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File:099 スパイ

ソウが日本に来て、ちょうど一年が過ぎたころだった。


――その日も、音楽堂でいつも通りの練習をしていた。

扉が爆ぜる音とともに、警察が雪崩れ込んだ。


「大丈夫だから……!」


とっさに僕らを抱き寄せ、盾になったのは先生だ。

細い腕の震えと体温を、いまも忘れない。


後で知らされたのは、信じがたい理由だった。

僕の両親に「スパイ容疑」。

日本の機密を盗んだのだと。


ありえない。音楽しか知らない家系に、なぜ?

だが家宅捜索で押収された「証拠」は、父のPCから見つかったという。

留守中に何者かが侵入し、データを仕込んだ痕跡――それを誰も見ようとしない。


アナは唇を噛み、全身を強ばらせた。

僕らはそのまま勾留所へ運ばれ、父は烈火のごとく怒った。

当然だ。なにひとつ罪を犯していない。


けれど、僕は甘く見ていた。

この「平和な国」の司法の裏に潜む、杜撰で歪んだ仕組みを。


日本では裁判官の「印象」が判決を決める。

物的証拠より、態度と服装。

キーチェーンをじゃらつかせた若者より、仕立てのいいスーツ。

ジャージの少年より、ネクタイの会社員。

儒教の「体裁」と「序列」が、法廷の空気を左右する。


弁護士は言った。「地味な服で来てください」

けれど父は音楽家としての矜持を捨てなかった。

コンサート用の燕尾服で法廷に立つ。


――結果は、敗訴。

罪名は外患誘致。

強制送還の前に、死刑求刑の段取りまで決まり、日本で作曲した作品の著作権は「無効」とされ、権利は別人に移された。

その名は、アナの父。


嵌められた――幼い僕でも直感した。

だが運命はさらに残酷だ。

ほどなくアナの父も「共謀」で逮捕される。


真の敵は、アナの母親だった。

彼女は霧のように姿を消し、やがてロシアのスパイだったことが明らかになった。

家族すら切り捨て、祖国にすべてを捧げるという選択らしい。


パスポートや名前すら偽装されたものだった。


父たちの音楽はAIに学習され、ポップスに切り刻まれ、アイドルの口から吐き出されてオリコン一位を飾った。

クラシックの旋律は消費財に変えられ、芸術は商品ラベルとして利用された。

そして父は――痣だらけの身体で獄中から戻ってきた。死因は「獄中死」とだけ処理され、真相は闇に葬られた。


音楽家として、自らの楽曲が陵辱(レイプ)されたことに耐えられなかったのだろう。

そう考えるしか、僕の心は持たなかった。


父の死のニュースが流れた翌日から、街の温度が変わった。

最寄り駅のコンコース――


「……あの子じゃない? ニュースの韓国の」

「関わらないほうがいいよ」


そんな声がヒソヒソと聞こえた。


帰って練習しようと音楽堂へ向かうとポストには無言のビラ。

『祖国へ帰れ』『文化の皮を被った間者』

夜に剥がせば、朝には増える。

目が合えば、水のように流れる視線。


夕方には自警団めいた連中が路地を回った。

腕章の代わりにQR入りのパーカー、手には顔認証端末。

ピッ。画面の縁に赤い表示――《要注意(外国籍・事件関連)》。


「君たち外に出てもらわないでもらえるか?

 治安の維持に協力をお願いするよ。」


敵を見る目だった。

そいつらの仲間の一人には唾を吐きかけられた。


ワイドショーは「音楽家一家スパイ疑惑」で一日中埋まった。

「芸術は国境を越える? 非常時ですからね」

「外患誘致の可能性も」

「関係者によると――」が枕詞の匿名リーク。

具体的証拠は出ないのに、テロップだけが断定口調で踊る。


SNSのトレンドは分断された。

#音楽で国を売るな #移民は帰れ

反対の声は拡散されない。

モデレーションAIが治安リスクのフラグを立て、可視性を絞る。


告発系インフルエンサーはハッシュタグを量産し、スポンサー窓口を晒す。

音楽堂に機材を貸してくれていた会社には抗議電話が殺到し、契約は即日停止になった。

莫大な違約金の通知とともに。


アナは画面を閉じ、つぶやく。


「……私たち、いつの間にこの国の敵になったの?」


それでも正面から僕らを守ろうとした人が一人いた。先生だ。

報道に抗議文を送り、役所を走り、授業の合間にSNSでフェイクを潰す。


「世界で学ぶことは罪じゃない。彼らの演奏を聴いた人は知っているはず」


先生の投稿は何度も削除された。


「不適切な政治的主張」「社会不安を助長」。

それでも先生はやめない。


夜、オルガンの蓋を静かに開け、僕らを長椅子に座らせる。


「音で、ここに生きていることを証明しなさい。

 言葉が届かないとき、文化は最後の防波堤になる」


外ではまた自警団の足音。

ステンドグラスの色が夜に溶け、音楽堂は暗い海に浮かぶ小さな舟のようだった。


――が、現実は容赦しない。

口座は凍結、家賃の自動引落しは跳ね、音楽堂の鍵は会社に回収された。


在留管理AIのスコアは「赤」。

賃貸も仕事も一斉に拒まれる。


そして、最後に先生が言った。


「ごめんね」


先生は家族だと思っていた。

だけどその一言で、僕らは完全に孤立した。


生活費は底をつき、調子を崩した母の薬代も払えない。

そこへ「支援します」と名乗る大人たちが現れる。


保証人不要・即日融資――笑顔とともに差し出された契約書。

僕らは愚かだった。


3日で5割という暴利の項目すら見ることができなかった。


いや正確には出来ていた。


日本語で書かれていた契約書だがAI翻訳を行ったのにも関わらず、異体字や旧字体、ノイズのような符号を混ぜ込むことでAIが誤認識する仕組みが混ぜられていた。

僕たちが契約書を見たときは一年で一割と書かれていたはずだった。


そしてこの国の法律も碌に分からず、追い込まれていった。


利子は雪だるま式に膨らみ、返済が滞れば、夜中のドアを叩く拳。

寝ることすらできなかった。

さらに郵便受けから脅迫状やアナの顔写真に精液がかけられた封筒が滑り込む。


それに耐えていたのも限界だった。


ついにドアが蹴破られ借金取りたちが入ってくる。


「お前たち如きの稼ぎで返せる額じゃない。

 女、体を売れ。

 ハーフは希少性が高い」


僕たちは未成年。

法的には「保護」の傘がわずかに残る。

けれどアナには関係なかった。


相手は、かつて不動産や風俗で名を馳せた“組”の残党。

かつて不動とも因縁のある小室組の一派だった。

資金繰りに困り、「女の子だから」という理由で、アナを非合法のルートに流そうとした。


腕を捕まれ連れていかれるアナに僕は必死で抵抗した。

殴られ、蹴られ、床に叩きつけられても、アナにしがみつく。


「やめろ、連れていくな!」


血の味が口に広がり、視界が赤に染まっても、離さない。


「ちっ、アジア人の男は間に合っているんだよ」


そういいながら顔を蹴り飛ばされる。


グラグラと揺れる視界でアナが泣いているのが見えた。


「……音楽だけで……生きていけないじゃないか……嘘つき」


最後に悪態をついたのは誰に対してなのか。

自分でもよくわからなかった。


その時、路地の奥がざわめいた。

黄金の猿面――仮面の男が現れる。

ケン。

彼は素手で取り立て屋を次々と沈め、壁へ叩きつけ、骨の角度を変えていく。

プロの兵士のそれだ、と直感した。


「今日はいい天気……というほどでもない曇りですね」


そういって取り立て屋のリーダー格の男の顔面を踏み抜く。


「運がいいですね、君たちは」


仮面の奥の声は低く、落ち着いていた。

アナを抱きかかえ、僕の前にしゃがみ込む。


「君たち、組織に来ませんか?

 このまま死ぬか。我々と共に犯罪者と生きていくか。

 選んでください。」


選択肢なんてないも同然だった。

家も、家族も、未来も奪われて、残ったのは音楽と互いだけ。


正式にレジスタンスに加入する直前にアナが小さく頷き、言う。


「……私はもう“アナスタシア”じゃない。」


その声には、怒りでも涙でもなく、乾いた空虚だけがあった。

親に裏切られ、祖国に捨てられ、居場所を奪われた少女の心は、名前すら自分のものではないと感じていたのだ。


「親が与えた名前なんて、もう意味がない。

 裏切りに染まった家系の証なんて、消してしまいたい。」


しばらく沈黙のあと、彼女はふっと笑った。

「……なんでもいい。捨てるなら、響きのきれいな名前がいい。」


ステンドグラス越しの夜空を見上げながら、彼女の唇からこぼれたのは——


「アリア。」


泡のように儚く、吹けば消えるような旋律。

絶頂から一瞬で奈落に落とされた自分を重ねるには、これほど似合う名はなかった。

それは同時に、彼女の再生の宣言でもあった。


「これからは……アリアと名乗る。」


その瞬間、アナスタシアという名の少女は死に、アリアという新しい存在が生まれた。

裏切りの血を断ち切り、たとえ泡沫のように短い命であろうとも、彼女は自らの歌を選んだのだ。


「いいと思う。

 でも僕はソウを名乗り続けるよ。

 いつか両親の仇を取るから。」


母のお墓をSGに建てて僕はその場を去った。

冷凍保存ではなく、地面に骨を埋めるのがこの国の所作らしい。

父親の時に学んだ。


こうして僕とアリアは、アダルトレジスタンスに迎え入れられた。


後から聞いた。

ケンはなぜ僕たちを助けたのか。


それは本当に偶然だったそうだ。

偶々そこを通りかかったらしい。

普段ニュースなどは見ないそうだが、さすがに話題もあり僕たちに心当たりがあったそうだ。


そしてレジスタンスの適正と社会に対しての恨みも持っていたので勧誘に関して検討の余地は十分あったそうだ。


レジスタンスの中では僕たちは教養と知能が高かった。

当然だ。

貧乏な生まれや親に恵まれない子もいたのだから。

中には10歳も満たない年齢でありながら殺人を犯した少年や売春婦として体を売っていた少女もいた。


自分はなんて恵まれていたのだろう。


せめてもの貢献をした。

その一つが教育だった。


不器用ながらも行った。

ボスことルシアンに聞けば、AIで教育する方が効率的だが席に座らせることすらできないので君たちが適任と言われた。


そして彼女は資材調達、僕は工作班。

音の知識は、やがて武器と装置の設計に変わる。


特にエルマーとは驚くほど相性が良かった。

僕が楽器の構造や共鳴の理屈を語ると、彼は「音に反応して繊維が成長し、座った者を縫い付ける椅子」を即興で図面に起こした。

音楽が武器になる瞬間――震えた。


僕らは頭角を現し、ついには組織のリーダーへと押し上げられていく。

かつて「音楽で未来を拓く」と信じた二人が、皮肉にも「抵抗の象徴」へ変わるまで、時間はかからなかった。


ある意味で、world schoolerの教育は成功だったのかもしれない。

国家を揺らす存在を育てたのだから。

日本の司法制度は、有罪率の異常な高さや裁判員裁判での市民判断などをめぐって、先進国の中でも課題が多いと指摘されることがあります。

とりわけ裁判員裁判では、証拠よりも被告人や証人の印象に左右されるリスクがあると法学者も論じています。

もっとも、裁判大国アメリカもかつて黒人差別による誤判や冤罪が数多くありました。

そうした苦い歴史を経て改善が積み重ねられてきた面もあります。

日本の司法もまた、課題を直視しながら成熟していく必要があるのでしょう。


この小説ではそうならなかった世界線を描いています。

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