陽炎の声
さっきまで日陰にいたはずなのに、わたしの影だけが地面に落ちている。露出した肌がじりじり痛み、体を流れる汗が肌着を密着させて気持ちが悪い。けれど、そこがわたしの指定位置だと言わんばかりに動くことができないでいる。
幼稚園に娘を迎えに行った帰り、ママ友たちのおしゃべりに引き込まれ、すでに一時間が経過していた。朝は雨だったせいか、ため込んだおしゃべりが一斉に放出されたという感じで、門の前で出てくる親子をひたすらかき集めているグループの横を、無傷で素通りすることはできなかった。往復十五分の予定が、娘が園庭の遊具にも飽きてぐずるまで一体何の話をしていたのか思い出せもしない。けれど誰かが「じゃあ、そろそろ」と切り出すまで、その場を離れる勇気が、わたしにはない。
七月の暑さや湿度のせいだけではない疲労を背負い、やっとの思いで家に着くと、ポストに不動産、スポーツクラブのチラシに紛れて、その知らせは舞い込んでいた。まだ明けない梅雨の外気に歪んだ、はがきサイズの紙。『おもちゃのお医者さん』と太字の見出しがあり、壊れたおもちゃの修理を受け付けるために近所の公民館を訪れる日時が記されている。不要なチラシをマンション共有のゴミ箱に捨て、湿気を含んで頼りなくなったチラシの文字をしつこく読み返しながら、ついつい無意識にエレベーターの△ボタンを押す。しまった、と思った時には遅かった。
「あーっ、押したかったー」
両膝を曲げて地団太を踏むように娘がジャンプする。少し大きめの長靴が、かぽっかぽっと空気を吐き出す。イヤイヤ期を迎えた娘の機嫌をとるのは、どんな家事よりも骨の折れる仕事だった。
「ごめんごめん」
チラシを鞄の中にしまいながら、娘の機嫌をとるための案をいくつか頭の中で巡らせる。
「じゃあさ、明日の朝は押してくれる?」
「いやーっ」
「じゃあ、もう一回エレベーター来るの待つ?」
「それもいやっ」
「んー、じゃあ、今日のおやつはアポロにしようか」
えっ、アポロ?
娘の顔がちょっとだけ緩んだのを見逃さなかった。エレベーターが一階に到着してドアが開く。
「もちろん、ボーちゃんの分もあるよ」
お気に入りのぬいぐるみの名前を出し、もう一押ししながら、さり気なくエレベーターに乗り込む。娘はすっかりアポロに気をとられて本題を忘れ、わたしにつられて乗ってくる。
「うーん、どうしようかなあ」
何をどうするのか、娘は顎に人差し指をあてながらくちびるを尖らせ、艶めかしく首を左右に揺らしている。いつの間にかすっかり女の子らしい仕草を身に着けている。それでもまだまだ子供だ。顔はアポロを食べたあとのように、すでにほころんでいる。とりあえず、ご機嫌取りには成功した。本人に気付かれないように小さく溜息を吐く。
職場で知り合った夫はわたしより八つ年上だった。直接仕事のノウハウを教わる関係で、入社してから一緒にいる時間が多く、頼りになる存在だった。明るくはきはきと物言う人で、上司からも気に入られやすいのだと、冗談めかして本人が口にしていたことがある。それは上司だけではなく、部下だったわたしにも最大の効果を発揮し、交際に発展。それに何より幼少期の環境が似ているいう共通点が距離を縮め、二年後には結婚していた。
家族のいなかった私にとって、結婚は人生を好転させる最大のできごとだと思っていた。けれど、実際は洗濯物や食材の買い出しが二倍に増えたくらいで、悲しみや辛いことは半分などという感覚もなく、思い描いていた暮らしからは程遠かった。それにあんなに明るかった夫は家では物静かで、会話はほとんどなかった。もともと仕事は忙しく、会議や食事会で帰宅する時間は遅い。同じ職場だったので理解はしていたし、不満に思ったことはない。相変わらず上司には気に入られていたようで、仕事は順調そうなのは有難いことだった。
それに引き換え、すでに退職していたわたしは、自由であることが酷く不自由だった。どこにいても居心地が悪く、毎日部屋の隅から隅まで掃除をし続けた。コンロ、テレビの裏、トイレ、洗面台、排水溝、玄関、ベランダに至るまで、髪の毛一本落ちていないくらい綺麗な状態が常に保っていた。動いていないと時計の針はちっとも進まなかった。それに対して夫が喜んでくれることも褒めてくれることもなかったが、そうでもしていないと異空間に放り出されたように、時間の流れを感じることが難しかった。それも娘が産まれるまでのことで、今は時間には追われ、そんな心配もする必要もなくなり安堵している。
子供用の小さなテーブルに、娘とボーちゃんは隣同士並んで座っている。プラスチック製の落としても割れにくい小皿にアポロを三つ、ボーちゃんには一つ出してあげると、幼稚園でならった「いただきますの歌」を披露して、一粒口に入れ、じっくりと時間をかけて舐めては「ほう」とため息のような声を漏らす。ボーちゃんのつぶらな瞳はアポロなど映してはいないが、かすかに微笑んでいる。
そのあいだに鞄にしまったチラシを取り出して、ふたたび目を通した。おもちゃのお医者さんが来るのは二週間後の土曜日だ。こういったチラシは、娘のお絵かき用紙になってクレヨンで塗りつぶされるか、夫の手によって簡単に捨てられてしまう可能性が大なので、しっかり記憶に刻み込んでおかなくてはいけない。
「さあ、ボーちゃんも召しあがれ」
最後のアポロが惜しくていつまでも触っていたらしく、溶けたアポロの痕跡のある指で、今度はボーちゃんの口元に一粒運ぶ。娘の左手にしっかり掴まれたボーちゃんの頭頂部と口元に溶けたアポロが付着していた。
「あー、もうこれ以上、ボーちゃんを汚さないで」
わたしはボーちゃんを娘と同じ丁寧さで扱い、お湯で濯いだ布巾で擦る。甘い匂いが微かに鼻をかすめる。
おもちゃのお医者さんに診てもらいたいのは、他でもないボーちゃんだった。
ボーちゃんは娘のお気に入りのぬいぐるみだが、そもそもはわたしの宝物だった。名前の由来はボールのように丸い体からの発想で、幼い頃のわたしが胸を張って命名したボールのボーちゃんである。
結婚しても手放せなかった思い出のぬいぐるみだったが、もちろん夫にはなんの思い入れもないわけで、薄汚いぬいぐるみを家に置いておくことにあまりいい顔はしなかった。
「わたしの部屋に置いておくから」
そう約束をして夫の目につかないようにしていたが、娘が生まれ、部屋の配置も変え、やがて成長した娘の目に留まり、家族の一員として日の目を浴びることになった。
「この子、昔はしゃべったのよ」
そう言った時、夫は目を細めてそれ以上聞きたくないという表情でわたしを制した。二度と夫にボーちゃんの話をすることはないだろうと思った。夫の前でボーちゃんの話は厳禁なのだ。だから娘にもおもちゃのお医者さんに診てもらうことは秘密にしていた。娘がぽろっと「ボーちゃん、お医者さんに診てもらうの」なんて夫に話したら、きっと軽蔑の目をわたしに向けるに違いない。
時間に追われる毎日でも、二週間の待機は思いのほか長かった。どんなに気を付けていても、灰色のベールを何枚の重ねていくように、ボーちゃんの汚れは静かに増していき、今にも黴が生えてくるのではないかと気が気ではなかった。生ぬるい空気が梅雨明けと共に去り、太陽が照り付ける日にはベランダで陰干ししていたのだが、気がつくと娘の手によって回収されてしまう。幼稚園が夏休みに突入し、時間を持て余した娘にとってボーちゃんは格好の遊び相手だった。
当日は普段よりも一時間も早く目を覚ましてしまった。子供の頃、遠足や運動会の前日になかなか寝つけなかった記憶があるが、昨晩も同様、興奮した脳を眠りに誘うのに苦労した。大した睡眠時間も確保できなかったが、それでも瞼を開いた瞬間から今日という日について考えずにはいられないほど頭は冴えていた。
土曜日だが夫は出勤予定である。生活リズムが違うので、娘が産まれてからは寝室は別々にしている。産後の三時間おきの授乳やおむつ替えはすべて一人でおこなってきた。三時間とはいっても、授乳を済ませ、げっぷをさせ、おむつを替え、寝かしつけ、哺乳瓶を洗い、やっとベッドに横になると次の授乳まで二時間もない。細切れの睡眠時間で生き延びてこれたのは、やはり守るべき小さな命があるからだろう。
夫の起きた気配がリビングとキッチンを右往左往している。わたしは布団の中でじっと娘の寝顔を見つめていた。時々、静かすぎてちゃんと呼吸をしているか不安になり、口元に手を近づけたり、わざと頬をつついたりした。こうした娘の生存確認をあと何年続けるのだろう。
娘が目を覚まし、わたしたちはパジャマ姿でリビングに顔を出す。夫はすでにスーツに身を包みよそ行きの顔で、娘に「おはよう」と声をかける。わたしにはちらりと視線をよこすだけで、言葉を交わすことはない。
キッチンで二人分の朝食の準備をしているあいだ、娘は子供番組に夢中でボーちゃんはまだベッドに放置されたままだった。出勤する夫を玄関で娘が送り出すのを確認してから寝室へ向かい、わざとらしいが娘の気を引くために一芝居演じる。
「あら、大変」
わたしはボーちゃんをそっと胸に抱きよせて、娘が現れるのを待った。
「どうしたの? ママ」
玄関から娘が戻ってくる。
「ボーちゃん、病気みたい」
「え?」
娘はあわてて駆け寄り、わたしの胸に抱かれたボーちゃんの顔を心配そうにのぞき込んだ。
「ほら、触ってみて。ここ。硬いとこがあるでしょ?」
まるで悪性の腫瘍でも見つけたように私が言うと、娘は神妙な表情で示した箇所を触ってから、うんうんと何度も頷いている。
「でも、ボーちゃんはラッキーだわ。今日、ボーちゃんを診てくれるお医者さんが近くに来てくれるの。あとで診てもらいましょう」
曇っていた娘の顔にかすかに安堵の表情が浮かんだ。
あまり暑くならないうちにと午前の早い時間に家を出たけれど、日差しはみるみる気温を上昇させた。娘には襟足まで隠れる帽子をかぶせらせ、わたしはアームカバーと麦わら帽子というスタイルで、できるだけ日陰を求めながら公民館まで歩く。ボーちゃんは娘が抱き、その代わりに娘の水筒をわたしがぶら下げている。
世間では夏休みに突入していたはずだが、うだるような暑さのせいか歩いている人はほとんど見かけなかった。公園の遊具も、容赦なく照りつける太陽の一方的な攻撃に耐え忍んでいるかのように静かである。いつもなら寄り道をしたがる娘も、さすがにそんな元気はないのか、それとも病気のボーちゃんを心配しているからなのか、ぐずることなく黙って歩いている。
公民館の前に横断歩道があり、赤信号で止まる。近くにお寺があるので、お線香の香りが微かに漂ってくる。けれど車も人も見当たらなかった。ただ、どこからか聞こえるセミの鳴き声が、一週間に定められた命の期限に猛反発するように騒々しかった。
額の汗をハンカチで拭うと、風と呼ぶには頼りない空気の流れが通過していく。その流れに身を任せて、公民館の入口の『おもちゃのお医者さん』と書かれた青地の涼し気な旗が靡いている。静止画のような景色の中で、その旗だけがわたしたちを手招いていた。
「あれがボーちゃんの病院?」
娘が指さして、わたしを見上げる。
「そうだよ」
わたしは返事をして娘の汗を拭き、小さな手をしっかりと握って青信号を渡る。見通しのいい道路に車は一台もいないのに、何度も確認せずにはいられない。
わたしはいつ、母親になったのだろうと時々思うことがある。生理が遅れていることに気づき、薬局で検査薬を購入して結果を見た時だろうか。それとも、産婦人科のエコーで米粒みたいな物体を見つけ、先生から「おめでとうございまさす」と告げられた瞬間だろうか。
つわりや体の変化に対応しきれないまま分娩台にあがり、わたしの体を脅かしていたのはこの子かと目にした時は、長時間の陣痛との戦いで疲弊していて、産まれた喜びなど皆無に近かった。これからこの命を守らなくてはならないのだと、やけに神経が高ぶり、夫が娘を抱っこしているだけで落ち着かなかった。
あの時、夫はどんな表情をしていたのだろう。夫はいつ、父親になったのだろう。
公民館のドアを引き、娘を先に通して中に入る。見えない冷気に全身を浸し、わたしたち親子はひと時、目的を忘れてエアコンの風に目を細めた。
「すずしー」
瞼を閉じ、脱力した娘の声に、思わず笑みがこぼれる。
公民館に入るのは初めてだった。長方形のコンクリート造りでシンプルな印象だったが、通路があちこちに伸びていて、いくつか個室があるようだ。二階に上がるための階段とエレベーターが正面にあり、その手前に、訪ねてきた人の目につくように『おもちゃのお医者さん』と書かれたボードが置かれていた。事務室に人の気配はなく、仕方なく矢印が示す方向に向かって、エレベーターの前を過ぎ、右に曲がる。
左側に給湯室、その反対の部屋からゼンマイを巻く音が響いていた。扉の上部に会議室の文字のプレートが張り出している。覗くと、横長の机が四角く囲われ、席に着くと全員の顔が見渡せるようになっている。奥の席に男性のうしろ姿が見え、床に置いた道具箱から適切な部品がないか物色している風だった。机の上では、たった今巻かれたゼンマイをフル回転させたおもちゃが懸命に稼働し、その場で足踏みしていた。
「すみません」
声をかけていいものか迷ったが、こちらを振り向いた男性にでおずおずと頭を下げる。男性は、久しぶりに帰省した娘と孫を出迎えるようなやさしい笑みを浮かべ「いらっしゃい」とゆっくりとした口調で言う。最初の印象よりもだいぶ年配の、人間のお医者さんだったら院長先生と呼ばれるのにふさわしい容姿だった。
「どうぞお入りください」
促されたのに、素直に足が進まない。もしかしたら場違いだったのではないかという不安がここへきて沸々と湧き上がっていた。机の上にはラジコンやプラスチック製のカラフルな楽器が置かれている。おもちゃのお医者さんというネーミングに藁にもすがる思いで来てしまったが、ボーちゃんは果たしておもちゃの部類に値するのだろうかと、今更ながら疑念を抱いていた。
「あの、ぬいぐるみを診ていただきたいんですけど」
断られる覚悟で正直にそう伝える。近所に住む、お裁縫の得意な奥さんに診てもらった方がいいのではと提案をされるかと思ったが、もちろんここへ来るのは当然だと言わんばかりに頼もしく頷いてくれた。
「ええ。拝見しましょう」
男性は立ち上がったが、不思議そうな顔をして右下に視線を落とす。机からひょっこりボーちゃんが姿を現し、わたしは慌てて自分のまわりを確認する。いつもならわたしの足に抱きついて様子を伺っている人見知りの娘が、いつの間にか男性のもとへボーちゃんを届けていた。
「ボーちゃん、病気なの。お医者さん、治してくれる?」
男性はゆっくりとした動作で腰を曲げ、娘に目線を合わせてくれる。
「ボーちゃんっていう名前なんだね。病気を探してみるから先生に貸してくれるかな?」
娘が素直に差し出したボーちゃんを受け取った手には、診察してきたおもちゃの数を表すような皺が、勲章のように刻まれていた。男性は生き物に接するようにボーちゃんに声をかけながら触診する。
「どこが痛いのかな。ここ少し押すよ」
わたしは入口に立ったまま、ボーちゃんのお腹、背中、腋の下、手のひら、つま先を這う男性の指の動きを追っていた。やがて一通りの触診を終えて、眼鏡の向こう側の男性の目がこちらを向く。
「だいぶ年季が入っていますね」
こんな古いものは捨てて、新しいものを買ったらどうですかと言われた気がして、恥ずかしさに俯いた。
「わたしが子供の頃にいただいた、手作りのぬいぐるみなんです」
言い訳がましく、それだけ口にする。
「そうでしたか」
「『ねんき』が入ってるから痛いの? 『ねんき』をやっつければボーちゃんは良くなる?」
娘はまだ無邪気に、男性に懇願の目を向けている。
「ああ、きっと良くなるよ」
男性は、まるで骨董品の鑑定でもするような、厳かな手つきでボーちゃんを観察する。どんなに小さな欠点も逃れられない眼差しに、なぜだかわたしの方が緊張してくる。どうして手作りのぬいぐるみをおもちゃのお医者さんに診てもらおうだなんて、考えてしまったのか、自分の突拍子もなく浅はかな行動に後悔しはじめていた。
「こんなに汚れているものを見ていただいて申し訳ないです」
いくら謝罪しても足りない後ろめたさに、もう結構ですと見切りを立てて去る勇気もなかった。いつだってそうだ。わたしには帰る場所がないから、きっとその場に留まる選択を無意識に選んでしまっている。自分のいるべき場所がはっきり定まれば、胸を張って堂々と帰路につけるはずなのに、わたしはいつもわたしを見失ってしまう。
「いいえ。とても大切に扱ってきたのがわかります」
ボーちゃんは確かに色褪せていたし、いくら濡れたタオルで擦っても落ちない染みもあったが、糸がほつれて中綿が出てくるようなことは一度もなかった。幼かったわたしが多少乱暴に振り回したり、枕元に置いて寝たはずなのに朝起きたらわたしの下敷きになっていたりしても、実際にそんなものは存在しないと思わせるほど、全身を覆う短い毛の隙間から縫い目が覗くことはなかった。
「直したいのはこのボタンの部分ですか?」
男性はボーちゃんの左の手のひらを親指と人差し指で軽くつまんでいる。そこは娘に触らせた機械の部位だ。
「はい。それを押すと、声が聞こえたんです」
それを合図にしてやっと部屋に入ることができた。ボーちゃんを撫でているときは、つい指先を滑らせ、ボタンを探し求めてしまう。丸くて平べったいので、生地が不自然に膨らんでいる様子もなく、一見するだけではその存在に気づくのは難しいはずだ。軽く摘まむだけで腹部に仕込まれたスピーカーから声が聞こえる仕組みになってる。壊れてしまってからも何かのはずみで接触が上手くいき、もう一度声が聞けるのではないかと押してみたが、カチリ、と小気味のいい感触が伝わってくるだけで、声を聞くことは叶わなかった。けれど一体何としゃべっていたのか、当時の記憶に耳を傾けても、まるで水中を漂っているくぐもった音でしかなく聞き取ることはできなかった。
「何度も繰り返し押していたせいで壊れてしまったみたいで」
「なるほど」
「宝物なんです。と言っても、これをくれた方たちのお顔も思い出せないんですけど」
わたしの心はますます後ろめたさに委縮してしまう。もうすっかり大人の体に成長しているのに、ボーちゃんを受け取った時の、四歳の体と心に戻ってしまったような心細さでやっとの思いで立っていた。その周りを飽きてしまった娘が走ったり、机の下をくぐって四角く囲われた机の中心でくるくる回転したりしている。わたしにはこんな無邪気な振る舞いをする素質はなかった。思い返してみても子供らしさに目を細める記憶などなく、いつの頃も今のわたしのままだった気がする。
男性はふたたびボーちゃんの診察に集中していた。部屋は公民館の南東に位置していて、男性は窓から差し込む強い日差しを背中に浴び、そのせいか輪郭がぼんやりとして見える。何か話しかけなけば消えてしまうのではないかという不安にかられたからか、それともその時の不安が自分の内側に隠していたものと重なったからなのか、諦めに似た笑みと一緒に言葉がこぼれた。
「わたし、一人ぼっちなんです」
室内にいるのにも関わらず、エアコンの風とは違う冷たい空気がわたしの体を突き抜けていく。いつまでたっても埋まらない空洞に収まるはずのものは、私の手元にはない。わたしはその何かを母の子宮にいる時に羊水の中に置いてきたのだろう思っている。それなら納得する他ない。すでに欠落していたのなら求めても無駄なのだ。今も孤独の水に浸されてどこかを揺蕩っているのだろう。
わたしは自分の生い立ちについて男性に話し始めていた。
生まれた時には父はすでにいなかったこと。亡くなったのか、離婚したからなのか、それとももともと父親としての自覚を持とうとした人などいなかったのか、今となってはもう確かめようもないこと。母にも頼れる人はおらず、まだ産毛だらけのわたしを連れて所縁のない土地に引っ越し、そこで地域の方の助けを借りて暮らしていたこと。
保育所などどいう洒落た施設もない場所で、母は仕事に行く前にわたしを近所のおじさんとおばさんに預けていたこと。わたしはその人たちのことをずっと、自分のおじいちゃんとおばあちゃんだと思い込んでいたこと。
「幼かったわたしは、いつもお二人のことを見上げていました。その度に逆光になって、いくら思い出そうとしてもぼんやりと影がかかってしまって」
「お母様は?」
「四歳の頃に亡くなりました。仕事から帰る途中の、車の事故でした」
「お気の毒に」
「それで施設に入ることになったわたしに、おじさんとおばさんからそのぬいぐるみを貰ったんです」
男性の腕の中で大人しく微笑んでいるボーちゃんは、わたしのたった一人の家族として寄り添ってくれてきた。慣れない施設暮らしでおねしょをしてしまった時も、初潮を迎えて下着を汚してしまった時も、一人二枚ずつのおやつのビスケットが重なって三枚だったのに、正直に打ち明けず黙って食べてっしまったことを謝るべきか悩んだ時も、いつも最初に相談したのはボーちゃんだった。結局、何においても解決策は貰えず、すぐにばれてしまうのだが、真剣に悩んだ事実を共有してくれるだけで心強い存在だった。(ビスケットに関しては、新入りだから特別に一枚多かっただけのことらしかった)
「けれど今は娘さんもいらっしゃる。お一人ではないのでは?」
控えめだけれど勇気づけてくれるやさしさを含んだ言い方で男性は言う。
「そうですね……。それなのに酷く寂しさを感じるんです。実は夫も施設の出身なんです。そんな偶然もあって、お互い家族というものに憧れがあって。けれど家族の在り方をわたしたちは知りません。わたしが心許せたのは、母以外におじさんとおばさんだけ」
「なるほど。その方たちのお手製というわけですね。ご連絡はとられてはいないのですか?」
わたしはできることならもう一度お会いしたい、諦めきれないという切れの悪い笑みで、どうにか当時の景色を思い浮かべようと努力する。
「お名前はもちろん、当時暮らしていた土地がどこかも覚えていないので。お世話になった施設も閉鎖され、わたしの帰る場所はどこにもありません。まるで糸の切れたカイトのように流されるままに漂っている気分です」
「では、これはどうしても直さなければいけませんね」
男性はボーちゃんの後頭部と呼ぶべきか、背中と呼ぶべきかあやふやな部位にそっと手を添えて言った。その仕草からに滲むやさしさに、この人に診てもらえてよかったと思えていた。
「少し、お預かりしてもいいですか?」
「はい」
男性は触診を終えたボーちゃんを机の上に座らせ、バインダーに挟まれている紙を一枚とボールペンを机の上に出す。
「ここにお名前と住所の記入をお願いします。修理が終わり次第、ご自宅に郵送いたします」
「あの、お代は」
「結構ですよ。ボランティアですから」
男性はそう言ってから、相変わらず机の中心で立って成り行きを見ていた娘にふたたび目線を合わせる。
「ボーちゃんはね、入院が必要なんだ。先生がちゃんとお世話をして病気を治すから安心するんだよ。いいかい?」
娘は黙ったまま男性を見つめ、一度だけゆっくりうなずいてみせた。
太陽の位置が高くなった分、帰り道の日陰は道の隅でひっそりと息を潜める程度しかなかった。コンクリートの道路から立ちのぼる熱気のせいか、ずっと先の景色が蜃気楼と見紛うように揺れている。
帰ったら昼食の準備をしなくては。そうめんでも茹でようか。みかんの缶詰が冷えているから、それも食べようなどと考えていて、娘が無口であるのに気づくのが遅れた。
行きに両手で抱いていたボーちゃんがいなくなり、今はわたしと手をつないでいる。
「麦茶飲む?」
水筒を目の前に差し出すも、娘は自分が求めているのはそれじゃないというように強く首を振る。下唇を少し突き出していた。泣くのを堪えている表情だとわかる。
「寂しいよね」
繋いだ手の内側に二人の体温が籠り、じっとりと汗で湿っている。触れ合って、密着しているのに、この体温が今は何の慰めにもならないことをわたしは知っている。
あの家を離れる時もこんな暑い日だった。施設に引き取られる日、迎えに来た女の人はおじさんとおばさんにお辞儀をし、おじさんとおばさんも深々とお辞儀を返した。それからわたしの手を握り「じゃあ、行きましょう」とだけ言った。マニキュアを塗っても映えなさそうなほど、がさがさに荒れた手だった。反対の手でボーちゃんを抱き、女の人を見上げる。けれどやっぱり顔は見えなかった。
母が亡くなってから数日間、おじさんとおばさんの三人で暮らしていた。誰も母が亡くなったことは教えてくれなかった。二人は「お母さんはお仕事が忙しいんだよ」と言って、わたしの食事やお風呂や寝かしつけの面倒を見てくれた。すでに四年の時間を共に過ごしていたこともあり、おじさんの好物がホタルイカだということや、おばさんの腰に行火でできた低温火傷の跡があることまで知っていた。三人の暮らしも楽しかったのに、あの日の朝になって離れなくてはならないことを聞かされ、悲しんでいる時間もなかった。
わたしは何度も振り返った。手を振って見送ってくれているおじさんとおばさんとの距離が、目を離すたびに広がっていくのが怖かった。繋がれた手はきつく、決して離しはしないという強い意志があった。けれどいくら確かな感触があっても、幼いながらにも自分が失おうとしているものが大切なものだということは理解していた。抗うことの許されない結末が用意されている絵本の登場人物みたいに、わたしはただ居場所を次のページへと運ばれるだけだった。大人になった今も、手に握っていたものがいつの間に姿を変えていることに気づけず、指をほどいて落下する勇気もなく浮遊するしか生きる術を知らないでいる。
予定外のボーちゃんの不在は、娘を癇癪の悪魔へと変貌させた。帰り道はまだそんな気配はなく、行きに素通りした公園のベンチがちょうど日陰になっていたので、水分補給のために休憩し、滑り台を一回だけ滑り、ブランコを四回漕いだ。靴底を地面に擦ってブランコを止め、少しだけ乱暴に手を離したせいで、チェーンが不快に音を軋ませる。もうこれ以上、ここにいる必要はないといった風にぼんやりとした表情で、娘はわたしのもとへ歩み寄ってくる。
「もういいの?」
娘は黙ったままでうなずく。少しでも気分が紛れればと思ったが、不在を埋める難しさは理解している。埋めようとすればするほど穴の大きさを知ることになり、求める反動が強くなるだけだろう。
繋いだ娘の手からは、遊具を握っていた酸味のある匂いがする。ボーちゃんをふたたびこの小さな手で抱けるよう丁寧に洗ってあげようなどと、暢気に思案していてすっかり油断していた。
無言で帰宅した娘は、玄関を開けた途端、わたしの手を振りほどき、靴を蹴り上げるようにして脱いで、注意する間もなくバタバタと廊下を走ってリビングへと消えた。ボーちゃんの代わりを務められるおもちゃを探し、手に取っては一瞥するだけで投げるを繰り返し、あっという間に足の踏み場がなくなる。ままごとセットも、しかけ絵本も、ビー玉も、カラフルな電車たちも、リアルな動物のフィギュアも、やわらかい積み木も、それぞれの垣根を越えて散り散りに混ざり、リビング全体が大きなおもちゃ箱に変貌した。
アポロでは太刀打ちできない凶暴な怪獣が暴れ出していた。この怪獣をなだめるにはボーちゃんが戻って来るより他にない。いつもなら「おもちゃを投げてはいけません」などときれいごとを説く場面だが、今の娘にはどんなにやさしい言葉をかけても火に油を注ぐだけである。手洗いに誘うこともできないまま、やむなく昼食の準備にとりかかる。
昼食は散々だった。不安定な娘に気をとられていたこともあり、茹でていたそうめんは鍋から吹きこぼれ、麺は柔らかくなりすぎ、だらしない姿で皿に盛られた。ほんの少しのズレがすべてのバランスを乱していた。娘はやることなすこと全てが気に入らず、一時間かけて三口食べさせるのがやっとだった。みかんの缶詰も開けている余裕はなく、わたしは心身ともにすっかり疲弊していた。
それでも時間は刻々と過ぎていく。ちっとも片付かない昼食の残骸を残したまま夕食の買い出しに行き、洗濯物を取り込み、たたんでいる時間もなく夕食の準備に取りかかる。当然部屋は散らかったままだが、疲れ果てて眠った娘を横目に、なんとか夕食を作り終えた頃、夫が帰宅した。
夫は片側の頬を引きつらせ、無言のまま散らかった部屋を見まわす。何か言ってくれればいいのに、説明を求めることもしてこなかった。散らかったままの理由を言い訳がましく述べられるのが嫌なのだろう。嫌がられようがお構いなしに、わたしはすべてを白状した。ボーちゃんの名前を出した瞬間から半分以上聞いていない素振りだったが、話し終えるとわざとらしい大きなため息をついてから「部屋で食べる」と言い放ち、仕事部屋へ籠ったきりだった。
わたしは静まり返ったリビングに膝をつき、娘がばら撒いたおもちゃを一つ一つ拾っておもちゃ箱に片付ける。できるだけ音を立てないように慎重な手つきで、ただその動作を繰り返す。そんな時、胸の空洞があるはずの場所は、何かが詰まっていっぱいになっている感覚がある。ボーちゃんと同じ綿がみっちりと詰まったぬいぐるみになって、あらゆる思考も精神も失っている。どんな孤独も孤独と思わないでいられるのは、そこでしか生きられない者の特権なのかもしれない。
夏休み中、不機嫌な娘の扱い方をどうするか思案したのは最初の一晩だけだった。翌朝、目を覚ました娘は、すでに落ち着きを取り戻し、いつもと同じ寝ぼけ眼で大きな欠伸をした。ズボンに入れていたパジャマの裾も、毎朝背中側だけが溢れているのだが、それも再現したように同等に乱れている。寝起きの頭で、まだボーちゃんがいないことを思い出せていないだけかとも構えたが、朝食の席に連れて来るのが日課なので、不在に気づいていないはずがなかった。この小さな体のどこでどんな処理が行われたのかわからないが、ボーちゃんの病気の完治を願う言葉を口にし、「一人ぼっちで寂しくしてないかなあ」と心配そうに尋ねてきたりした。さらに不思議なことにイヤイヤ期のきかん坊が別れの挨拶もなく去っていた。
「この絵本を読んであげるの」
そう言って朗読の練習に付き合わされたり、玄関先で座り込んで郵便配達のお兄さんを待ち伏せしたり、手違いで別の家に届いてしまっていないか、雨の日には増水した川に落ちたりしていないだろうかと無駄な心配をしながら、わたしたちはいつ帰ってくるかわからないボーちゃんの帰宅を心待ちにしていた。
夫とは相変わらず最低限の会話しか交わしていなかったが、まったく不具合は生じなかった。それどころかわたしは夫に感謝しなければならないと常々思っている。
確かにわたしたち夫婦は少し変わっているかもしれない。けれどわたしたちなりに、家族というものを作ろうと努力していた。それはどこかで読んだ本や、いつか観たドラマから得た偽物の家族がお手本であった。そしていつも頃合いを見て物語は終息を迎え、ドラマは最終回を経てぱたりと終わる。その続きをどう過ごせばいいのか、誰もわたしたちに教えてはくれないのだ。
ボーちゃんが入院してから最初の夫の休日、いつもなら外出している時間なのにリビングでコーヒーを飲んでいるのを見て、思わず「あ」と声を発してしまった。何か、ちょっとした違和感にお互いが顔を見合わせ、よくわからない照れくささにこの後どう動くのが正解なのか浮かんでこなかった。
「めずらしいね」
不自然な空白を埋めるかのように、わたしは声をかける。返事は期待してしなかったが、以外にも夫は言葉を用意していたらしかった。
「プールにでも連れて行こうかと思うんだけど」
コーヒーカップに視線を落としたまま夫が聞く。緊張でカラカラだったくちびるを湿らせるためか、続けてカップをわずかに傾けて一口飲みこむ。
「え? 娘を?」
他に誰がいるというのか、無駄な質問をしたにも関わらず、夫は素直に「そう」と呟いた。
わたしは驚きのあまり目を凝らし、一語一句、脳内で文字に起こして読み上げていたため返事が遅れた。夫が娘を連れて出かけると言い出すのは初めてのことだった。もちろん断る理由などなく、遅れを取り戻そうと慌てて小刻みに何度もうなずく。
「もちろん。今起こしてくる」
娘はお父さんとプールに行くと聞いて勢いよく起き上がった。幼稚園でビニールプールに入ることはあったが、市営の大きなプールはわたし一人ではなかなか連れて行く勇気がなく、自転車で通り過ぎるたびに渇望の眼差しを向けているのは知っていた。思いもよらぬ幸運の訪れに寝起きとは思えないはしゃぎぶりだった。
朝食後、娘のプールバッグにタオルと水泳帽、水筒を詰めている間、夫は腰に手を当て、時折咳払いをし、忙しなくリビングを行ったり来たりしていた。娘はすでに水着を着用し、簡単に脱ぎ着ができるワンピース姿で、いつお出かけの合図があってもいいように走り回っている。
「一緒に行かなくていいのか?」
唐突に足を止め、夫が言う。
「どうして?」
正座をしながら準備をしていたわたしは夫を見上げる。
「いや、僕が連れて行くのが嫌じゃないのかと思って」
わたしは夫の言っている意味が飲みこめず、娘のプールバッグのファスナーを指先でしばらく弄ぶ。
「そんな風に思ったことはないけど」
「でも、言ってただろ。娘を返してって」
「そんなこと……言った?」
頭の中でビデオテープを巻き戻していくように、記憶がぐるぐるといくつもの映像を映し出す。不機嫌そうな顔をした夫の横顔ばかりの、特別面白味のない数年間の記録にざっと目を通す。一体どのあたりにわたしが言ったという言葉が埋もれているのか見当もつかなかった。
「いや、いいんだ。聞き違いだったのかもしれない」
出かける前にこれ以上の口論は面倒だとでも言うように、夫は片手で制する。もう言及すべきことはないと、幾分か穏やかな表情で「さあ、行こうか」と娘を呼ぶ。
二人を見送って一人きりになると、外を走る救急車のサイレンの音や、エアコンの室外機の唸る音や、秒針の時を刻む音が、それぞれはっきりとした輪郭で聞こえた。わたしはまた、自由という不自由に縛られ、日差しのたっぷり差し込むリビングで途方に暮れる。時間を持て余し、ソファの毛玉を指先で丸めてちぎる。ゴミ箱の脇に、おままごとで使うリンゴの半身が落ちているのに気づき拾う。もういちどソファに座る気にはなれず、朝食の食器を洗い、お風呂掃除をし、洗濯物をベランダで干す。黙々と手を動かしている間、考えていたのは夫の言った言葉だった。
娘を返して……?
そんな言葉を使う場面が、どこにあっただろう。三人分の洗濯物と一緒に記憶を一枚一枚丁寧に広げていくも、夫が誘拐犯でもない限り、使う必要性が見出せなかった。夫が言った通り、何かの聞き違いだったのだろう。思い出すたびに最後にはそう言い聞かせて忘れることに没頭する。
ふと、それらしき痕跡を見つけたのは二人が帰宅した時だった。夫は右肩に娘のプールバッグを担ぎ、左肩に疲れて眠ってしまった娘の頭を乗せ、どちらもずり落ちないように気遣いながら玄関を開けた。
「ベル、鳴らしてくれればいいのに」
わたしは慌てて迎えに出る。
「手が届かなかったんだ」
夫は娘のお尻の下でしっかりと指を組んで、安心しきって全体重を預けている娘を支えていた。
「すっかり重くなったな」
夫のほころんだ顔を見た瞬間、ああ、そうか、と思い至った。
わたしの意識は、出産当日の産婦人科の病室にいた。午前二時に始まった陣痛は規則正しくはあるけれど、ちっとも痛みの訪れる感覚が短くならず、待機室で陣痛促進剤を点滴する。やがて想像以上の痛みが体内を充満し、歯を食いしばる。一旦痛みが引くと、次の痛みに対する恐怖が冷静に見えてくる。十時間、徐々に感覚の短くなる陣痛にわたしは声を上げ、ベッドの上で悶え苦しむ。それでもまだ分娩台に上がることは許されず、気持ちが折れそうになる。
出産はわたしの気持ちを存分にすり減らしていた。大きなお腹は胃を圧迫し、朝食べたものが夜になっても消化されず、毎晩トイレに籠って吐き出すしかなかった。
早く解放されたい。そんな薄情な願いが、吐き出す息に混じっている気がした。健康で産まれてきてほしいとか、あなたに会えるのを楽しみにしているとか、母親らしい柔らかな感情は苦痛の下でうずくまり、今にもお腹を突き破って出てきそうな物体に、愛情を抱くことは難しかった。
それなのに、娘の姿を目にした途端、何物にも代えがたい宝物を得たのだと感謝した。そして、命がけで産んだ娘を抱いている夫がどうしてか憎くて仕方がなかった。その時、迂闊にも傷つけてしまうような言葉を口にしたのだろう。ちょうど病室に検診に訪れていたベテランの看護師さんが「産後の母親にはよくあることですよ」と夫を慰め、わたしを窘めてくれたお陰でその場の悪い空気を変えてくれたのだ。
あの日から夫は(少なくともわたしの目の前では)娘を抱っこしていない。数年の重さを感慨深く味わう夫は、間違いなく父親の顔をしていた。本当はずっと以前から正真正銘の父親であったのに、その時にできた溝に、夫は一人、身を潜めていたのかもしれない。
お盆には初めて娘と二人で母のお墓参りに行った。わたしが施設を出る日、施設長から多くの記念品やお祝いと称して贈呈された物たちの中に、お墓の場所を記したメモが入っていた。施設では実の親の話は触れてはいけない話題だったので、それまでお墓があることさえ知らなかった。黄ばんだ紙は乾燥していて、安易に撫でるだけで鉛筆で書かれた文字が今にもバラバラに砕けそうなほど古かった。わたしはすぐに住所を手帳へ写しとり、まるで母との思い出であるかのように大事にしまっておいた。
結婚した年に夫と行ったきりなので、訪問はだいぶ久しぶりになる。夫のいた施設ではどうだったのかわからないが、やはり自然と親の話題は避けていた節があり、お墓参りに来るタイミングがなかなか掴めなかったのも理由の一つだが、今の自分があまりにも不出来で、母に低い評価を受けるのではないかと思うと、自然と足は遠のいていた。
墓石は砂ぼこりで濁り、見ているだけで目がかゆくなりそうな有様だった。広い敷地のあちこちにお参りに訪れた人の咲かせた花が彩を与えていたが、両隣の墓石も同じ雨風に晒された風貌で、いつ供えられたのか分からない花が猛禽類の爪のように拉げている。それらを回収し、桶の水をかけ、丁寧にタオルで水気を拭きとる。買ってきた花を両隣におすそ分けし、手を合わせる。墓石はつやつやと輝きを取り戻し、ここに眠る母の若さを象徴しているようだった。
「ばあばは、どこにいるの?」
おばあちゃんに会いに行くと伝えてあったので、不思議そうに娘がたずねる。
「ここにいるよ」
すぐ横で屈み、墓石の下を示す。
「ここがおばあちゃんのおうち。疲れて眠っているの」
「ふうん」
娘はくちびるを尖らせ、体を前後に揺らしている。
「なにかお話があるの?」
わたしに促され、娘はショートパンツのポケットをごそごそと漁る。きつく握りしめた手を差し出し、そこに収まっているのもをそっとお披露目してくれる。
「これあげるの」
小ぶりな塊を見て最初は飴玉かと思った。けれどこの陽気でも溶けた気配もなく、艶やかな表面を保っている。よく見るとガラスの中に青い色彩を泳がせているビー玉だった。つい最近まで与えられることに喜びを感じていた娘が、わたしに内緒で一体いつそんなものを用意したのかと、感心せざるを得なかった。
「そう。きっと喜んでくれるよ」
転がってどこかへ行ってしまわないように、花筒の水の中にそっと落とす。
「ばあば、起きたら遊んでくれるかな?」
「そうだね。遊んでくれると嬉しいね」
立ち上がると、木々の隙間から僅かに抜けてくる風が気持ちよかった。海からの潮風を防ぐため、以前はもっと鬱蒼としていた南側の林が剪定されてすっきりしている。なんとなく母と過ごした土地の自然と、そこに暮らす人々によって手入れされた素朴な雰囲気に似ている。今なら母を身近に感じられるかもしれない。目を閉じ、懸命に母の記憶を手繰り寄せようと努力するも、封印されたように頑なに拒まれる。結局思い出すのはいつも、おじさんとおばさんとの別れの場面だ。
どんなことでもいい。母の話を聞かせてもらいたかった。剪定された林の中に佇む二人の影に手を伸ばしてみる。二人ともわたしの伸ばした手に気づいていないのか、それとも無駄な抵抗だと諦めているのか、差し出された手を掴もうとする素振りも見せない。いつの間にか母もそこに加わり、並んでこちらを見ている。三人は離れていくわたしを引き留めることなく手を振っている。やがて、施設の女の人がわたしの手を握る。慌てて目を開けると、手を握っていたのは施設の女の人なんかじゃなく、娘の柔らかな手である。ほっと胸を撫で下ろし林に目を向けるも、そこにはすでに誰の気配も残ってはいない。葉の擦れる音だけが、孤独を誤魔化すように鳴っていた。
「ただいまー」
返答があるわけでもないのに、娘はいつでもご機嫌な声で帰宅したことを家へ告げた。日の落ちるのが遅いとはいえ、さすがに明かりのついていない部屋は、セピア色の写真のように暗く色褪せている。どこにそんな元気が残っていたのか、わたしが靴を脱ぎきる前に娘は廊下を走り、セピアの中へ溶けてあっという間に見えなくなる。
不慣れな土地への移動は、肉体的にも精神的にも疲れさせた。帰り道で抱っこをせがまれ、汗でべたつく肌を密着させながら、二十分ほど歩かされたのも疲労の要因だった。
うどんでも頼もうかと思ったが、娘は絶対ピザがいいと言い出すだろう。シャワーを浴びてベッドに倒れ込みたい衝動を抑えている今、娘を説き伏せるだけの自信はない。お惣菜でも買って来ればよかったともたもたして、人が近づいてきていることにも気づけなかったくらい注意力が散漫していた。
「あの」
背後から声をかけられ驚いて振り向く。数メートル離れた場所に、配達員のお兄さんが困惑した表情で立っていて、ぎこちなくお辞儀をする。もしかしたら何度か声を掛けられていたのだろうかと、慌てて取り繕うように笑顔を向ける。
「すみません。気づかなくて」
咄嗟に謝るも彼は相変わらず眉をひそめて、何だか腑に落ちない視線を手元の箱に落としていた。
「小包が届いてるんですけど」
彼は長方形の小ぶりな箱を抱えていた。『こわれもの』と書かれたシールが貼られ、わたしは箱の大きさからして、ボーちゃんが帰ってきたのだと確信していた。
「あ、ありがとうございます」」
できればすぐにでもサインを済ませて受け取りたいのだけれど、ちっとも伝票を用意する気配がないので、ついにはわたしの方まで訝し気な表情が伝染していた。
「何か?」
彼は無理に作ったような笑みで近づいてきて、人差し指で宛名を示す。
「住所とお名前はこちらでお間違いないですか?」
わたしは確認してから「はい」と答える。それでもまだ躊躇いがちに、帽子の鍔の下で目をきょろきょろと泳がせている。
「どうかされたんですか?」
苛立ちが見えないようにできるだけ丁寧に訪ねると、彼は重要な秘密でも打ち明けるように声をトーンを押さえた。
「実は、送り主の方なんですが。ここの土地って、もうないらしいんですよ。だから何かのいたずらなんじゃないかと思って」
そう言われてわたしは彼の示す送り主の住所に目を落とす。バラバラにすれば、普段使用しているごくありふれた漢字なのに、それらがある既定のもとに密集して、わたしの古い記憶と合致した。覚えていなかったはずなのに、その文字を目にした途端、懐かしい夏の景色が陽炎のようにゆらゆらと目に浮かんでくる。
「大丈夫です。間違っていません」
確信めいたわたしの返答に、彼の目はわずかに不信を滲ませていたが、やっとこの任務から解放される安堵の方が勝ったように、サインを受け取ると足早に帰って行った。
わたしはその場で几帳面に貼られたテープをはがし、包みを開封した。箱の中で梱包材に守られていたボーちゃんを、新生児のようにそっと抱き上げる。あたり前だけれど、見た目は全く変わっていなかった。色褪せ具合も、落ちない染みのついた箇所も、寸分違わない状態で生まれ持った宿命のように誇らしげに微笑んでいる。
わたしの指先は、自然とボーちゃんの左の手のひらにすべり、その内側にあるボタンを確かめる。人差し指と親指で挟んで、微かな窪みに力を込める。カチッと小気味よい感触のあと、古いテープレコーダーが再生されたような雑音の中から鮮明に刻まれた声が届く。
『おかえり』
たった今帰宅したわたしに向けられたのかと思うほど労わりに満ちた声に、わたしは思わずボーちゃんをきつく抱きしめる。それは紛れもない母の声だった。
明確な記憶なんてないと思っていた。それでもたった四年の暮らしの中で、食事中や、入浴中や、布団に潜った秘密の空間で、母はわたしに語り掛けてくれていた。母の声はわたしの鼓膜を通り、脳にも神経にも血液にも浸透して、わたしの一部となって生きていたのだ。それを呼び起こすには、たった四文字の言葉だけで充分すぎるほどだった。
わたしはボーちゃんを抱き寄せたまま、廊下の先を真っ直ぐ見据える。暗いままのリビングはきっと母の胎内と同じように居心地がいいはずだ。時計の秒針は鼓動に合わせてリズムを刻み、外界からは遮断され、ここにいれば安心だとわたしたちは本能的に知っている。
「ただいま」
しっかり喉に力を込めて告げる。母に向けて、自分に向けて、この家に向けて。
もう一度ボーちゃんの左の手のひらを探ろうとした時、トタトタと走ってくる小さな足音が聞こえてきた。
「おかえりー!」
壁に手を這わせ玄関の照明をつけると、蛍光灯の明るさに娘は何度か瞬きを繰り返した。わたしに抱かれているボーちゃんを見つけ、眩しさに縮こまっていた表情をすぐさま全開にさせ手を伸ばす。
「あっ! ボーちゃん帰ってきた! ボーちゃんもおかえり!」
娘はもう二度と離さないという決意を感じさせるほどの熱い頬ずりをし、ふたたび背を向け走っていく。あたりにはまだ、母と娘の「おかえり」の残像が浮遊し、離れがたい心地よさがある。
そうだ。夫が帰ってきたら「おかえり」と言ってみよう。娘とボーちゃんと一緒に出迎えてみるのもいい。そんなくだらない計画を立てている自分に思わず笑みをこぼしながら、ようやくわたしは帰るべき場所へ一歩足を踏み入れる。