『鏡の中で猫を飼う』鏡猫
「鏡の中の私が、昨日と違う表情をしていた」
そんなことを考えるようになったのは、あの猫を見つけてからだ。
洗面所の鏡に白いハチワレの猫が――ちょこんと座っている。
鏡の中にその子はいた。
私が首をかしげると猫も首をかしげた。
右手を上げると、猫も前足をひょいと上げた。
目を合わせると瞳孔が開いて見返してくる。
あれから、ずっと一緒に過ごしてきた。
この物語は出会いと別れの記録。
――
朝起きて最初に行くのは洗面所だ。
スマホより先に鏡を見る。
現役JKとしては珍しくそれが日課になった――あの子が居るから。
「おはよう」と口に出すと猫がしっぽをふる。
でも現実には、もちろん猫なんていない。
鏡の中の私の隣にだけ存在している。
最初のうちは
鏡の中の猫に何か得体の知れないものを感じ、夜に鏡を見るのが怖かった。けれど、それよりも可愛さが勝ってしまった。 じっとこちらを見つめてくる。触れられないけれど、そこにいる。
それだけで、どこか救われるような気がした。
「名前をつけよう」
付ける意味も無いけど必要な気がする。
「……ハチ」
ハチワレだから。
口に出して呼ぶと猫は耳をピクピクさせた。
「あなたハチでいいの?」
猫はじっとこちらを見る。
どこか達観しているというか、納得している気がする。
――
放課後は、まっすぐ家に帰る。
友達がいないわけじゃない。でも「猫より優先するほどじゃない」
家に着くと制服のまま洗面所へ向かう。
ドアを開けた瞬間、鏡の中のハチと目が合った。
「ただいま」
ハチは鏡のわたしの肩に飛び乗る。
「今日抜き打ちテストで最悪だった~」
鏡に話しかけると、ハチはわたしの顔に足をトンと置いた。
「慰めてくれてるんだ」
猫好き以外が見たら足蹴にされてるようにしか見えないが、そういうものだ。
わたしはハチに向かって、スマホで「るーちゅ」の写真を見せてみた。
すると、ハチが反応してスマホを舐めようとする。
「本当に通じてるじゃん」
ハチはこっちを理解している。
その時
鏡の中のわたしが違う動きをした。
現実の私は立ったままなのに、鏡のわたしはハチを抱き上げた。
「え……?」思わず固まる。
次の瞬間には元に戻っていた。
日曜
今日はすぐに起きないで布団の中でバタバタしてた。
ハチに会うのが少し怖かったからだ。
あれは夢だったのか?
鏡の中のわたしが、私と違う動きをした。
覚悟を決めて洗面所へ向かう。
鏡の前に立つと――ハチがいた。
「今日は遅い!」という感じで、わたしの周りをくるくる回る。
その隣にいる「鏡のわたし」は動かなかった。
そう
現実のわたしがまばたきをしても、鏡のわたしは動かなかった。
全身に鳥肌が立つ。
鏡のわたしが動き微笑んだ。
優しい、どこか「わたしではない」微笑みだった。
「……誰?」
思わず声が漏る。
鏡のわたしはハチを腕に抱える。
ただ呆然とそれを見ていた。
鏡の中のわたしは、ハチの頭を撫でハチが目を細める。
しっぽを器用にハートマークのような形にする。
「もしかして、向こうにも【わたし】がいる?」
言葉にした瞬間
鏡のわたしと私の目が合う。
まるで「うん」と、答えたような気がした。
――
その日は1日遊びに行く気も起きなかった。
ハチは鏡の中のわたしが飼っているんだ。私が飼ってると思い込んでいたのに、人の猫を見ているだけなんて。胸が痛かった。
気づけばスマホで検索単語を打ち込んでいた。
「猫 飼い方 初めて ペットショップ」
――
「ねえ、猫って姿を消すことあるの?」
夕食のとき私は母に聞いた。
母は子供時代に猫を飼っていたはず。
「なにそれ?課題図書とか?」
「猫飼ってた人の意見で良いの!」
母は理解してなさそうだけど少し考えて言った
「昔飼ってた猫がね、ある日突然いなくなって……死際は見せないって言うからね」
私はショックを受けて会話を止めた。
数日前からハチの姿が見えなくなっていた。
鏡の中には私1人。
あのまんまるお目々も、ふわふわしっぽも、普通の鏡になってしまった。
そう思いかけたそのとき――
鏡の中のわたしの目が潤んでいた。
泣いている?私は泣いて無いけど。
「あなたも猫がどこか行って泣いてるの?」
わたしは答えなかった。
ただ、悲しんでいるというよりは「覚悟を決めたような」強い目だった。
――
どんよりした毎日を過ごしていると急に母が言ってきた。
「そう言えば村田のおじちゃんが猫拾ったんだって、あなた猫飼いたいなら行ってみれば?」
このタイミングで運命を感じた。
猫を飼う人なんて何かしら運命を感じるものだ。
すぐにおじちゃんの家に向かった。
ドアを開けると、そこにいたのは――あの子によく似た猫。
白いハチワレ
目がくりっとしていて、静かにこちらを見つめている。
「ハチ……」
私がそう呼ぶと「ニャ」と小さく鳴いた。
きっと「うん」と返事をしたに違いない。
そっと抱き上げると、胸が熱くなって涙があふれた。
そんな私を見て、おじちゃんは少し照れたように笑った。
家に帰り洗面所の鏡の前で抱っこしてみた。
今までとは違い、コチラ側にも猫がいる。
鏡に写ったわたしは少し微笑んだ気がする。
――私たちは、これから本当の猫生活を始める。
猫はしっぽをふわりと丸めた。
その形は、まるでハートを作ったように見えた。