閑話 執着は実を生らして
※ 【イアニス】視点です。
特に意味を見出すほどの人生ではなかったが、こうして簡単に死んでいしまうと今まで生きてきた全てがひたすらに無駄に思えた。
ヵヒュー…、カヒュー…
掠れた呼吸音が鬱陶しい。一面真っ白面の景色で、聞こえるのが自分の最後の死に音だけとはなんとも虚しく感じる。
睫毛に凍った雪をそのままに、死ぬまでのカウントダウンでも刻んでいた。そんなくだらない遊びが終わりを告げたのは、そのすぐ後だった。
…ポフッ、ポフッ
雪が中途半端に踏まれる足音が鼓膜に伝達される。まだ齢五歳にも満たない子供であることは察しがついたが、そんな人里まで降りていたことに驚く。
此処で保護されこれからも煩わしく生きるのだろうか。それぐらいなら此処でくたばった方がまだ救いようがあると思った。
ここでガキが煩く騒ぐならその息の根を止める。その思考で腰に直していた短剣を手に馴染ませる。霜焼けで感覚はほとんどないが、それでも握った感触さえあれば十分だ。
足音はすぐ近くまできている。体感ではもう俺の姿が視界にある位置だろうに、依然として足音はそのリズムを崩さない。
さらに止まることもなく、真っ直ぐ俺の方へ向かっているのだから違和感が走る。
そして遂に、足音は俺の目前で消えた。死に際と言うのは、どんな理性的な人間もイカれてしまうのだろう。
俺は純粋にこれまで生きてきた中で最もその足音の正体に興味が湧いていた。 だからもうすぐで固まりそうだった瞼を押し開けて【それ】の姿を一目でも視界に映そうとし、…失敗した。
【天使】とかいう脳みそが壊滅したワードが頭を満たす。ふわふわの幼児特有の肌。寒さで少し赤く色づいた頬。最高級のシルクでも表現しきれない純白の髪色。
全体的に幼さを残しているというのに、黄金色の瞳は森羅万象を(しんらばんしょう)知るがの如く酷く冷たい。
軽視とも侮蔑とも違う人間とは一線を画したその視線は、まるで穢してはならない、…神性さを帯びた【天使】。
ドクンっ…ツ!!!
弱まっていた鼓動が音を立てて高鳴る。ドクドクと五月蝿いぐらいに鼓動が聞こえて、熱を含んだ吐息が宙に吐き出た。
もっと見ていたい。この天使を俺以外の目に映したくない。誰にも触れさせたくない。
突発的に湧き出た狂気じみた執着と嫉妬で頭がおかしくなりそうだ…。
「………、まだシんでないよね…?」
ちょこんと俺のすぐ目の先にかがんで言った言葉は、決して心配して出たものじゃない。
面倒な拾い物をしたとでも言わんばかりの、俺如きをその視界にすらいれていない物言いであった。
天使の言葉は、俺の身体に激情をもたらした。雪山の寒ささえ気にならないほどの熱が俺を満たす。
こんなにも俺は恋焦がれているというのに、当の本人はまるで興味の一欠片でさえ持ってくれない。俺をそこらの雑多と同等に扱い、そこに上も下もない。
誰かに怒りを覚えるのは、必ずしもそこに何らかの情がなけれならない。だから俺は一度もそんな感情を抱いたことがなかった。
誰に対しても情を覚えることがなかったのだから、当たり前といえば当たり前だ。
一時期はそんな無駄な感情に踊らされる人間を哀れんでさえいた。されど今、内側から焼け焦げそうな怒りで燃えているのは自身なのだから笑えない。
天使は本質的に何も映さないその瞳で俺を捉え、手を翳す。どうしてか今の今まで忘れ去られた痛みの感触が引いていくのが分かる。
それと同時に気張っていた意識が緩みその隙をついて鈍器で殴られたような眠気が襲う。
爪が手に喰い込んででも意識を保とうとしたが、天使が唯一俺に触れた瞬間に意識は崩れ落ちた。
最後まで一度も微笑むことのなかった天使を、どうしてこうも愛しく思うのか。
次に診療宿で目を覚ましたときにはその姿を消していた天使を、どうしてもこうも憎く思うのか。
きっとあの天使は俺のことなど疾うに忘れているのだろう。
想像しただけで発狂したいほどの憎悪に燃える。何度も、何度も何度も何度も壁に腕を叩きつけて血の跡が滲んだ。
自分の弱さに吐き気がする。弱いから逃げられた。あんな雑魚に手間取りさえしなければ、あの状況で天使を手中に収められるだけの力が、金が、権力があれば…ッ。
タラレバを語れば後がないが、そうでもしなければこの怒りは収まりようがなかった。
その後のことはあまり覚えていない。ただひたすらに強さを追い求めて何度か死地に立ち、その過程で魔石の覚醒を果たしたことで戦場でも無名の傭兵として前線に出て功績を立てることができた。
さらに『ある一件』を期に皇帝への直訴で養子として皇宮入りし、徐々に派閥を築いた。
前皇妃の息子である第二皇子ウィルスは正当な血筋を引くというだけで大した脅威にはならず、確実に力をつけている。
未だあの瞬間が永遠とも取れるほど脳裏に刻まれている。あの頃に望んだ力、金、権力、十分な程に揃えた。首脳会談が開かれるこの期間、今日も今日とて愛しい天使のもとへ下る。
やはりと言うべきか、清々しいほどに俺という存在を記憶から抹消していた愛しくてどこまでも憎ましい【天使】。
今は聖女として微笑みを絶やさない彼女の本質を、俺だけが知っている。
あの無機質で、無慈悲で、非情な【天使】を…。