朝日と義娘と逆さ吊り
心はまるで東野圭吾。
1ミリも近くないけど。
「歴史の歯車を動かすのは血なのだ」
―ベニート・ムッソリーニ(1914)―
夜が熱を奪っていった後に、地上に残るのは冷たい静けさだけだった。
日本橋川を船で航行する観光業を営んでいる船頭は、今日は自分が船を操縦し乗客を案内する日だったため、早朝から航路の下見および確認作業を行っていた。
東京にしては少なめな朝の交通量と車の音、そして船が水をかき分けていく音が耳に響いている。
船が最初の橋に差し掛かろうとした時に、船頭は橋にぶら下がる異物を発見した。風か何かで引っかかった大きな布だろうか。
船で近づいていき数秒もしないうちに、船頭は声になっていない悲鳴を上げながら必死になって引き返そうと船を操舵した。
その異物は下部が赤く変色していたが、ゴミではなかった。
片足を縄で橋の欄干に結ばれたまま、逆さ吊りにされていた男性の遺体だった。
身なりのいいスーツを着込んだ男性の顔は、血が上り赤く腫れてしまっていた。
船頭は決して振り返りはしなかった。死体を見たくないのも理由の一つだが、最大の理由は血が上って腫れあがった男性の顔が、破裂する様を見てしまったらと思うと怖くなってしまったからだ。
誰もいなくなった川の水面は、船が立てた波と死体から滴り落ちた血で波紋同士が絡み合っていた。
-東京 羽柴探偵事務所-
凶器のすり替え殺人事件を解決した翌日。
最近替えたばかりのセミダブルベッドに身体を委ねつつ、顎を枕に突きながらうつ伏せで昨日に寄り道して買った小説に没頭していた。壁に掛かっている時計がチラッと目に入ったが、短針が7を指していた。カーテンの隙間から溢れる朝日も、少し眩しく感じる。
「・・・やっぱ奇書は一味違うなぁ。そういやこれの映画が2本くらいあったっけ・・・。今度アイツと観てみよ」
旅行帰りの疲れを心身ともに癒して今日を終えようと本気で考えていた最中、廊下を歩く1人分の足音が耳に入った。足音の軽さやスピードで女性のものであることが分かったが、羽柴には聞かなくても誰なのかは分かっていた。
その音の主は寝室のドアをガチャリと開けると、困ったかのように目尻を下げ苦笑いをした。
「また寝ながら本ですか? せめて仰向けか横で読んだ方がいいですよ。顎がシャクレちゃいます」
「誰がクッ◯ングパパやねん。俺ぁまだ27歳のお兄さんだゾ」
寝室に入ってきたのは、この探偵事務所で羽柴の義娘であり助手も勤めている星宮流歌だ。
今日は土曜日だからなのか、すでに私服のモノトーンオフショルダードレスに着替えている。有り体に言って可愛い。
しまった父親面出してしまった。
流歌は、彼女が9歳の時に放火事件により母を亡くして孤児になってしまった時、犯人逮捕の流れで俺が保護者になってしまったのだ。それからもう7年の付き合いになる。名字が違うのは、単に母親の姓を継いでいるだけと聞いている。
あの羽柴がシングルファザーの真似事をするとは誰もが夢にも思わなかった。当初の知り合いの中には、流歌の身を案じている者も少なくなかった。俺を何だと思っているんだと遺憾の意を表明したいものである。
それはそうと朝から目に毒すぎる。
もう16歳なんだから義父にも慎みというか遠慮というか、そういうのを待ってもらいたい。 俺が性獣じゃなくて精神病質者でよかったね、などと頭の中で言葉が吹かれながら漂っていた。
「うぁぁぁ〜眠い・・・」
「何読んでたんですか?」
「ドグラ・マグラ。気付けには丁度いいぞ?
頭が刺激されて朝8時からスッキリって感じ」
「まだ7時ですしニュース番組じゃないですかそれ。しかもドグラ・マグラって精神異常になる本ですよね。これ以上頭がおかしくなってどうするんですか?」
「手厳しい秘書みたいなこと言いやがってチクショー」
変な空気感かもしれないが、これが羽柴探偵事務所の朝である。
流歌は真面目でクールな美人なのが美点だが、いつかは俺の仕事を継ぐ気満々なのだ。だから、勉強や友達との交流も人並みにしつつ、血生臭かったり危険な羽柴のお楽しみという名の捜査についていく。
できればその将来は阻止したい。でないと羽柴は、自分のオンリーワンが無くなってしまうと危惧していた。
今日の朝食はスクランブルエッグとシーザーサラダに、コンソメスープ。付け合わせはバタートースト。和食の好き嫌いが多い羽柴にとって洋食は有り難かった。
まず大体の日本の郷土料理が嫌いで、特にキノコや餡かけのようなものが大嫌いだった。昆布に至っては小学校の給食で吐いた記憶すらある。
今日も羽柴はニュース番組をBGMに聞きながら、意識はスマホのサスペンスドラマに向いていた。探偵のくせに世の中の動きに全く興味がないのである。
探偵のくせに。
「正爾さん、探偵なんですからニュース見ましょう? いつも動画かサブスクしか観てないですよね」
「依頼が来るまで何もしねえんだから聞く意味ないっしょ。仕事に関する情報は依頼人か警察関係者が持ってくるんだしぃ。それより今は映画よ映画! 半年前に結局観に行かなかったヤツが今日から配信されてんだ。見ず知らずの人の不幸や命よりずっと大事だろ? え??」
「人間が終わり過ぎてます」
「しょうがねーだろ羽柴正爾なんだから」
「赤ちゃんネタやめてください」
この人格破綻者を所長とした2人が今まで数々の事件や謎を解いてきたと思うと、世の中の不思議というか複雑な思いになる。
今となっては、もっとまともな探偵を雇うべきだったと後悔している関係者も実は少なからずいる。
「ぁあ〜〜〜」
「だらけ過ぎですよ」
「日替わりのティータイムって何でこんなに最高なんだろう。
カフェインキメてるからか? もしくはエチゾラムか?」
「精神安定剤を混入させないでください。薬物乱用になっちゃいます」
流歌が入れてくれたダージリンのセカンドフラッシュが心なしか心を安定させてくれる。爽やかなマスカットフレーバーがいいアクセントになって最高のストレートティーを演出している。
なぜこんなにお茶って心の安寧になるのだろう。お茶が好きすぎるからか・・・、流歌が淹れたからか・・・。
まあ、正直どっちでも良いのだが。
「あ、正爾さん。支倉さんから依頼のメールが来てましたよ」
「まじで? 今日土曜日だぞ。事務所休みにするか」
メールの送り主である支倉とは、お得意様である警視庁捜査一課の警部のことである。
フルネームは支倉昌信。短髪の癖毛で、いつも年季の入ったコートとスーツを着ているベテラン警部だ。
仕事には真面目なのだが、羽柴ほどではないがダラっとしてる部分があり、かなり中年のおじさんって雰囲気だ。この間は白髪染めで黒く染色していたが、白髪混じりの方がハードボイルド感があって好きだったのに残念だ。
そんな支倉ひいては警視庁からの依頼が来たにもかかわらず、羽柴は休日にしてバックレる気でいるようだ。
「原則休日は日月でしょう? さあ行きますよ」
それを説得して仕事に行かせるのも、長い時を羽柴探偵事務所で過ごしてきた流歌にとっては、日常の一幕となって染みついてしまっていた。
だが、この程度で羽柴が重たい腰を上げないことも重々承知だ。
「お前友達と遊びに行けよ。ピチピチのギャルとかと原宿で綿飴とクレープとタピオカミルクティーでも飲んでこい」
「女子高生に偏見持ちすぎです。今日はその予定はありませんよ。
それに良いんですか? 今回の依頼料は50万円ですよ?」
「いよっしゃ行くぞ流歌! ちょうど欲しい文庫があって金が欲しかったんだ!」
「・・・はぁ〜。・・・・・・・・・ふふっ」
依頼料で手の平を返す意外と単純な羽柴の姿に、流歌は慣れた光景ながらもクスリと笑ってしまう。
今日もメチャクチャだけど面白い所長兼義父の羽柴を、流歌は決して嫌いではなかった。一般人や羽柴正爾を知らない人間には、ただの頭がおかしい狂人にしか見えていないことだろう。それでも流歌にとっては恩人であり、偉大な義父であり、憧れの探偵であることに変わりはない。
規格外だからこそ、自分にとっての道を突き進むための途切れない光となってくれているように、流歌の目にはずっと映ってるのだ。
流歌ちゃんのCVは早見沙織さんを希望します。
ダメなら能登麻美子さんで!