狂った転生者
・ 【悪役令嬢】視点です。
頭が、真っ白になった。真上から鈍器でゴンッと頭を殴られたような衝撃とともに、一切表情を変えないルルに言いようのない恐怖を感じた。
今まで喋っていた人はこんな恐ろしい人間だっただろうか。私は一体どうやって、ルルと普通に喋っていたのだろう。今となってはそれすらも分からない程、かつてないほどに混乱していた。
「ルル…? 何の冗談を」
無意識に震えていた手をぎゅっと握って恐怖を押し殺す。まだ何かの冗談だという可能性も捨てきれない。
いや、きっと冗談なのだろう。じゃなきゃまだこうして、平然と笑っていられるわけがないはずだから…。
「死んで下さい、エディス。私に役割があるように、エディスにも果たすべき役割があるんです」
「待ってっ……、何を言って」
私の縋るような思いとは裏腹に、ルルは何の躊躇いもなく言葉を紡ぐ。先程まで和やかに談笑していたはずの室内の空気が重い。そう感じてるのは私だけかもしれないけど、今は冷や汗一つ伝う感覚が鋭い。
「大丈夫。だってここは現実じゃない。ゲームの世界なんだから」
こんな時ばかりは無邪気な子供のように笑うルルに、人ならざる悍ましさを感じる。まるで窘めるかのように諭すルルは、もはや私の思考では追いつかない境地にいた。
きっとルルは本気だ。狂ってるけど、冗談なんかじゃない。私には理解できないけど、ルルにとってはそれが『正解』なのだ。
…だけど、私だってただ好きに殺されるなんて絶対に嫌だ。いくらルルでも、敵になるというのなら許せないッ。
「嫌よ。私にとってここゲームの世界なんかじゃない。大切な人がいる大事な場所なの!」
「……そう。それじゃあ、死んで」
バチ、バチバチバチッ…‼‼!
笑って話していた時とは裏腹に、一気に氷点下まで冷めきったような声とともにルルの後ろに禍々しい魔法陣が展開される。
ゲームでは何度も見た光景だったけど、実際に見ると迫力が明らかに違う。何より私を殺すという絶対的意思の上で成り立っているからなのか、生存本能が最大級の警告音を鳴り響かせている。
こんなの、知らない。主要キャラでもここまでの魔法は扱えなかった。ヒロインだって、最終決戦で覚醒してやっと使えるレベルのはずだ。
だというのになんで、NPCに転生したはずのルルがこれだけの魔法を…ッ?!!!
溢れ出る幾つもの疑問が頭を占めると同時に、魔法陣から私への直接攻撃が放たれる。それはそのまま一直線に私の身体を貫いて絶命させる凶悪な魔法。
一瞬にして死を覚悟した私は身を固めて防御にもならぬ姿勢で身を守る。あぁ、こんなことになるなら早くミシェルに本当の気持ちを伝えておけば良かった…。
そう後悔してももう遅いことは分かってるけど、私は迫りくる不可避の攻撃を見てギュッと目を閉じてはそう思ってしまった。
ぽわんっ…
しかし覚悟していた激痛は数秒経っても訪れることはなく、力一杯に閉じた目を恐る恐る開くと球体の透明な膜のようなものが私の周りに張り巡らされていた。その膜がルルの魔法を打ち消し合っている。
一体何が起きたのか、理解できずにいるとふいに左の薬指につけられた指輪に気づいた。僅かだけど、この指輪から膜に向けて魔力ではない力が流れているのを感じる。
それを見て真っ先に思い出したのは他の誰でもない、…ミシェルだ。
『エディス嬢。これは私からの心少ない贈り物だ。何も言わず受け取ってくれ』
そう言って数ヶ月程前にミシェルから渡された指輪。すぐにあの日手に入れ損ねた聖遺物だと分かった。だとしてもこれは、代々大公家の秘宝だったはずだ。そんな大層なものをこう簡単に…。
『だけどこれは…』
『良いんだ。俺には必要のないものだし、エディスは魔力がない分身を守る術を一つでも持っておいた方がいい。それに位置が把握できている以上わざわざ大公家で囲う必要のない代物だしな』
そうは言っても、素直に受け取ることはできない。なにせ私はこの指輪のためだけに一回貴方に殺されかけてますからね?!
…なんてツッコミはともかく、その日のミシェルは変に真剣でいつものような軽い言葉もなくむず痒かったのだ。それに聖遺物と言ってもその形骸は指輪で、端から見れば丸きりプロポーズだ。
ふっと口角を上げたミシェルが妙に格好良くて、推しじゃない人間っぽさが感じられて恥ずかしくなったのを覚えている。
そんな経緯で一応肌見放さず身につけていたものが、ここに来て大活躍するとは夢にも思わなかたけど九死に一生を得たのは間違いない。
ルルだってこの展開は予想外だったのか初めて焦りの色を見せた。この隙をついて逃げられる。なんてそんな微かに持った希望は、次の瞬間には打ち砕かれる。
何を思ったのかルルはさらに火力を上げて魔法を連撃させたのだ。私に被害がないとはいえ、攻撃対象は私なわけで目の前に迫りくる魔法に腰を抜かして動けない。
動け、動けッとどんなに力を振り絞っても絶対的恐怖の前にはなんの効果も期待できなかった。部屋は滅茶苦茶に荒らされ、床や壁からは焼けた異臭が漂った。
魔法でこの膜の正体である結界が破れないことに気づいたのだろう。展開されていた魔法陣が次々に消えていき、その代わり別のナニかが純粋なエネルギー弾となって放たれた。
魔法とは異なり形容のない攻撃に心臓がはち切れそうな程の恐怖と戦っている。こんなにも【死】を身近に感じたのは初めてだった。いつ自分が死ぬか分からない状況に脳の処理が追いついていない。
「どうしてっ、どうしてこんなことを…‼」
叫んでも止まない攻撃の嵐に、私の声は一切届かなかった。たとえ聞こえていたとしても、ルルには意味がないのだろう。だからあんなにも冷めた瞳で、私を見下ろしている。
「あぁ…。運命ってやっぱり不思議ね。あの時何としてでも指輪を手に入れるべきだったかな。それとも、貴方を殺すべきだった?」
「…? 何を言って」
突然何かを喋り始めたルルに奇妙な違和感を覚えながらも、その直後に感じた大きな波動に結界が揺れるのを感じる。
「……何も。独り言よ。今は貴方のその指輪が守っているようだけど、許容値を超えれば流石に壊れるわよね?」
「きゃぁッ……‼!」
前の波動は予備動作だったのだろう。ルルの言葉が終わった瞬間に今までとは比べ物にならないほどの衝撃波に包まれる。
まるで先程までの壮絶な攻防が茶番とでも言いたげなほどの巨大な力だった。壁紙が無惨に剥がされていき、調度品も原型を留めていないほどに散らかされている。
もしこんな衝撃波を生身の人間が浴びたら即ミンチになるだろう。魔力のない私はただ結界が壊れないように祈ることしかできない。
ルルが言っていた言葉を思い出す。この聖遺物が壊れるか、ルルの魔力が途切れるかが勝敗の要なのだろう。
しかし問題は、通常訓練を受けた魔法使いでも最初の魔法陣数発で魔力切れを起こすのに、それを茶番だと更に強い魔法の連撃をかました相手に果たして魔力切れなんて存在するのだか。
チラッと攻撃の隙間から見えるルルの姿は到底魔力切れを起こすような動作が見られない。少し苦しそうに口を結んで汗をつたらせるだけで、まだ疲弊の顔はない。
だけど私の方は…。指輪の宝石部分が橙色から紅く染まっていくのを見て、確実にダメージが蓄積している事がわかる。このままじゃ先に限界を迎えるのは、…私だ。
ドガッ…!!!!!!
「「エディス……ッツツ?‼‼!」」
絶体絶命。【死】を悟った私の前に、降りた救いの手。それは扉を蹴り飛ばして姿を現した、お父様とミシェルだった。
「お父様っ、ミシェル‼!」
一気に安堵が押し寄せ涙が溢れる。もう大丈夫なのだと、死線からの逸脱を果たした心が咽び泣いたのだ。
二人は私の無事を確認してすぐルルへの攻撃へと移った。いくらルルが圧倒的な強さを誇っていたとしても、もう魔力は枯渇寸前のはずだ。
それに何よりお父様とミシェルは現役の魔法使いであり騎士。二人が全力で攻撃すれば例えルルとてこれ以上手は出せない!
予想通りルルは攻撃一方だった先程までとは打って変わり防御一方へと攻め込まれた。だけどあれは、何だろう。弱ったというよりかは、…自ら攻撃の手を緩めたような。
たった数分。されど数分の攻防だった。
お父様が火力でルルの隙を作り、不意打ちでミシェルが一閃を放つ。それが幾度となく繰り返され、魔力で剣筋を止めるルルも息が上がってきた。
このまま戦いを引き伸ばしても状況はルルの不利になる一方だろう。それが分かっていたお父様とミシェルは更に連撃を繰り出す。未だルルに一度も攻撃を当てられていないとしても、確かにルルを圧倒していた。
蹴破られて扉の残骸となった方向から増援の足音が聞こえてくる。おそらく公爵家の騎士団と魔法団だろう。
これで状況は完璧に逆転した。あとはルルを、捕らえるだけだ。
初めて出会えた同じ故郷を持つ少女。それがなぜ私を攻撃するに至ったのか、私は知らなくてはならない。ルルをああならしてしまった原因を、私は知る義務がある。
グッと手を握りしめて、ルルが捕らえられるその瞬間まで目を離さず見続ける。まだ怖い、けど目を逸らしたら駄目だと私の心が告げている。
ルルの防御が弱まり、一気に畳み掛けようとしたその一瞬。唐突に取り出したスクロール。それが簡易型移動用スクロールだと気づくのにそう時間はかからなかった。
あれ一つで屋敷が変える代物だ。孤児と名乗ったルルが手の届く代物じゃない。奥の手があることを知らぬうちに見過ごしていた。公爵家に単身で乗り込む人間が、逃走の用意をしていないはずもないのに…ッ。
「エディス。私は貴方を殺す。だけど、恨まないでね。きっとそれが正しいはずだから」
一体どうしたらそこまでの憎悪を貫けるのだろうか。悲しみや侘しさを捨てて徹底された殺意に心臓が凍った。次があれば、確実な【死】だけなのだろうと…。
「ふざけるな。お前は今俺が殺すッ」
転移する瞬間、ミシェルの振った剣筋がかすって頬に刻まれた。
初めて通った一撃は、ほんの少しの血を剣に染み込ませただけで狙うべき対象は圧倒言う間に姿を消してしまった。
お父様がすぐに探せと声を荒げたのが見える。だけど意識は朦朧として傍に寄ろうにも立ち上がれない。
ルルの最期の言葉は呪いのように私に巣食った。
ガクガクと震える私にすぐにミシェルが駆け寄ってきてくれたけど、グラリと世界が揺れてそのまま意識を失ってしまった。