたに問うとする。
大多数の人間は誰もが点同士を直線で結ぶだろう。
しかし本当の最短距離は紙そのものを折り、二点を重ねてしまうことにある。
これが「ワープ」の原理であり、人類が長く夢想してきた瞬間移動の正体だった。
原理はわかっているがそれができない。
なぜならばコンピューターの処理速度がまだ技術においついていないからである。
こればかりは歯がゆいが仕方がなかった。
ルシアンはこの技術に世界を変える夢を託していた。
国境も制度も超え、人々が自由に往来し、共通の目的に向かって進む未来。
オーストラリアで先住民族との対立を見てきたルシアンにとってそれは叶えるべき人生の命題だと考えていた。
だがそれは技術者が陥りやすい罠でもあった。
2020年代付近の話にはなるが孫正義が「IoT(Internet of Things)で人の感情が可視化される」と語ったことがある。
だが、そうなった時に社会がどう変質するのかという問いを欠いたままでは、技術は理想論に過ぎない。
技術者はしばしば「良いものを作れば後は世界が勝手に良くなる」と思い込み、完成した技術の先にある現実の歪みから目を逸らす。
アインシュタインの「相対性理論」が原子爆弾へと転用されたことは、その最たる例であろう。
天才の理想は、多くの場合、本人の意図を離れて暴力的にねじ曲げられるのだ。
それを完全に予知し、株主たちを納得させたのはスティーブ・ジョブズ程度だ。
発明というものは作った本人ですらわからないような未来へと人々を巻き込んでいく。
それでも二十一世紀を迎えた人類は、過去の失敗から多少なりとも学んでいるはずだった。
――そう信じられていたのはほんの束の間である。
1年が経ち、研究は停滞し、ルシアンは倦怠を覚え始めていた。
教授は「発見した」という事実に満足し、研究への情熱を失った。
定期的な講演会とスポンサーからの不労所得を得て、学会への発言力も増し、来週はオーロラを見に行くそうだ。
だがルシアンの胸には、依然として燃え残る野心があった。
研究室を出て独立を決心した。
彼は実験そのものよりも「どう応用するか」を考えるようになり、時代に先駆けてパソコン一台で自由に稼ぐというこの時代ではまだ珍しい働き方を始めていた。
といっても、企業から案件を受けて納品する程度の小さな仕事にすぎなかった。
そんな折、一通のメールが届いた。
差出人はロシアのクルチャトフ研究所。
内容は、メタトロンと呼ばれる機械を応用し、人間の記憶を転送する研究に参加してほしい、というものだった。
冷戦終結から九年。
かつては政治的な緊張は残っていたが、今なら渡航しても問題はない。
定期的に収入も手に入る上、成果報酬は莫大だった。
ルシアンにとってこれほど渡りに船な誘いはなかった。
ロシアに降り立った彼をまず打ちのめしたのは、刺すような寒さだった。
しかしそれ以上に衝撃を与えたのは、倫理という概念の軽さだった。
国家が率先して、犯罪者や「社会的価値が低い」と見なされた人間を人体実験の素材として差し出してきたのである。
そこでは人的資本の価値など紙屑同然だった。
命が恐ろしく軽い土地で、ルシアンの研究はこれ以上なく加速していった。
「倫理さえなければ文明は百年早められる」――
皮肉にも、かつてナチス・ドイツの蛮行で医学実験の功績が唯一認められたことと同じ理由で、彼の夢は現実へと一歩近づいていったのである。
そしてルシアンに求められたのはメタトロンを使った記憶の移植、保存である。
資金も人材も潤沢だったルシアンの研究は加速的に進んでいった。
また副産物として人間の肉体なしでも生存できるアストラル体というものが可能性として浮上してきた。
完成の兆しが見えたとき、すでに2年が経過した時だった。
だがそう事はうまくいかなかった。
この研究自体、ソ連崩壊後のロシア初代大統領ボリス・エリツィンの依頼と口添えで資金難でありながらも優先して資金を投入してくれたために進めることができた内容だった。
そして2代目としてやってきたのがウラジミール・プーチン大統領だった。
中間報告として成果の説明を終えた直後、プーチンの後ろに控えた黒服の男たちが銃を抜いた。
FSB (連邦保安庁)である。
その行為の意味は明白だった。
彼らは情報流出を防ぎ、さらに約束された報酬を支払わないために、研究者本人を抹消する判断を下したのである。
ルシアンはその意図を瞬時に理解した。
反論や交渉に意味はない。
撃たれればすべて終わりだ。
だが彼には、あらかじめ用意していた選択肢が一つだけ存在していた。
黒服が銃を抜いた時点で、施設側の安全装置を使う計画はすでに仕組まれていた。
会議室は試作型メタトロンを置いた設備室に隣接しており、扉は研究者用ICで即時解錠できるよう設定してある。
彼はあえて席をその扉の横に取り、さらに床下に隠したスイッチから火災警報を強制発報できるようにしていた。
警報が作動すると同時に、天井から不活性ガスが散布され、照明は自動で半減する。
射線と視界は著しく悪化し、攻撃側に一拍の遅れが生じる。
実際に黒服たちは引き金にかけた指を止め、環境変化に対処するためのわずかな間を作った。
ルシアンはその一瞬の遅延を利用した。
扉までの距離は数歩にすぎず、彼は計算通りの動線で別室へと逃げ込んだ。
別室には試作段階のメタトロン装置が設置してあった。
これには人間の記憶情報を強制的に抽出・転送する機構を持っており、理論的には「人格の移植」がすでに可能な状態である。
プーチンにはまだ未完成といっていたが、自分が報酬を吊り上げるためにやっていたことがバレたようだ。
ルシアンは即座に装置を起動し、偶然隣室にいた企業人を対象として強引に意識を刈り取り、メタトロンに押し込んだ。
結果として、その人物の神経回路は強制的に上書きされ、肉体はルシアン自身の意識によって占有されることになった。
その人物に成り代わり、メタトロンを破壊しその場から逃走した。
対象となった人間は日本出身であった。
このことが、ルシアンのその後の逃避経路を決定づけた。
元のルシアンの体は射殺され、死亡したものとしてロシア国内で秘密裏に処理された。
表向き「ルシアン」という人物は存在しなくなり、彼は事実上“死んだ”ことになった。
こうしてロシアの魔の手を逃れ、日本へと飛んだルシアンは、偽りの身分で潜伏生活を始めた。
ルシアンの日本という国の認識は第二次世界大戦で負けた国程度の認識だった。
だがその認識は大きく間違いだったことを思い知らされる。
彼を驚かせたのは、この国の民度だった。
夜に女性や子どもが一人で外を歩いている
――その光景は、命が軽すぎる国から来たばかりの彼には信じがたいものだった。
「守ってやらなければ」と思わず足を止めたこともある。
だがすぐにストーカーと誤解され、警察に問い詰められた。
あれは苦いが忘れられない記憶だ。
それでも次第に、ルシアンはこの国を好きになっていった。
命を軽んじない国。
――自分がかつて夢見た未来の小さな断片を、ここに見出したのかもしれなかった。
しかし、その静かな生活は長く続かなかった。
福島第一原発の事故と汚染の報道が世界を揺るがしたのだ。
量子力学を修めた者として、ルシアンはその恐ろしさを直感的に理解していた。
彼は正義感から、国や関係機関に対して対応策を提言したが、その行為が致命的な過ちとなった。
自分が本来日本人ではなく、別の人間の肉体を借りていることを、ルシアンは一時忘れていた。
提言活動によって彼の存在は再び浮上し、監視と追跡の対象になってしまったのである。
ルシアンは追跡を避けるため、当時研究者として親しくしていた海外の男の体へ再度転移する決断を下した。
その人物はイスラム系の人間であり、シリアへ渡航していた。
衝撃的だったのは、彼が日本出身でありながらもISISの組織に近い人物であったことだった。
直接的な構成員ではないが、取引や支援のネットワークに関与しているレベルの人間だったのである。
もちろん日本から直接シリアに行くことはできず、ルシアンは複数の国を経由して移動した。
それでも彼は日本を忘れられなかった。
あの国に一瞬でも見た“未来の断片”が、心の奥に深く刻まれていたからだ。
そこから三〇年近くが経過していた。
シリアに逃げ延びた後、私はさまざまな国を転々とした。
中国、アメリカ、ブラジル……そのどこでも「日本のパスポート」を使った。
あの旅券が持つ国際的信頼の強さは、空港で待つたびに実感した。
あんな奇跡の国はない、と。世界が手本にするべきだ、と。
その旅の途上で、私は一人の男に出会った。
アレイスター――本名は違うが、彼は自らを「レスターと呼んでくれ」と言った。
まだ二十歳そこそこだったが、強烈な存在感を放つ人物だった。
イスラム圏の文化や政治の話をするとき、彼は過激な言葉を隠さなかった。
だが、それも文化的背景に起因するものだと私は理解し、特に不快感はなかった。
あるとき、私は彼に率直に尋ねた。
「なぜテロを起こすのか?」
彼は即答した。
「言葉ではアメリカの理論を超えられない。暴力しかない」
――その目には迷いがなかった。
意外なことに、レスターは日本に住んだ経験があるという。
文化への理解もあり、妙に親しみやすかった。
そんな彼がある装置を紹介してきた。メタトロンだった。
私がかつて開発に関わったものとは別系統の、新たな試作機だという。
情報を追うと、どうやらロシアが裏社会を通じて流出させたものらしい。
どうやら私が作ったものから随分改良されたらしい。
三〇年という歳月を経て、ホログラム転送装置の前身ともいえるものが再び形になりつつあった。
だが性能が良くなった一方で不良品(というより未完成品)が大多数で転送する側とされる側両方が廃人になるケースが多いようだ。
「これが私の作ったものだ」と告げると、彼は半信半疑だったが、その場で理論や仕組みを説明すると最終的には信じてくれた。
このやり取りが、私をISISに協力させる転機になった。
私はシリアの研究機関に籍を置くことになった。
といっても表向きだけで、実態はISISの息がかかった極めて特殊な場所だった。
表向きは廃工場を改装した研究施設として振る舞っていたが、地下に降りれば事情はまるで異なった。
複数の防爆扉を抜けた先にある隔離格納室は、恒温・恒湿に管理されたクリーンルームの環境を持ち、精密光学台、レーザー冷却装置、超低雑音の計測器、そして大容量の演算サーバ群が設置されていた。
ホログラムや量子関連の試験に必要な「環境」が意図的に整えられていたのである。
これらの設備は現地で一から作られたわけではない。
部品の多くはブラックマーケット経由で輸入され、元研究者や技術ブローカー、国外の“協力者”が組み立てを請け負っていた。
さらに、オンライン上のネットワークを通じて、金と仕事に恵まれないが技術力のある者たちに業務を分散発注する形で、基地の設備は着実に充実していった。
つまり表面は過激組織の影響下にある施設だが、地下では国際的な技術ネットワークが利害で結びつき、通常の軍需や工房では到達し得ない水準の装備が運用されていた。
すべては「アメリカへの復讐」という目的のために。
私が関わることになったのは、まさにその地下の「最先端」ラインであり、表向きの雰囲気とは裏腹に、研究としての体裁と成果を求められる場でもあった。
だがある時、私が私用で席を外していた隙に、研究施設は攻撃を受けた。
軌道兵器、通称「サテライトキャノン」が降り注ぎ、地下の設備もろとも施設は一瞬にして灰燼と化した。
レスターは辛うじて生き延びたようだが、私には確信があった。
――これ以上ここに留まれば、今度こそ自分が殺される、と。
私はレスターの仲間に、予備として制作していたホログラム転送装置の位置と状態を伝えた。
彼らが装置を回収・確保するのを見届けた後、私は日本へ戻る決断を下した。
日本を、自分の人生の墓場にしたかった。
年齢を重ねたからであろうか。
もう、私は殺し殺されの自分の人生に疲れ果てていたのだ。
だが時は二〇三九年。
私が若き日に夢と理想を託したあの国は、もはや崩壊していた。
通りには栄誉でもなく未来でもなく、ただ生き延びるための苛立ちが渦巻いている。
高級車は路肩の子どもたちを気にも留めずに走り去り、税は信じられぬほど重く、貧富の差は広がるばかりだった。
私の胸にあった「日本人としての短い誇り」は、やがて悔しさへと変わった。
その悔しさが、私を動かした。
私はこの国を良くしなければならない、と考えた。
それが私の最後の仕事なのだと。
理屈は簡単だった。
既存の仕組みを壊さずに変革することは不可能だ。
だからこそ、極端な手段――人々が「変わらざるを得ない」状況を作り出すことが必要ではないかと、次第に自分を説得していった。
まずはこの国を再び見て回った。
そこから見えたのは、構造的な原因――政治と経済の継続的な腐敗だった。
手っ取り早く制度を揺るがすには、従来の戦術では足りない。
思考は次第に暴力の可能性へと傾き、頭に「テロ」という二文字が浮かんだのは自然な流れのように思えた。
私はレスターに影響を受けたようだ。
そして十一年を掛けて準備した。
基地が露見すれば終わりだと、シリアで学んだ教訓があった。
だからこそ、表象を隠し、理屈と理論で人々を納得させる道を模索した。
私は亜空間の理論や、ブラックホールによる空間歪曲という概念に執着したが、これは方法論ではなく「象徴」として使用した。
人々の想像力と恐怖に働きかけるための言説として使ったのだ。
だがこれはアプローチとして良くなかった。
カルト宗教として見られ、嫌煙されたからである。
ならば懐柔するなら子どもだ。
最初の一歩として、ケンが集った。
その過程で偶然にも(奴は意図的だろうが)体の大半を失ったもももレスターと日本で会うことができ、レスターはその考えに賛同した。
サテライトキャノンで全身を焼かれ何か変わったのか、私の言葉に従っていた。
過去に過激思想に塗れた青年とはまるで別人だった。
次いでジュウシロウ、そしてカオリもレスターが連れてきたことで加わった。
数は増え、緩やかな共同体が形成された。
私たちは互いに傷を舐め合い、対話を重ねていった。
彼らの怒りと希望を焚きつけ、行動へと向かわせれば、社会は変わるのではないかという合理化が働いた。
途中でレスターの裏切り(当時は事故だと思っていた)もあったが、コミュニティは成長していった。
そして、実行の日が来た。
シンフォニアが落ちた時、私は初めて自分の胸の奥の熱が現実になったのを感じた。
初めて子どもたちだけで引き起こした行動だった。
達成感があった。
努力が報われた、という浅い確信が一瞬だけ私を満たした。
だがそれも長くは続かなかった。
これは、アダルトレジスタンス壊滅の八か月前の出来事である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
だが結局、私は何もできなかった。
だからこそ、私の人生を邪魔してくれた30代のあの男にすべてを託すことにした。
なぜか?
嫌がらせ?期待?コンプレックス?嫉妬?
何か違う。
ただ見てみたかったかもしれない。
自分がどうやってもできなかったことを他人がやったらどうなるのか。
思ったことはないか?
もし自分のくだらない人生を成功者が完全にラジコンのようにコントロールしてもらえれば恐らく成功できるだろうと。
……なんて幼稚だろうか。
死の淵に立った後にこのようなことを考えるとは。
来世は工学ではなく、哲学を専攻しよう。
そんなくだらないことを考えながらルシアンは崩落するSGの闇に沈んでいった。




