誘惑の奥底に…
宵が回り神殿の誰もが寝静まり返った寝室で一人、崩れ落ちるように床に座り込んだ私は思いの外ガクガクと自身の手が震えていることに気づいた。
簡易型移動スクロールを連続で使用したことで魔力の消費とは関係なく体力の消耗が大きいからもあるが、主な要因は別だ。
初めて、明確とした自分の意志で人を殺そうとした。その事実を、今になって身体が拒絶しているのだ。
胃から込み上げる内容物が気持ち悪い。それを吐き出そうとしてもえずくだけで吐けないことが更に苦しい。
吐けない苦しみから涙が流れ出て、無様に床に這いつくばっている。人を殺したことはある。だけどそれは確かに善人じゃなかったし、私の意思でもなかった。
聖女として当然果たすべき役割。そう思えば苦でもなくて、思えば義務の一種だ。だから余計理解できない。ただ一人、人を殺すことがこんなにも自分にとって負荷となることだろうか…。
「ハッ…、死にたくないなんて当たり前じゃない。おかしいのは、…私の方よっ」
そう。おかしいのは私、壊れたのは私、間違っているのも、悪いのも、全部全部私だ。
死んだ方が楽と言うのは『おかしい』
死ねないなんて『壊れてる』
死んでほしいなんて『間違っている』
死なないなら殺すと言うのは『悪い』
分かってるよ…ッ!!!!!
だけどなんで、私ばかり責め立てるの? なんで、救ってなんてくれないくせに私を【悪】だと決めつけるの?
みんなみんな嫌いだッ! 死にたいのだからいいじゃないか。死ねないのだから死にたいのだ。生きたいと叫ぶのと何の代わりないことなのに…っ。
理解かろうともせず、救おうともせず、口な先だけで私を罵り立てる。
味方などいない私ただ一人を執拗に追い回し、その枠に押し込めようと引き摺るのだ。こんな世界…、狂ってる。
私にはこれ以上の選択肢はなかった。これ以外も、これ以下の選択肢も残されてはいなかった。私は私のやれる最大の行動を取ったはずだ。
そこに善悪はなくとも、私にとってはそれが全てだったのだ。だのに…ッ、
どうすれば良かった?
どうすれば最善だった?
どうすれば、この終わりない物語を止められる…?
答えはない。誰も教えてはくれない。正解はない。辿り着けはしない。果てしない旅路だけが待っている。あとは永遠に彷徨い跑き続けるだけ…。
頬に刻まれた一筋の傷は癒え、感じた痛みはなかったものにされた。完全な体に、不完全な精神。
自分の無力さだけが永遠と突きつけられるこの現状に、怖れを超越してもはやほとほと疲れきってしまったようだ。…もういい。もう、十分だ…。
ぷつんっ……ッ
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一つ、私の中で心の琴線が切れた。それは私がある上でとても大事な『何か』で、今では忘れ去られた存在だ。
等身大の鏡の前にひたりと対照的に並んだ私。どれを取っても綺麗だとは思わないこの身体に、下賎な欲を孕めば少しはマシに映るだろうか。
そんな考えをもとに一層おぞましさの増した私の身体を、まるで愛しむように撫でた手からさは寒気のする冷たさしか伝うことのない。
こんな身体、いつかは朽ち果てる不純な代物だ。使い捨てようが、打ち砕こうがどうとでもすればいい。所詮は紛い物。私のものじゃない。
少しの間鏡の中の自分と見つめ合っていれば、間の良いところで扉の開閉音がする。もはやノックすらない訪問に呆れより称賛の言葉を吐きたい。
「シルティナ…、そんな冷える格好で何をしてるの?」
嗜めるようなオルカの口調に、今の自分の格好に気づく。確かにネグリジェと言っても薄いキャミソールに近いし、それも少し着崩れて肌けている。
おかしなの。つい数日も経たない前まではオルカの声を聞くだけで馬鹿みたいに震えてたのに、今は自分の姿を確認して納得する余裕まである。
当の本人はいつもみたいに私が怯えず無反応なことに訝しげな表情を浮かべている。そんなオルカと私の視線が合わさったとき、私は自然と微笑んでいた。
「シル、…ティナ?」
まるで初恋に身を踊らせる少年のように頬を赤く染めらせたオルカの姿に、もはや以前のような恐怖を感じることはない。
私はゆっくりとオルカの方へと歩を進める。距離が一cm近づくごとにオルカの吐息が熱くなるのを感じた。本当に、単純な男…。
そっと赤みを帯びた頬へ触れれば、冷えた指先から熱が伝わる。皮肉なことに私よりも人間みたいだ。
身長差があるせいか目線は大きく異なるが、それでも身体は密着しとても聖職者同士の距離感ではない。
着込んでいると分からないが筋肉質でがたいのいい身体つきをしている。まさに女が理想とする肉体美だろう。それも私の前では無意味どころか嫌悪感の象徴でしかないが…。
ともかくこのままでは埒が明かないのでオルカの腕を掴んでベッドまで連れていく。もちろん必要最低限の接触しかしたくないので服の上から掴んでいる。
当然私の力だけでオルカを動かせるわけはないが、オルカは素直に私の行動に従った。その顔は困惑と喜色に満ち溢れ、それと同時に激しい期待が渦巻いていた。
…馬鹿ね。そんな風に私を見ても、貴方は何も手に入れられないわ。私がそれを許さないもの。
地獄に堕ちるのが私だけなんて、不公平でしょ? きっと神様も、これくらいの我が儘なら許してくれるはずだから…。
ベッドまで手を引いて、押し倒す。状況だけ見れば聖職者にあられもない姿で乗し掛かる私こそ淫売に映るだろう。
服のボタンを一個ずつ外していき、はだけた肌に手を添わせる。その間私はずっと微笑んでいる。蠱惑的に、それでいて純真に…。
オルカの手が行き場を失ったように私に触れる寸前で狼狽えたいるのが可笑しくて堪らない。これじゃあ本当に私が襲ってるみたいじゃないか。
「ねぇ、オルカ…。…私が欲しい?」
乱れた髪が顔にかかって視界を少しだけ遮る。そのお陰でこんな最悪の言葉も躊躇なく吐き捨てられる。
「…ッ、…頷いたらくれるの?」
腹の奥底の欲望を押さえ込むような顔で、何を言っているのだろうか。今まで散々に思い通りにしてきたくせに…。
「うん。いいよ…。私をあげる」
嘘つきは地獄に落ちればいい。そんなことを思っている口で私は嘘を重ねた。私の目はオルカが映っているのに、本当の意味では何も映していない。
頭の中は空になって、どことなく心地よいイザナミに揺られている不思議な感覚で私は静かに理性を失っていた。
「…本当に? もし嘘だったらもう二度と嘘が吐けないようにその舌を切るよ?」
自らが望んだ癖に疑う。その滑稽さが腹立たしくて、逆に安堵のようなものすら感じる。
私達は不完全だ。純粋を望めば望むほど、裏切りが返ってくる。私が願ったときも、オルカが信じたときも同様、決して交わることはない。
「その代わり、一つ条件があるの…」
「いいよ…。僕が許容できる範囲で全部叶えてあげる」
わざわざ修飾されたところ悪いけど、立場が絶対的な今オルカは私に敵わない。結局色恋など惚れた方が負けなのだから…。
「本当? それじゃあ…、第一皇女を誘惑してきて」
「…シルティナ、何を言って」
「だって、今まで私の愛を信じてくれなかったのはオルカでしょ? どれだけ愛してると言っても信じてくれなかったのに…、まだ不安なの。私がいくら愛してると言ってもオルカは信じてくれないんじゃないかって…」
私が塞ぎこむ様に言葉を後ずさるとオルカは面白いくらいに反応した。最低なことばかりしてきたくせに、今さら純心を語るだなんて思わず笑いが込み上げてきそうだった。
だけどそんな気持ちすら呑み込んで舞台上での演技を続ける。そこに『私』の気持ちなど必要ない。
「だから、オルカが第一皇女を誘惑して私のこの気持ちを分かって欲しい。本当に愛している相手じゃなきゃこんなことしないって…。それができないなら私もオルカを愛するのをやめる。だって私ばかりでオルカはちっとも私のこと愛してくれないじゃない」
ふんっ、とそっぽ向くと間抜けなオルカはこれ以上私を害するような意思がなくなった。こんな安っぽい演技に騙されるだなんて、貴方って随分軽い男ね。
「…なんで第一皇女なの?」
「う〜ん…、さぁ? 有り体に言えば、彼女とても美しいって聞くの…。皇族の証である黄金の髪に緑陰の瞳を持ってそれはもう絶世の美貌なんだって噂。そんな彼女を相手にオルカが惚れなかったら私のこと見た目だけで愛してくれている訳じゃないって分かるでしょ?」
「そんなことしても無駄だよ。僕がシルティナを愛しているのは見た目が好きだからじゃない。もちろんシルティナの容姿はこの世の何よりも勝る美貌だけど、人間なんて基本皮と骨で成り立っているんだから…」
「それを証明するためじゃない。あとは権力や地位が私より上だから、彼女より劣っている私を愛している確信が欲しい。それとも、皇女を愛さない自信がない?」
「シルティナ、…怒るよ」
「冗談だってば。だけど、その反応をみる限り私もまだ安心できないや。ねぇ、お願い。貴方の可愛い女のおねだり、聞いてくれるわよね?」
「…いつの間にそんな誘い方覚えたの?」
「う~ん…、オルカから? 全部、全部。オルカが望んだ通りでしょ?」
そう。貴方が全て望んだの。こんな悍ましい私を作ったの。
だからほら、とぼけた振りなんてやめて。その全てを満たした純粋の顔のまま…、地獄に堕ちて。




