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File:096 韓国の天才ピアニスト

音楽の都――オーストリア、ウィーン。

その響きだけで、幼いソウの胸は高鳴った。


だが、その胸をここまで押し上げてきたものは「夢」ではない。

韓国という国の教育システム、そして社会全体を覆う苛烈な競争だった。


21世紀後半、韓国は人口減少と産業縮小に直面し、国家として「才能の選別」を徹底していた。

学問もスポーツも芸術も――すべて偏差値化され、成果は「国家に役立つかどうか」でのみ測られた。

音楽は本来、感性を解き放つものであるはずが、家庭では親の野心と社会的地位を証明する“道具”に変えられていた。


ソウの家も例外ではなかった。

一音間違えるたびに食事を減らされ、手の甲を叩かれる。

暗譜を終えるまでは眠ることを許されず、涙を流せばさらに罰が重くなる。

それは音楽教育の名を借りた「服従訓練」であり、愛というより呪いに近かった。


学校にも通えず、父親とマンツーマンでピアノに向かう日々。

友達も遊びもない。

ただピアノの前で指を動かし続けることだけが、生き残る術だった。


だがその呪いの中で、ソウは歯を食いしばり、同世代を次々に蹴落としていった。

血筋も助けとなり、韓国国内のジュニア・ピアノコンクールで頂点を奪取。

結果、韓国代表として「ウィーン国際ジュニア音楽祭」に派遣されることとなった。


旅費も宿泊費もすべて大会負担。

中学一年の少年にとって、それは“世界が自分を認めた”と錯覚させるに十分だった。


しかも、この大会で優秀な成績を収めれば――「兵役免除」の可能性があった。

韓国男子にとって避けられない徴兵制度。

だが芸術、スポーツ、科学分野で国際的成果を残した者は、その義務を免除されることがある。

音楽で国を背負い、勝ち続けることは、単なる名誉だけでなく「人生を縛る鎖」からの解放を意味していた。


だが、2055年という時代は音楽家にとって残酷だった。

AIは一瞬で楽譜を生成し、演奏を完全にシミュレートする。

観客は「本物」を聴いているのか「模倣」を聴いているのかさえ区別できない。

人間の演奏は「エラーを含んだアナログ」として嘲笑され、よほどの感情表現や技巧を見せなければ、AIに埋もれて消えていく。


まして韓国のように、国家が芸術を「国威発揚の武器」として利用する社会では、ピアニストの命は短い。

子ども時代から酷使され、20代で燃え尽き、30を迎える前に市場から消える者が大半だった。

だからこそ、ソウは理解していた。


これは「夢を叶える舞台」ではない。

祖国の威信を背負い、「生き残るために戦う戦場」なのだ、と。


それでも――彼の胸に宿る想いは、きわめて個人的で幼いものだった。

「親に褒められたい」「認められたい」。

ただ、それだけだった。


大会前日。

ホールでの下見とリハーサル。

本番前に会場の響きや鍵盤の感触を確かめることは、彼にとって習慣になっていた。

これを怠ると明日までの本番イメージとギャップが生まれる。


「明日は……ここで弾くんだ。」


広いステージに立ち、空席の観客席を見渡す。

心の中で鳴り響くのは、鳴りやまない轟雷のような喝采と歓声。

「天才」と讃える記事がネットを飾る光景を想像し、胸の奥で高揚が膨らむ。


ソウ自身は自分のことを天才とは思っていないが天才と呼ばれることに関して悪い気はしなかった。


ピアノに向かい、指を置く。

練習のピアノとは少し違和感がある。


屋根リッドを開けて中を見る。

摩耗などが一切見られない。


新品のピアノだ。


sendorfer(ベーゼンドルファー)の文字が鍵盤に反射している。


鍵盤はやや硬いが、音の響きは抜群だ。


(このパートは強めにしてもいいかもしれないな。先生に相談してみよう。)


そんなことを考えながら、リラックスを兼ねて軽い曲を弾き始める。


マリオのテーマ。

ゲームを禁じられて育った彼にとって、それは触れることの許されなかった世界の代用品だった。


しかし軽快で跳ねるような旋律は、ソウにとって練習前の儀式でもあった。

本来なら楽しむはずだった娯楽が、皮肉にも音楽を続けるモチベーションに変わっていたのだ。

アップテンポでコミカルなリズムは、指先を温め、心を解きほぐす「準備運動」となり、毎日のルーティーンとして刻み込まれていった。


——その時。


「……あ!マリオ!」


背後から声がした。

振り返ると、自分より少し幼く見える少女が立っていた。

拙い英語で話しかけてきたが、ソウも音楽の勉強と海外遠征で英語に慣れていたため、意思疎通に苦労はなかった。


それよりも驚いたのは彼女の服装だった。

まだリハーサルだというのに、本番さながらの華やかなドレスを身にまとっている。

対照的に、ソウは普段着のままだった。


「そうだよ。……気合、入ってるね。」


「うん!我慢できずに着ちゃった!」


その笑顔は天使のようだった。


「それにこれでやっと認めてもらえると思うから。」


認めてもらえる。

その言葉にソウはひっかかった。


「お父さんやお母さんに……ってこと?」


「ううん。友達に。」


そう言った彼女の瞳は、少しだけ寂しげだった。


「私、ロシアとウクライナのハーフなの。

 30年前の侵攻が始まってから、家族はスパイだって疑われ続けて……。

 だから証明したいの。私たちは潔白だって。

 だからこそ、明日は絶対に勝ちたい。」


その告白に、ソウは言葉を失った。

この大会で自分が一番覚悟があると思っていたからだ。

だが同時に、自分の胸にも譲れないものがあることを思い出す。


「……僕も同じだよ。

 勝たなければ、親に許してもらえない。

 だから負けられない。……君の名前は?」


「アナスタシア。あなたは?」


「僕はソウ。アナって呼んでいいかい?」

「ええ。……隣に座らせて?」


ピアノは長椅子だ。二人並んで座るには十分だった。

鍵盤を前に、ソウとアナは一瞬だけ視線を交わす。


「……一緒に、連弾しない?」


「いいよ。曲は?」


「《メヌエット》にしない?……あの有名なやつ。」


「バッハ……いや、ペツォールトのね。いい選択だ。」


二人の指が鍵盤に触れた瞬間、素朴な旋律が静かに会場へ広がった。

誰もが知る簡単な曲。

だが、まるで鏡合わせのように揃ったタイミングで弾かれると、その「単純さ」がむしろ澄んだ光のように響いた。


空席のホールにいた先生やスタッフが、ふと顔を上げる。

「おや?」と小さなざわめきが生まれた。

ただの練習曲が、まるで宝石のように磨かれて聴こえたからだ。


二人はほんの少しだけ笑い合い、視線で合図を送った。

——次へ進もう。


ソウがリズムを少し崩し、アナが即座に厚い和音で応じる。

テンポが揺れ、アクセントが変わる。

互いに挑発し合うように、音が跳ね、絡み合い、遊び始めた。


ただのメヌエットが、即興的な二重奏に姿を変える。

観客席にいる大人たちは思わず息をのむ。

二人が楽しんでいる空気が、そのまま音に乗ってホールを満たしていた。


そして——唐突に、力強いリズムが叩き込まれた。

ソウの左手が堂々と進軍の拍を刻み、アナの右手が華やかに旋律を走らせる。


「……シューベルト?」


音楽に詳しい老人の呟きが聞こえた。


《軍隊行進曲》。世界中で知られる名曲。

その響きが、二人の手によってリハーサル会場を戦場のように熱く染め上げた。


右手と左手が交差し、時にぶつかりそうになりながらも、決して崩れない。

互いの癖を即座に読み取り、まるで何年も練習を重ねたかのような完成度を見せる。


ソウは胸の奥で叫んでいた。

(これは奇跡だ。僕の音を……こんなにも理解してくれる人間がいるなんて!)


アナもまた、心臓を鷲掴みにされる思いだった。

(私の存在を……初めて誰かが受け止めてくれた!)


最後の和音を叩く瞬間、二人は息を合わせるように肩を揺らした。

ホール全体を揺らすほどの和音が響き渡り、その余韻が天井へ吸い込まれていく。


——沈黙。


そして遅れて、ぱち、ぱちぱち、と拍手が広がった。

振り返ると、先生もスタッフも立ち上がっていた。

二人は、観客がいたことにすら気づかないほど、音の世界に没入していたのだ。


「二人とも、素晴らしかったわ。」


そう声をかけたのはソウの先生だった。

その隣に立っていたのは、見知らぬ男性。


「ありがとう先生。で、そちらの男性は?」


「そこの彼女、アナスタシアの先生よ。実は大学時代の同期なの。」


「えっ!?偶然……!」


「ホントよね~、世間は狭いわよね~!」


先生は笑いながら続けた。


「明日はライバル同士だけれど……今後も付き合ってくれると嬉しいわ。」


「もちろん!お願いね!」


アナは小さく頷くと、ソウの頬に軽くキスをして言った。


「じゃあね、ソウ。明日、また。」


舞台袖へ消えていく姿を、ソウはただ黙って見送った。

「さようなら」とすら言えなかった。

完全に見惚れていた。


「……あらソウ。もう彼女に惚れちゃったの?」


「……そうかも。……楽しかったし。」


先生が冗談めかして言うが、ソウの頭にはもう、リハーサル後の注意なんて入ってこなかった。

心に残ったのは、連弾で感じた奇跡の調和と、少女の笑顔だけだった。


でもこの大会の出来で彼女に見限られてしまうかもしれない。


そう考え、意識を切り替えた。


「先生、明日は史上最高の出来にする。

 もうちょっとリハーサル手伝ってもらっていい?」


「もちろん。彼女にあなたの実力を見せてあげなさい」


そういって本番用の曲をチューニングした。

作者の戯言。

実は小学生までピアノをやっており、エリアブロックで勝ち抜き大阪の大会に招待された経験があります。

そこで上には上がいると心が折れた記憶があります。

泣きながら大会後にユニバで遊んだ思い出がかすかに頭に残っています。


そんな体験を元に書いてみたので解像度は高いかも?

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