吐いた弱音
太陽の光を遮断した部屋。熱い吐息を漏らす獣が、罠に掛かった獲物に牙を伸ばす。痛みは痛みで塗り替えられ、恐怖は恐怖で作り替えられる。
此処にあるものは【愛】じゃない。執着、嫉妬、強欲、嗜虐心、所有欲、独占欲、支配欲…。
とても常人には理解の追いつかない、範疇を超えたものばかりだ。
三日もの時間を掛けて熟成させた『それ』は、獣達に喰い荒らされた憐れな残骸となった。
思考を放棄し、命令に従順で、決して逆らうことのない可愛い可愛いお人形。
私の意志など必要としていない。彼らは自由気ままに遊べる手軽な玩具が欲しいだけ。
三日目の夜…。ようやく私の身体を貫いていた鉄くずを抜いてくれたけど、既に細胞が密着している状態で痛みのあまり声も出せずに叫んだ。内側から引き剥がされる感覚が、今になっても忘れられない。
最後の鉄くずが抜かれたと同時に私は意識を落とし、目が覚めたときには全てが元に戻っていた。
夢だと思えたら、それ以上のことはないだろう。だけどあの三日間の記憶が私の脳裏に焼き付いて、夢だと錯覚さえさせてくれない。
いっそ全ての記憶を失くせたのなら、まだマシだったのかもしれない。この世には暴力というものが力だけでないことを知った。
殴るだけなら、蹴るだけなら誰だってできる。だけど…、【アレ】はもう人間のする所業ではない。
…人間が怖い。私を傷つける全てが怖ろしい。誰も信じられないから、私はずっと独りだ。
あの空間から解放された日、私は動く気力も出ずに仕事を放棄した。分かってる。こんなものじゃ何の解決策にもならない。もっと状況を悪化させるだけだと。
ただ、今だけは…。今このときだけは、休みが欲しかった。ただでさえ回数の少ない食事を拒否し、神官が何を話しかけても反応を返さなかったことで噂はすぐに広まった。
長蛇の列に並んでいた信者も、気遣えるだけの余力が今の私にはない。たとえ何ヶ月と待ち望んだ日だったとしても、今は無理なのだ。
ソファに座り、何をするでもなく時間を過ごす。本当に、【原作】を迎えられるのだろうか。それを考えれば底の見えない不安に駆られるだけだ。
私がやるべきなのは、自分の役割を全うすること。…そうすれば、きっと神様は私を許してくれる。きっと…。
「聖女様…、大丈夫ですか?」
誰だろう。神官は皆下がらせていたはずなのに…。その答えは彼が視界に入ったことですぐ分かった。少し身長が高くなり見違えたが、紛れもなくノースだ。
心配そうに私の下まで来て片膝をつく。私は意識が切り放たれたように全く違う視点からそれを見ていた。
いつものように優しくはできない。したくても、身体が思うように動いてくれない。
「…聖女様。何処か痛いですか?」
痛いのか…? 痛いに決まってる。ずっと、ずっと私は痛かった。
ポロポロと瞬きもしないまま、涙が流れる。ノースはそんな私に慌てるでもなく、そっと涙を拭う。
ねぇ、ノース。私頑張ったの。ちゃんと耐えたの。守ったの。だけど、…誰も私を助けてはくれないのっ。痛いよ。苦しいよ。もう終わりにしたい…。
気づけば私は両腕を少し広げて、ノースに抱きしめられるのを望んでいた。望んだ通りノースが抱きしめると、その温かい体温で心が満たされていく。
満たされていくと同時に、空いた穴から流れ落ちていく【愛】はきっと無限に注がなければいつか枯れ果ててしまうだろう。
人間を怖れると同時に、誰かに依存することも私にとっては恐怖の対象だ。大切なものは一つでいい。一つでなければ到底私の手では守りきれない。
その【一つ】は既に私の中で決めている。【一つ】のためならば私の命、血、魂、全て捧げることも厭わない。
だから、こんな私に疑うことなく【愛】を注いでくれるノースに私は引け目を感じている。駄目だと分かっていても、甘えてしまう自分の惰性が憎い。
できる限り幸せにしてあげたい。せめて、人間らしい死に方だけでもしてほしい。
その為にも、私はまだ生き続けなければならない。どれだけ醜くても、惨めでも…。生きなければならない。