それぞれの決意
【ヒロイン視点】
「皇女様。今日は天気も快晴ですし、お庭のリリーなどが咲き誇っていますよ」
「…そう。でも今日も体調が悪いから部屋にいるわ」
いつものように外に出ることをそれとなく進めるナターシャに対し、私はやんわりと拒絶する。この理由を使ったのは幾度目だろうか。
「分かりました。なにか必要なものはございますか?」
「もう本を全て読み終えてしまったから、次の新しい本を用意して貰える?」
ナターシャは依然として私に付き添ってくれているけど、あの日以来城で働く使用人達からはあまり良い印象を持たれていない。
既にあの時の一部始終が噂となって出回っているのだろう。オパール宮で働く人達からもたまに視線を感じる。スラムで育ったせいかそういう視線には敏感になってしまう。
それでもまだナターシャを筆頭に統率してくれる人達がいるけど、当然陛下の寵愛を一心に受ける存在だと信じていたのにそれが真逆だったなんて知ったら疑うのも必然だ。
城の外ではまだ噂が出回っていないものの、この調子ではすぐに広まるだろう。それに私がスラムで育ったという事実も後に明かされるはずだ。
皇宮に行ったら誰かに脅かされる心配はないと思っていたのに、夢見ていた日々は所詮全部夢だったなんて…。
今はこうしてオパール宮に引き籠もっているけど、本当にこれでいいのかなんて私にも分からない。陛下には何もするなと言われたけど、これが本当に正解なんだろうか。
私は、私は……っ。なんて、そんな風に思ってもなんにも変わらないのに。分かってる。きっと今のままが誰にとっても正解なんだと。こうして騒がず、息を殺して生きることが正しいのだと。
もう何冊も積み重ねた本が山積みになっている。朝起きて本を開いて、夜が更けたら本を閉じる。それの繰り返しの日々に息苦しさを感じる。
帰る家も美味しいご飯も綺麗な服もあるのに、どこか満たされない。まるで幸福を埋める箱にぽっかり穴が空いているみたいだ。
「ナターシャ。私、…本当にこのままでいぃのかなぁ」
ほんの少しの隙に、零れた本音がいつの間にか漏れ出ていた。
でも、本当は誰かに聞きたかった。この質問の、本物の答えを。私一人だと絶対に見つけ出せないからこそ、誰かに頼るしかなかったのだ。
「…皇女様。今は時期が悪かっただけです。今から半年後に皇女様の社交界デビューを祝う皇室パーティーが開かれます。それに備えて準備をしましょう。社交界に進出して、人脈を作るのです。誰にも文句を言わせない程の力をご自身でつけて、陛下に認めてもらえば良いのです」
ナターシャの言葉は力強く、どこまでも心強かった。私に、もう一度立ち向かう勇気を与えてくれた。
「ありがとう…。ナターシャ」
「私はいつでも皇女様の味方ですから、心が弱まるときは仰ってください。しかし、他の誰にも弱さを見せてはなりません。皇女様が皇族としての威信を持つ以上、全ての頂点に君臨しなければならないのです」
心の弱さは、奥に隠して。皇族としてのプライドを持たなければ自分の名誉も、ひいては仕える者達の立場もままならない。それは君主論の持論だった。
私に足りなかったのは、ほんの少しの覚悟と誇り。自分をスラム出身の孤児と蔑んで私についてきてくれる人達まで不当な立場に晒した。
私の勝手な都合で、理不尽を受けたのは他でもない彼らだ。だから私にはそれを払拭する責任がある。
自分の為じゃなくてもいい。誰かのために、私を信じてついてきてくれる人のために、私は頑張ろう。たとえ実の父に愛されずとも、…私は、この皇宮で精一杯生きてみよう。
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【シルティナ視点】
あの日以降、オルカの姿をあまり見なくなった。その代わり帝国に使者として出向いていると連絡があったので相変わらず仕事の早いことだろう。
私は人として最低限守るべき線を超えた。そしてこれからも私は進んでいくのだろう。決して戻れぬ奈落へと身を落とした後、救いようのない結末を迎えるのだ。
なんて醜い生か。獣の方がよっぽど高潔な生を送っているというのに、やはり私は獣にも満たない畜生に相応しい。
なんて自虐を鎌していれば早速招待のない客が現れる。
「やっほー、シルちゃん。元気してる?」
相も変わらず堂々と部屋に入ってくるものだ。この神殿程警備が疎かな場所はないのだろう。
それにしても昼間にラクロスが来るのは珍しい。普段は深夜遅くに不躾に訪れるというのに、まさかオルカの行動を不審に思った野生の勘と言われればそれこそ馬鹿馬鹿しいな。
まぁ昼間と言っても雨がザーザーと五月蝿い音を立てて太陽を覆い隠しているのだから実質夜と大差ないけど…。
でもこうして、一時的に恐怖を逸脱した私がラクロスに会うのは初めてだ。いや、最も出会いの初めは恐怖など感じていなかったか。
怯える私を期待したラクロスの顔が少し変わる。何だろう。想定外の状況に喜喜として瞳を輝かせているのだ。
あぁ、本当に。期待を裏切らに屑達だ。きっと今ラクロスの頭の中には私の再凝結した意志をへし折ることしかないのだろう。
私は一瞬にして表情管理を止め、何も感じない『無』の表情へ移り変わる。能面よりも冷たく、機械よりも機械的に…。
「元気だよ。それとね、ラクロス。ちょっとこっちに来てくれる?」
「ん? なになに??」
好奇心で満たされた化け物が私の座るソファの横まで来る。素直ないい子、で終われたら良かったのに。
「床に座って」
「はい。それでこれは一体何の遊
バシンッ…!!
叩いた右手が急速に熱を帯びて痛みを訴える。叩いた方が痛いだなんて一体どういう体をしているのか聞きたい。
一方何の予告もなしに叩かれたラクロスはというと叩かれた方向に顔を向け瞬きすらせずに現実を受け入れられないでいる。
少し赤みを帯びた右頬がどれだけのダメージになっているかは分からないけど、私の右手よりかは痛くないはずだ。
そして呆然としたまま固まったラクロスの顔を強引に此方へ向ける。ラクロスは私の目をじっと見つめてはやっぱり瞬き一つしなかった。
「ねぇ、ラクロス。私ね、ずっと考えてたの。一体どうしたら言う事を聞かない駄犬を躾けられるんだろうって。でも考えれば簡単だったよね。貴方達が教えてくれたように力で教え込めばいいんだ。だから、これから言うことを聞かなかったら罰を与えようと思うの。ね、いい考えでしょ?」
腫れた右頬を撫でながら確実に叩き込む。何方が主人で、何方が犬なのか。主従関係を徹底的に教え込んだ後、飴と鞭で飼い慣らせばいい。
案の定ラクロスはすぐ媚びた犬のように右頬を私の手に擦り付け始めた。自分が楽しめればいいこの男は、新しい遊びを覚えた気でいるのだろう。
すぐにでも振り払ってやりたい気色悪さを押し殺して、頭ももう片方の手で撫でてやる。
「ラクロス、私の機嫌が良かったら沢山血も飲ませてあげるし、悪かったら貴方を鞭で打つわ。でも大丈夫。私は貴方を決して捨てないから。貴方はただ犬でいるだけでいいの」
「ん…。分かった。全部全部シルちゃんの言う通りにするよ。俺はお利口さんな犬だから」
前世で犬にしていたようにゴロゴロと可愛がってやれば手中にハマった手駒が完成する。ラクロスは全て自分の手の内で操るつもりだろうけど、そんな茶番は私が許さない。
貴方達の弱点。それは私を好き過ぎること。逆を言えば私を引き合いに出されれば無条件で従うしかないことになる。
今まで散々拒絶してきた私が優しく温かく受け入れれば玩具としての面白さを見出す前に恋慕と執着が織り混ざった依存に繋がるだろう。
だからこうして顔を耳まで朱色に染めながら恋に堕ちたような目で私を見るのだ。蕩けたような目で私を映すのだ。
知らぬ間に沼にハマって、それすら私という毒花に魅了されて気づかない。気づいても出ようとはしない。蟻地獄への片道切符である。
まぁ私も精神力ゴリゴリ削られてるけど、猛獣を飼いならすならそれなりの犠牲は必要だしね。こうしてその日は夕方まで可愛がってやって帰っていった。
血を吸われなかっただけ大きな前進だけど、その分あの駄犬は外で発散してくるだろう。そこまでの面倒も責任も見ないつもりだからどうでもいいけど…。
こうして人知れず心優しい聖女は死んだ。そもそもそんな存在は幻だったのだ。ずっとずっと誰かのために身を犠牲にしてきた少女を取り繕って【聖女】と呼称していただけに過ぎない。
「馬鹿なのは私も同じね…」
自虐染みた言葉が宙をかっきって音として反映する。そう。私も同じ。自分の欲望のために誰も彼もを利用する野蛮で低俗な【人間】。
もう誰を地獄に堕とそうが構わない。覚悟は当の昔に決めている。おじさんに害が及ばない限り、私は何にだってなってやろう。
たとえ悪魔だと蔑まれても、憎まれたとしても、…もう止められない。静寂の中流れた涙が頬を伝って、床へ染み込んだ。
こんな化け物になってしまった自分を哀れむのは、同じく化け物である自分にしかできないのだと知って…。
「…あと、一年」
無理矢理にでも戻した【原作】。果たしてそれに効果があったかなどもはやどうでもいい。後は結果さえついて来れば言う事無しなのだ。
だからそれまで、私は誰を犠牲にしようと【原作】を決行する。たとえ、私の精神が先に崩壊しようと狂った私が未来を繋いでくれるだろうから…。