File:097 ウィーン国際ジュニア音楽祭
本番当日。
ソウの出番は後ろから二番目。
最後を任されているのはアナだった。
——正直、羨ましかった。
トリを務めるということは、それだけで大会側から「特別扱い」されている証だからだ。
連弾した時にも思ったがやはりアナは只者ではない、と実感させられる。
前の演奏者が最後の音を響かせ、会場に拍手が広がる。
いよいよ次は自分の番。
緊張? していない。むしろ高揚感で体が軽い。
舞台袖に立った瞬間、ソウは「これはサッカー選手がピッチに入るときの感覚に近い」と思った。
恐怖よりも、歓声を浴びる快感が勝っている。
「頑張って!」
「行ってくるよ」
アナの小さな声援に、自然と背筋が伸びた。
——観客全員、見ていろ。
今から“見たことのないもの”を見せてやる。
ソウは演奏に臨むとき、あえて傲慢な自分を演じる。
「俺が聴かせてやる」という立場を取るのは、虚勢ではない。
それだけの練習を積み重ねてきた確信があるからだ。
選んだ曲は——
ショパン《エチュード第10番第4曲〈急流(Torrent)〉Op.10-4》。
通称「トレント」。
わずか2分半。
だが、その間に要求されるのは、常人では到達できない超高速の音型。
鍵盤を埋め尽くすアルペジオ、跳躍、スケールの奔流。
クラシック界で「最高難度」と言われる所以は、音符の多さや速さではなく、“弾けるはずがない”領域を人間の肉体に強いるからだ。
子どもの体格で、この曲を完璧に制御できる者など存在しない。
——はずだった。
指が鍵盤に落ちた瞬間、鋭い音がホールを切り裂く。
小柄な少年から放たれるとは思えぬほどの闘志と推進力。
音が“流れる”のではない、“襲いかかる”。
観客の目が次々と見開かれる。
前列の審査員の一人は無意識に身を乗り出した。
「これは……本当に子どもが弾いているのか?」と。
ソウは心の中で静かに笑った。
(この曲は、僕に似合う。)
ピアノの世界では「曲が演奏者を選ぶ」とよく言われる。
だが、ソウはその逆だった。
自分が曲に寄り添い、曲の荒々しさを自分の勝気さで具現化する。
静かに音を落とす瞬間は、嵐の前の静けさ。
そこから一気に噴き上がる音の奔流は、観客の肺を鷲掴みにして揺さぶった。
——もはや練習ではなく、闘いだった。
観客席の何人かは呼吸を忘れ、椅子の端を握りしめている。
「止まるんじゃないか」「崩れるんじゃないか」そんな不安を、次々と打ち砕きながらソウは駆け抜ける。
最後のフレーズ。
右手と左手が、まるで格闘家のラッシュのように鍵盤を叩き込む。
その一打一打に、“負けない”という叫びが込められていた。
そして——フィニッシュ。
ホールを揺るがす最後の和音が響き渡り、空間全体が振動する。
一瞬の沈黙。
観客が息を吸い込む音が聞こえるほどの静寂。
次の瞬間、爆発のような歓声と拍手が押し寄せた。
舞台の少年は、確かに“あり得ない領域”を突破したのだ。
——そして、終わった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ホール全体が爆発するような歓声と拍手に包まれた。
「今日一番だ!」
「信じられない……あの年齢で……!」
「まるでプロだ……いや、それ以上だ……!」
審査員たちですら姿勢を正し、互いに視線を交わしていた。
彼らは数多の演奏を聴いてきた耳を持つ。それでも今の演奏には驚きを隠せなかったのだ。
ソウは胸の奥で呟く。
(やった……完璧だ。これ以上の出来はない。)
これは偶然の産物ではない。
綿密な分析と、徹底した計算の末に選んだ勝負だった。
過去大会の映像を、ソウは繰り返し擦り切れるほど見てきた。
そこには共通した“退屈”があった。
多くの演奏者は安全策として緩やかな曲を選び、だが緊張でテンポが速まり、結局は4分にも満たない中途半端な演奏で終わる。
「間違えないこと」を最優先した結果、音楽の美しさは犠牲となり、観客席はただの「ファッションショー」を眺めているような退屈さに支配されていた。
——それでは駄目だ。
ソウは心に刻んだ。
観客を退屈させるな。
短くてもいい。濃密な一撃を叩き込め。
呼吸を奪え。そして“次を渇望させろ”。
そうして選んだのが《トレント》。
「最難関」と呼ばれる曲に、13歳の少年が挑む。
リスクは計り知れない。
だがもし成功すれば——観客はもう、他の演奏者の安全な音楽では満足できなくなる。
実際、その効果は絶大だった。
観客は未だ熱気を抑えられず、拍手は鳴り止まない。
これはアナへの挑戦状。
(超えれるものなら超えてみろ)
舞台袖で軽く声をかけられる。
「どうだった?」
「……すごい!カッコよかった!」
アナは笑顔で拍手を送ってくれた。
だが、ソウにはわかった。目は笑っていない。
「でも見てて。私の演奏」
(やっぱり……最後を任されるだけの人間だ。)
ソウの闘志が青い炎なら、アナのそれは赤く燃え盛る炎だった。
ギラギラと光る瞳を輝かせ、舞台へと歩み出す。
にも関わらずスカートの裾を揺らしながらステージ中央へ進むその姿は、観客をすでに魅了していた。
深々とした一礼。
その所作はバレエダンサーのように優雅で、観客席から小さな感嘆の声すら漏れた。
そして彼女は椅子に腰を下ろす。
小柄な身体をすっと整え、ピアノに向かう姿勢は一点の迷いもない。
先ほどの演奏者ほどの実力はないだろう。
多くの観客がそう思っていた。
——しかし、最初の一音が鳴った瞬間、空気が変わった。
ソウは息を呑む。
「……ラ・カンパネラ。」
会場全体がざわめきに包まれる。
リストの超絶技巧曲。
“試練の鐘”と呼ばれるこの曲は、ピアノ界の登竜門であると同時に、無数のピアニストを絶望へ突き落としてきた悪魔でもある。
跳躍、連打、広すぎるオクターブ。
子どもの手はもちろん、女性プロですら「物理的に指が届かない」ため断念する。
弾けること自体が、世界的ニュースになり得る曲だ。
だがアナは——弾いた。
最初のフレーズから、観客の常識を粉砕する。
鐘のように澄んだ高音がホールを貫き、低音部は地響きのように鳴り響く。
跳躍すべき箇所を彼女は独自にアレンジし、無理な配置を“自分の手”に合わせて作り替えていた。
本来の譜面のままでは不可能な部分を、あくまで「音楽」として違和感なく流れる形に再構築しているのだ。
つまり、彼女はただコピーしているのではない。
——《ラ・カンパネラ》そのものを“自分の曲”へと書き換えていた。
観客席から小さな悲鳴が漏れる。
「……嘘だろ……子どもだぞ……」
審査員の一人は思わずペンを落とし、もう一人は眼鏡を外して舞台に身を乗り出した。
その演奏は「模倣」ではなく「創造」だった。
試練の鐘は、彼女の指先で勝利の鐘に変わっていた。
最後の和音。
ホール全体を震わせるほどの強打を叩き込み、彼女はゆっくりと手を離す。
静寂を切り裂くように、観客が一斉に立ち上がった。
——割れるような拍手。
その熱狂はソウのときよりも明らかに大きかった。
ソウは呆然と立ち尽くす。
悔しさよりも、ただ驚きが勝っていた。
(……こんな方法があったなんて。僕の発想には、一度もなかった。)
結果はアナが一位、ソウが二位。
審査員20名のうち、わずか一票差。
だが彼女の最後の言葉は、順位すら霞ませた。
「私は、祖国や血筋とは関係なく音楽を演奏します。
そして“生まれ”によって未来を縛られないことを、ここで証明します。」
その宣言に、客席は再び雷鳴のような拍手で包まれた。
ソウはただ、心の底から「かっこいい」と思った。
——大会が終わったあと。
ソウとアナは、肩を並べてウィーンの石畳を歩いていた。
カフェのテラスからは焼き菓子の甘い匂いが漂い、通りの向こうには壮麗な図書館や歴史的な大聖堂がそびえている。
音楽の都という名にふさわしく、街角のどこかから常に旋律が流れていた。
親たちは最初、二人が行動を共にすることに眉をひそめた。
だが彼女の父や先生から学べるものがあまりに多く、その学びを吸収するアナの姿を見て、やがて納得せざるを得なかった。
アナは、ヨーロッパに根強く残る差別や「アジア人」という視線を一切気にすることなく、誰よりも貪欲に知識を吸い取っていった。
楽譜の読み方、作曲家の逸話、歴史的な建築に宿る音響効果……彼女はすべてを「音楽の糧」として飲み込んでいく。
その姿勢に、ソウの父も強く心を打たれた。
最初は冷ややかに見守っていたが、気づけばアナスタシアの父と肩を組み、地元のビアホールでジョッキを掲げて笑い合っていた。
「音楽は国を超える」と口にしたのはどちらだったか、もう誰にも思い出せなかった。
——こうして二人は、音楽で結ばれた一年を共に歩み始めた。
互いの才能を刺激し合いながら、日々を練習と議論で埋め尽くしていく。
そして次の舞台は、日本。
二人の新たな拠点は、遠い東の島国へと移ろうとしていた。