誘惑の手
・ 【ヒロイン視点】です。
名も知らない紳士の人はただただ黙って私の話を聞いてくれた。何か助言をしたり、貶めたりすることなく、純粋に聞き入れてくれた。
その真っ直ぐな姿勢が、この窮屈な檻に閉じ込められ変わってしまった私に強く刺さったのかもしれない。気づけばポタ…ポタッ…と涙を流していた。
「ぁ…っ、ごめなさっ…。わたし、泣くつもりじゃ…」
「構いませんよ。此処には貴方を咎める人など誰一人としておりません」
何故貴方はそんなに優しいのか。貴族は皆、自分の利益しか考えていない冷徹で怖い人ばかりだと考えていた自分が恥ずかしいぐらいに、貴方は温かい。
「私はっ、ただお父さんに抱き締めてほしかったんです。普通の家族みたいに、私は…っ」
あの日のことを思い出しては、一人夜を泣いて過ごしている。どれだけ忘れようとしても、フラッシュバックのように突然脳裏に焼き付いて胸を焦がすのだ。
いっそ、何も知らないままでいたかった。陛下がお父さんであることも、その陛下に憎まれていることも…。
だけど1つに2つは選べない。もし私があの日皇族として迎え入れられなければ、今頃貴族の愛妾としてボロ雑巾のように扱われ捨てられていた運命なのだから。
今だってそう。私がこうして綺麗なドレスに身を飾って泣いている間に、別の誰かはお腹を空かせて泣いているのかもしれない。殴られて泣いているのかもしれない。
だから…、だから、こんなこと思っちゃいけないのに…っ!
「貴方は悪くない。貴方は、一生懸命頑張っているじゃないですか」
どぅして、一番欲しかった言葉を今あったばかりの貴方がくれるのだろう…。
私が欲しくて欲しくて仕方のなかった言葉。家族にさえ言ってもらえなかった言葉を、貴方は何の躊躇いもなく言ってしまえた。
「わたし、貴方が言うような人間じゃないんです。今日もある人に友達になろうって言ってくださったんですけど、私は利益ばかり考えて…。挙句の果てには、嫉妬…、してしまったんです」
こんな自分が心底嫌になる。何でも持っていて、輝いて、幸せに満たされたエディスが羨ましくて、心の何処かで傷ついてほしいとすら思ってしまった。
こんな人間、誰も好きになるはずないのに…。
「酷い人間ですよね? その人は純粋に友達になろうって言ってくれたのに、私は…っ」
「…それでも、今貴方は後悔しているじゃないですか。本当に悪い人間は後悔もしないし、そうやって涙も流しません。それだけ、真剣に考えている証拠でしょう?」
ドレス裾を握りしめて俯いていた私が思わず顔を上げたとき、彼は月明かりに照らされて何処までも神秘的に輝いていた。
あぁ…、この人はもしかしたら『人間』じゃないのかもしれない。だって、こんなにも美しい人が地上にいる訳ないもの。きっと、間違えて地上に迷い込んでしまった天使よ。
「私はそんな貴方を尊敬しますし、純粋に支えたくなります」
「………へっ?」
驚きのあまり思わず間抜けな声が抜け出た。
だ、だめだめっ! この人は恋愛的な意味じゃなくて人間的に支えるって言う意味で言ったんだから! 勘違いしちゃだめ、エルネ!
ペチペチと両頬を叩き目を覚まさせる私に対し、彼は面白おかしそうに笑った。そんな砕けた姿もまた新鮮で、何故か胸の高まりが頭に響く。
「あっ、あの! ずっと名前も知らずにお話してしまって無礼でしたよね。その、お名前をお聞きしても宜しいですか?」
「…そうですね。私はとある事情で身分を明かすことができないのですが、愛称で『ロン』とでもお呼び下さい」
身分を明かせないだなんて、どうやら複雑な立場にあるようだけど彼に愛称を許されたことがとてつもない幸運のように感じた。
「名前を明かせない身で不躾ですが、私も貴方のお名前をお聞きしても?」
「えぇっと…、私も同じで訳あって今は言えないんです。だから、『ルナ』と呼んで下さい」
「ルナ…。月の女神のごとく美しい名前ですね」
「そんな…っ、ロン様こそ人間とは思えないお顔立ちでっ」
「私のこともどうか敬称など付けず『ロン』とお呼び下さい。貴方のような可愛らしい人に様づけなどされては緊張してしまいます」
「っで、では…。ロ、ン…?」
「はい。ルナ」
偽名とは言え、彼の口から名前を呼ばれるのはこそばゆくて、それでいて心が囃したった。
もしこの人と、エディスとウィリアムズ小公子のような関係になれたら…。なんて、身の丈に合わない願いを思ってしまうぐらいに私は彼に恋してしまったと思う。
もっとロンと話していたい。だけど会場の方から私の名を呼ぶナターシャの声がかすかに聞こえ、長く席を開けすぎた為にもうこの夢のような時間を終わらせなければならないことに気づく。
「……ロン。話を聞いて下さってありがとうございました。お陰で少しだけ楽になった気がします」
「それは良かった。また次の縁があればお会いしましょう。それまでは一夜の幻とでもお思い下さい」
「…そうですね。また、お会いできるのを願っています」
貴方は別れ際まで美しい人なのねと思いながら、次の出会いが遠からず訪れることを切実に願って帰ろうとしたその時、あることを閃く。
「あ、そうだっ! これをお持ちになってもらえませんか? いつかまた再開する時まで預かっておいてほしいんです。もちろん、迷惑でなければなんですけど…」
私とロンをたった一夜と言えど繋いでくれたこのハンカチを、彼に持っていてほしい。そしていつか、再会するときがあればそれを理由にという下心があったのも事実だ。
「分かりました。また再会するその時まで、お預かりしておきます。ルナ」
無事ハンカチを受け取ってくれただけでなく、手を取ってその甲に口づけまでしてくれたロンに心臓が今にも飛び出しそうなほど緊張してしまった。
もしこれが手袋越しでなければ気絶してしまっていたかもしれないと思うと良かったと複雑な気持ちになるけど、憂鬱だったパーティーが楽しい思い出に塗り潰された喜びのまま会場へと戻っていった。