閑話 虫唾が走る
【虫酸が走る】とはまさにこの事だろう。
隣で脈絡もない言葉を繰り返す皇女に内心苛立ちを募らせながら笑顔を絶やさない。
「私はっ、ただお父さんに抱き締めてほしかったんです。普通の家族みたいに、私は…っ」
一体何度も同じ言葉を聞かなければならないのだろうか。通常ならとっくに処分しているところだが、目的のためには我慢する他ない。
…本当にあの子は悪い子だ。俺を愛してると言いつつ他の女を誘惑するよう命令するだなんて、よほど嫌われているとしか言い様がない。
ぐずぐずと泣く皇女の話に相づちを打ちつつ、思考は全く別に切り離されている。俺をこの女の元に送った別の人のこと。
泣く姿さえ比べ物にならない。この皇女はただ守って貰いたいが為、慰めを求める下賎な物乞いのような涙を流す。
一方シルティナは違う。アレは絶対に助けを乞うような涙は流さない。
蔑み、憎しみ、諦観するような冷めた涙を見せるのだ。まるで此方を見ていないかのような、無関心な涙。
例外があるとすればそれは痛みから出る生理的な涙であろう。結局はあの子も人間だ。痛ければ泣き、それでようやく此方を見る。
逆を言えばそうでもしなければ此方を認識しようとすらしない。嫌われるよりもずっと堪えることをシルティナは平気でするのだ。
皇女の話がつまらな過ぎるせいか、徐々に相づちすら面倒に思えて代わりにシルティナに初めて命令されたあの夜を思い出す。
今思い出しても興奮が冷めることのない、あの甘美な夜を…。
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シルティナに持たせておいた簡易型転移スクロール。
ラクロスから聞き出したそれは僕の持つ魔道具と連動するようにしており使用すればいつどこに行ったのか分かる仕様になっている。
だからあの夜、シルティナが複数回に渡り使用したことが通達された。目的は不明だが行き先は帝国の納めるグラニッツ領に通じる場所だった。
そこから先は警戒してスクロールを使わなかったようだが、少し時間を開けてグラニッツ公爵邸からの使用が確認されている。
問題は何故グラニッツ公爵邸に赴いたのか。寄付はその地位に相応しいだけ納めているが、それ以外に彼らとの接点はない。
そもそもグラニッツ公爵令嬢は滅多に外出せず、その娘を溺愛すると噂の公爵も神殿とは一定の距離を保っている。
目的が見えない以上多少拷問してでも問い詰めるしかない。
また秘密を隠されることに苛立ちと焦燥を募らせながらもう戻ったであろうシルティナの元へと向かった。
するとどうだろうか。鏡の前で何やら思案していたシルティナは此方を見るなり俺の元へとゆっくりながら歩を進めた。
それはまるで寝室を訪れた恋人を歓迎するかのようで、たとえ嘘だと分かっていても抗えない欲動があった。
柔らかい白肌に、シルクの髪が質量を感じない軽さを見せその小さな唇を悪戯に艶やかせる。
すっと伸びた睫毛が目尻に重なるのを寸前まで見届け、ゆっくりと開いた瞳からは夕焼けのように温かな真紅が魅了する。
一切此方を映さないその目で、僕を誘い、跨がったあの子を、どうすれば良かったのだろうか。初めて差し伸べてくれた、触れた手は熱く全身が沸騰するような感覚にさえ陥った
悪魔とはまさにシルティナのことだろう。軽々と掌で踊らされ、彼女の一挙一動に釘付けになり振り回される。
それを分かってやっているのだから救いようがない。自分は被害者だと偽っているくせにやっていることは俺達と何も変わらない。
彼女が愛してると言えば心臓を捧げたいぐらいに身体は熱くなり、不安だと憂いを言えば何を賭してでも願いを叶えてやりたい。
順調に俺のもとまで堕ちていっているシルティナに歓喜し、それと同時に不安も一層と増す。
俺のように他の奴らにも同じ手を使うのだろうか。この小さな手を添えるのだろうか。この小さな身体で押し倒すのだらうか。
考えれば考えるほど嫉妬が募り、殺意すら沸き上がるら。どうしたら俺のモノだけでいてくれるだろう。
幼い頃から目を付けていた。俺が一番最初に見つけた子だ。途中からやって来て横槍を入れる奴らなぞ全員殺してやりたい。
今は冷戦状態が続き表面上は協力関係にあるが俺達の思いは同じだろう。癪だが同族嫌悪とはそう言うものである。
思えば最も充実していたのは俺が神殿に上がる前だ。あのときは良かった。二人の間を邪魔する人間は簡単には排除できたし、面倒なしがらみもなく愛し合えた。
だが下手に権力を得てシルティナを囲おうとしたせいで隙を作り俺が飼い戻す前に鳥籠を去ってしまった。まだ神殿内部だったから赦せたが、それでも容易に手の届く存在でもなければ簡単に囲えることもできなくなった。
さらには面倒な奴らに目をつけられ独り占めもできずにいる。
こんなことになると分かっていたなら孤児院を出る前に策を用意しておくべきだった。今さら後悔しても遅いが当時の無能を極めた自分に腸が煮え繰り返る。
自分自身に対して失望と落胆の溜め息を吐きたいが、今この場では致し方ない。
皇女の話は予想通り長く続いた。どれも聞く価値のないものばかりだったが収穫といえば皇帝の関心は一mmたりとも皇女に注がれてはいないということだろう。
人を疑うことなど知らず、その無邪気さが邪険にされる要因と成りうることも理解できない皇女など何の魅力も感じない。
シルティナはこれのどこを見て自分が劣っていると感じたのだろうか。
最も理解できない謎にぶち当たったようだ。血筋など簡単に細工可能であり、実際反乱や入れ替わりなどで正統な血筋が続く国こそ珍しい。
それに家族と言うが俺達に父親や母親何ていう概念はない。産まれたときから捨てられて、偶然にも拾われた孤児には分不相応なモノだと誰もが告げる。
それは此方も同じで親など存在しようがしまいが実害さえなければ変わらない。
結局、それがいたところでの話だ。愛して欲しいなんて死んでも思わないし、実際血の繋がりというだけで無償の愛情を与えられても鬱陶しいだけだ。
望んだ人間でなければゴミに等しいそれをどうして父親というだけで受け取ろうと思うのか。やはり子供というのは面倒くさい。もしシルティナと関係を結んだとしても子供は殺しておこう。
それか産ませるだけ産ませてそれを人質にすればいい。子供には愛をねだらぬように躾けて、シルティナを縛る首輪としてでも用いればいくら彼女でも完全に堕ちるだろう。
容姿に至ってもそうだ。シルティナが皇女に劣るどころか頭一つ抜きん出ている。
皇女は人間の基準では十分に通用するかもしれないが、日常的にシルティナの顔を見ていれば特に珍しくも思わない。
何故かあの子は自分の容姿を軽視、と言うより卑下しがちだがわざわざ仮面とローブを神殿内でも着けさせているのは余計な塵どもを増やさない対策だ。
それでも毎年のように身の程を弁えない輩が出てくるのだから隠しても隠しきれるはずがないのだ。彼女の魅力は顔を奪っても、声を奪っても事足りない。
権力とてそうだ。望めば全て叶えてやれると言うのに、今更過ぎるだろう。皇帝の庇護を持たない皇女など醜聞を流せばすぐに日陰者として生きることになる。
それでもあの誘いに乗らない男などいない。いつもの怯える姿とは真逆に変わって絶対的な自信と蠱惑的な意志を孕んだあの情欲に乗らない男はよほどの頑固かつまらぬ聖者とやらだろう。
皇女が話を続けるたびに用済みになったときの殺し方を数十通りと考えて、ようやくその退屈な暇つぶしも終わりを迎えた。
「話を聞いて下さってありがとうございました。お陰で少しだけ楽になった気がします」
「それは良かった。また次の縁があればお会いしましょう。それまでは一夜の幻とでもお思い下さい」
「…そうですね。また、お会いできるのを願っています」
どうせまたすぐに偶然会うことが決まっている此方の身とすればこの会話のやり取りほど無用なものはないが面倒を省いて結果を見出せないのであれば意味がない。
「あ、そうだっ! これをお持ちになってもらえませんか? いつかまた再開する時まで預かっておいてほしいんです。もちろん、迷惑でなければなんですけど…」
頬を赤らめて先ほど返したハンカチを渡される。その手ごと焼き払いたいのを抑えて形式通り手の甲に口づけをし受け取れば口角をこれでもかと上げて嬉しさを表現した。
下級貴族でもまだマシな礼儀作法をするものだ。平民なら甘酸っぱい恋とやらで終われただろうに、皇女の立場でそれを望むのは余りに分不相応だったようだな。
最後まで此方を振り返り手を振っていた皇女に呆れを通り越して見送り、完全に去ったのを確認して渡されたハンカチを手袋ごと乱雑に振り落とした。
手袋をしておいて良かったな。こんな気色の悪い物を素手で掴まずに済んだ。だがまぁ後々のことを考えて一応回収しなければならないが…、
「拾っておけ」
風に揺られ木々の囁きしか聞こえない中、反復した命令は実直に遂行される。
オルカが直々に雇い迎えた【影】。日の目に当たれば確実に輝く実力を用いながらそれぞれの理由で居残り続ける奇怪な集団。
その一端がオルカの雑用として身の回りに付いていた。当然地に落ちたハンカチは再度拾われ黒装服の中へと隠された。
「はぁ…、最悪だな」
汚れた口を新たに常備していたハンカチで拭くが言い様のない不快感が消えることはない。
誘惑自体必要なかったため経験はないがもし本気で堕とせと言うのなら当然これ以上のスキンシップも含まれるだろ。
本当に最悪だ。魔物の返り血を三日三晩に渡って浴び続けたときよりも不快感が強いのだから上手く処理してきたはずのストレスも大きい。
帝国と聖都では距離があり、転移で戻るにしてもコストがかかり過ぎる。大神官としての仕事も並行して行うならば一ヶ月は当分戻れないだろう。
これは本気で理性を殺しにかかってるな…。安請け合いしたわけではないが、実際侮っていた。まさかこうまでして俺を試そうと思えるとは随分考えたものだ。
俺を愛していると言った割には遠くにやり、一月は会わぬよう仕向けその代わりどこの馬の骨かも分からぬ他の女を口説けと言う。
ここまで酷い女は中々にいない。いや、単純に男の扱い方が上手いのだろうか…?
どちらとしても、彼女の手中に収まってしまった以上早々にこの下らない茶番劇を終える他ないだろう。まぁ、それまで理性を保っていられればの話だが……。
補足
いや、ほんとクズだね! オルカ君(=^ェ^=)!!!
ていうかハンカチ元々オルカがエルネから盗って渡して今度はエルネから返されて結局捨てられるって…。難多きハンカチ生だったね!
ちなみに帝国礼儀で男性が女性にハンカチを貰うときは必ずその手の甲に口づけをしなくちゃならないっていうものがあるんだけど、当然エルネもそれを知っていると考えたオルカはガチで嫌がってやってたよ。
でも肝心のエルネは知らなくて舞い上がってたから、知らないって知ってたら絶対しなかったよね! どんまい!
オルカも意外に好きな人から別の女誘惑してとか言われるし潔癖症なのに手袋越しとはいえキスしたんだから可哀想な奴だよ!
それ書いたの誰かって? 私だよ!!!