救世主は三日も待たずに甦る
新たなるダ・ヴィンチ・コードって感じ
人ひとり居ないガラ空きの美術館を、コツコツと歩く靴音が一つ。
暗闇に溶け込むような全身黒の服を身に纏いながら、廊下から階段へと足を進める。
コツ、コツ、コツ。
順路を逆走して目指すのは、昨日盗り損ねた絵の前だった。最低限の薄明かりの中で、男はその絵をじっと見つめ、そして歓喜した。
やった、これは本物だ!
口が下弦を描くことも抑えられずに、その絵を手にかけようと両手を伸ばす。
その瞬間、地下の照明が全て点灯した。
照度の差に目が少し眩んでしまい、慣れた頃には四人の人間が男を囲んでしまっていた。
『よう、絵画泥棒さん。チケット買ってから出直してこいや』
ミャンマー語で話す飄々とした男を撃とうと銃を構える前に、右手首が衝撃と痛みと共に嫌な音を発した。手に力が入らない。折られてしまったらしい。
落とした銃は男に蹴られて、中年ほどのコートを着た男に回収されてしまった。
左手で応戦しようとナイフを抜いて突き刺そうと腹へと刃を伸ばす。それも予見されたかのように受け流され、遠心力が込められたフルスイングが側頭部にクリーンヒットした。意識が混濁して顔面から地面へと崩れ落ちる。その後は迅速に、控えていた二人の女に手足を拘束されて終わりだ。
まんまと罠にハマった挙句、帰れば責任をとって処刑は免れないだろう。信じる神のために身を捧げても、異教は滅ぼせなかったと黒い男は悔しげに歯を噛み締めた。
『ミャンマー語はもういい? どうせ日本語くらい分かるだろ、シェサンくぅん』
挑発的な憎たらしい男の顔に、怒りと殺意が湧いた。
「さてミャンマーのナチス野郎よ」
「その蔑称をやめろ」
「え? なんて? ミャンマー語じゃなくて日本語で話してクダサーイ」
少しキレたのか身をジタバタと暴れさせるシェサンを見て面白くなってきた羽柴は、手足を切り落として本当に芋虫みたいにしてやろうかなと本気で考えた。
そんな狂気的な羽柴の思考など知ったことではないシェサンは、殺気のこもった目を向けている。
「まあ悪ふざけはここまでにして、お前の目的を当ててやろうか」
羽柴は名探偵のように仰々しく身振り手振りで役者を演じ始めた。彼の頭の中には、この推理シーンに合ったクラシック音楽が流れている。
「お前らミャンマー国軍はアンチキリスト教組織でもある。教会破壊したり信者を弾圧したりしてんのは世界的にも有名だ。
じゃあ、そんなクソやべえ軍隊の人間が一人でなんでこんなとこに来たのか・・・」
シェサンの周りを迂回するように歩いた羽柴は、飾られた本物のサルバトール・ムンディを親指で差した。
「目的は、この絵を盗んで本国に持ち帰ることだった」
表情は変わらないが、シェサンの息が少し詰まった音がした。
「ミャンマー国軍はキリスト教を徹底的に国から排除し、仏教のみが支配する国にしたかった。そこで転がり込んできたのが、サルバトール・ムンディだった。あの絵の秘密を世間に公表すれば、キリスト教は失墜し、一気に他宗教の信者が増えるからな」
「ちなみに本物の絵はお前が偽物だと思っていたハリボテの裏にあったぞ」と、羽柴は自慢げに告げてやった。本物の絵は、羽柴が頭突きで破壊したハリボテの奥に飾られていたのだ。被害者が絵を盗まれまいと、ガワだけの偽物を上から被せていたのである。
苦い顔をして顔に影を作るシェサン。羽柴の推理は、少なくとも今回の事件にはピッタリ一致していたようだ。
絵に隠された秘密とやらに、そこまでは聞かされてなかった他三人が口を介入させた。
「おい待て羽柴。ダ・ヴィンチのあの絵の秘密ってなんだ? 俺らは聞いてねえぞ」
「その秘密は簡単。
ダ・ヴィンチは、異教徒だ」
「―――――えええええええ!?」
あまりにもデカい秘密を聞かされた支倉は反響するほどの驚愕を口から射出した。流歌と巴も叫びはしなかったが、見開かれた目が心情を語っていた。
「そ、その話って本当なんですか?」
流歌が震える声で羽柴に問いかけた。羽柴と同じく芸術好きの彼女にとって、この真実はアポロが月へ降り立った時と同じショックの大きさだったことだろう。
「おう。つか前提としてダ・ヴィンチはキリスト教徒じゃねえぞ。
確かにダ・ヴィンチは岩窟の聖母や受胎告知とか、実際にキリスト教をテーマとした絵を描いているが、当時は画家本人が自発的に描き始めるんじゃなく、注文を受けて依頼主の要望に応じて描くというスタイルが基本だった。
つまり、単にキリスト教絵画を描いていたからといってダ・ヴィンチ=キリスト教徒と断定することはできん」
ダ・ヴィンチがキリスト教徒じゃないなんて可能性は、誰もが考えたことすらなかった。あの世界の至宝とも言える絵画の数々を作り上げた創造主が、実際は神を否定していたのだ。
「ダ・ヴィンチの手稿には、何度もキリスト教を"偽善"と吐き捨てる箇所があった。彼は芸術のために神の世界を描いただけであって、キリストへの信仰心など欠片もなかったのさ」
世界の根幹を見てしまったような、そんな張り詰めながらも深淵のように不可解で深い空気が展示室と肺を満たしていた。
「では、その事実がミャンマー国軍の求めたものか? 否、ならば他の絵画でも十分だし手稿を盗めばいい。では、本当の目的は何か。
答えは、この絵の中にあるキリストが教えてくれた」
羽柴が絵の前に立つ。そして、絵の中のキリストと同じように、右手の人差し指と中指を立てた。
「――――――ダ・ヴィンチは、仏教徒だ」
世界をひっくり返す言葉が、狂気の探偵から放たれた。これが衛星放送で全世界に流れたら、宗教界と芸術界は混乱どころか大戦争すら起こしかねない。それほどに、この秘密は重すぎたのだ。
『あのレオナルド・ダ・ヴィンチが・・・・・・仏教信者と言うのですか?』
巴から心が声となって漏れた。シェサンの表情筋に力が入る。何から何まで推理されてしまっていることを悟ったのだ。
「右手のこのポーズは十字を切るポーズと有象無象どもは考察して、それが一般となっている。だがよく考えれば可笑しいにも程があるわ」
「何故だ?」と支倉が聞いた。
「キリスト存命時代は、十字は磔の時に使われていたことから処刑や犯罪者の象徴だった。そんな時代にキリストが、十字なぞ切るかね?」
確かに言われてみればその通りだ。キリストや神の象徴でもないのに、絵の中のキリストは十字のポーズを取っている。これが中世のありふれた画家が描いたなら陰謀論程度で終わっただろうが、描いた人間が問題だった。
ダ・ヴィンチは、忠実な絵を描くことで有名だ。人体や聖書の内容を忠実に描いたからこそ、ルネサンスの時代に天才となったのだ。
その忠実なダ・ヴィンチが、この矛盾を許すはずがない。これは、ダ・ヴィンチが絵に隠した暗号だと羽柴は考えた。
「じゃあこのポーズは何か。ヒント、最近呪術アニメ観た?」
チクタク、チクタク、時計の秒針の音を口遊みながら、クイズの制限時間を刻むように頭を左右に振る。
先に答えに辿り着いたのは、娘であり助手の流歌だった。
「――――――印相、ですね」
「ピンポンピンポンピンポォーーーン!」
飄々と巫山戯る羽柴が正解音を自演した。頷く巴はともかく、宗教に疎い支倉は印相が何かわからなかった。
「おい流歌、印相ってなんだ?」
「印相は、仏教において手の指で様々な形を作り、宗教的理念を象徴的に表すものです。忍者が手でニンニンってやりますよね? あんな感じです」
分かりやすい例えに支倉は納得できた。手で作り出す宗教的な印、それがキリストのあの右手だと羽柴は言っているのだ。
「この形に該当するのは刀印。指の刀で悪を消し去るみたいな意味がある印よ。中世イタリアで権威を振るうキリスト教を嫌っていたダ・ヴィンチは、思想がキリスト教より近い仏教を選んだ。だが、公にそれを出せば異教として罰せられる。だから絵の中に自らが信じる宗教を紛れ込ませた。
―――――――これが、サルバトール・ムンディに隠されたダ・ヴィンチ・コードだ」
静寂が十秒ほど彼らの周りを漂った。ただの殺人事件が、そんな信仰までも脅かす大事件だったとは瓢箪から駒だった。
事件の全貌を暴かれたシェサンは、自分の処遇と自国の行く末を案じながら目を閉じて観念した。
「どうだい? メガネも異能力も必要ないだろぉ?」
瞼の裏に焼きついた、憎たらしい悪魔の形相だけは暗闇の中で嗤っていた。