ちゃんと守るから
ギィイイ……ィ
錆びた鉄同士が擦れる耳障りな音が響いた後、足音の主の正体が露となる。私は誰であろうと構わなかったけど、その第一声を聞いてバッと顔を振り上げた。
「随分愉しいことをしてるんですね。聖女様」
「な、んで……。あなたが…」
少し長いブロンドの髪を肩辺りでゆるく結んで、私の前ではずっと変わらない笑みを向けるこの男は…。
「…ご覧の通り取り込み中なのですが、お帰り願えますか。イアニス皇子」
鉄くずで貫かれ膝をついた私の真横に立つオルカが思いの外丁寧な口調でイアニスに対応する。
一見冷静に見えていても、私の頭に置かれた手がその独占欲を物語っている。
「それはそれは…。ですが、今日は聖女様に用件があって来たので宜しいですか?」
……私にどんな用件があればこんな死地に飛び込めるのか。馬鹿馬鹿しいと思いながら私は彼の用件を聞いたところで返事すら許されないことを承諾して問う。
「このような形でのご挨拶となって申し訳ございません。それで、どういったご用件でしょうか。イアニス皇子」
機械的な口上が空気を振動させる。私は無理やり顔を上げた状態で、息苦しいから早くこんな茶番を終わらせようと大して期待もしていない彼の答えを待った。
だけど返ってきた彼の言葉は私の期待以上、いや最低を下回るもので、何より私の急所を突くようなものだった。
「聖女様。『あの御方』とはあの雪山以来随分疎遠になっておられるようですが、安否をご確認したくありませんか?」
ぶわりッ……つ!!!
色彩を掴めない神力が暴発的に放出される。制御不能の力は私の身体を燃やす勢いで飽和し合っている。濃密な神力に耐えきれなかったのはオルカの神術で保たれていたこの部屋だ。
今すぐにでもこの男を殺してしまいたい衝動に駆られ、それと共振するように空砲のエネルギー弾がイアニスへと放たれる。
しかし不可避の攻撃も、楽々と防御魔術によって打ち消されていた。
爆発的な神力はたった一度の攻撃とともに即刻オルカによって抑え込まれ、私は急速に頭が冷え込んでいく感覚に思いの外スッキリしている。濃霧に侵されていた私の頭の中が、解き放たれたみたいだ。
…溢れんばかりの笑顔からは到底理解できない問いだった。鎌かけなんかじゃない。だってハッキリと、【私達】しか知るはずのない『雪山』と言ったのだから。
イアニスが本気で私を心配してこんな問いをしたなんて欠片も思ってない。そんな思いがあるならこんな場所で言ってないだろう。
わざわざオルカもラクロスもいる【今】言ったこの男の性根の悪さが透けて見える。イアニスは、彼らと【同類】だ。
瞬く間に【憤怒】が身体を燃やした。熱くて、熱くて息も絶え絶えしいほどの、【憤怒】。
私にまだこんな感情が残っていたことに驚く暇さえなく、私はこの激情の吐き出し方が分からずに悶えた。
私がこれまで『私』だった理由。この地獄を耐え抜いてきた私の『全て』。それを奪われることだけは、何があっても許せない。たとえそれが誰であっても、絶対に…。
「ゃめ、て…。おじさんに手を出したら、わたしはっ…あなたを殺すから」
オルカに押さえつけられながら、ボタボタと涙を地べたに溢す。もう気力もないのか瞳孔は開いて、高鳴る鼓動が血流を促進する。
私は『殺す』という言葉が嫌いだ。この世界ではあまりにも身近なもので、言葉は形になるから。
だから私が誰かを傷つける言葉を吐いたのを初めて見たであろうオルカとラクロスは、固まった。たとえどれだけ私を弄ぼうと私からその言葉を吐かれたことがない二人は、瞬間的に怒気を発する。
いつもなら二人の顔色を伺って恐怖する私が、もはやイアニスにしか思考は働かず異様な空間が広がっていた。
「それなら、俺にも貴方をください。流石に独り占めは貴殿方が許さないでしょうし、貴方を所有する権利を頂ければ貴方の【宝物】には傷一つつけないとお約束します」
「…ゎかった。私をあげるから…、おじさんには何もしないで…っ」
思案するよりも先に口から言葉が出ていた。二人でも器は限界なのに、これ以上無理をしたら壊れるのは分かりきっていた。それでも、私にはあの人を見捨てるという選択肢は不思議なほど存在しなかったのだ。
あれから八年という歳月が経った今でも、私の心にずっと残っている。大切な記憶…。
「『あの御方』の居場所は聞かないんですか?」
楽しくて仕方ないといった顔で聞かれたその問いに、私はハッキリと答えることができた。
「生きているのなら、…それ以上のことはないもの」
生きてさえいれば、おじさんのことだからきっと大丈夫だ。たとえどれだけ図太くても生きてさえいてくれればいい。ただそれだけで、私は救われる。
「…羨ましいですね。貴方にそれほどまで想われる『あの御方』は」
その言葉は紛れもなく本心なのだろうが何処か影を帯びた物言いに心の琴線に引っかかりを覚えた。
おじさんの所在はわからない。探すにも危険が大きかったし、何より私は弱いから、きっと希望を見出した先に逃げてしまう。
だから、今私がおじさんを直接守る術はない。おじさんは私なんかよりずっとずっと強いけど、一国の皇子の権力にはどうにも抗えないだろう。
結局為す術なく、この結末の命運を握るのはイアニスとなる。それを分かって言っているのなら…、私は憤怒を超えて急激に頭が冷やされていった。
「もう一度言うわ…。おじさんに手を出したら、私は貴方を殺す。脅しじゃない。たとえ四肢が引き裂かれて首だけになっても、噛み殺してあげる」
「それは光栄ですね。どうか、最期はちゃんと殺してください。最初に生かしたのは、他の誰でもないシルティナなんだから」
敬称が外れて今まで最低限あった配慮も何処かに捨てたのか皇族としての品位の一つなく私と同じ目線まで腰を下ろし顎を強引に掴まれる。
なんで皆顎を掴むのだろうか。やはり顔を固定できる利便性だろうか。
そんなどうでも良いことを考えつつ、ようやく欲しいものを手に入れた子どものようにはにかむイアニスと目を合わせ嫌な現実には聞こえない振りをした。
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イアニスは私をジッと見つめたまま視線を外さず、私はそれに負けずと目線を合わせていた。彼の瞳に映るのは、熱望、狂嬉、切愛、そして、…憎悪。
感情が複合多され綺麗に纏まっていることが逆に気持ち悪い。本当は今すぐにでも目を逸らしたいけど、ここで引くのも今更だ。
「イアニス殿下。私どもにも理解できるよう、ご説明願えますか」
私達二人の奇妙な戦いはオルカの声で勝敗のないまま閉ざされた。ふとオルカに目をやると、これ以上にないぐらい輝かしい笑顔を向けていた。
これは、酷く機嫌を損ねたときに見せる笑顔だ。口角は違和感なく上げられているものの、目が死んでいる。
オルカの表情管理は徹底されてるけど、実際は結構単純な見分けだ。
鼻歌を歌っていれば酷く機嫌が良い。
無口無表情は結構機嫌が悪い。
底知れなく笑顔のときは、…一番機嫌が悪い。
私を名残惜しそうに見つめた後、諦めてイアニスは素直にオルカと顔を合わす。
ようやくあの気持ち悪い視線から解放された、と思ったのも束の間…。オルカとイアニスが少し席を離したことで意識を緩めたのが馬鹿だった。
獣は常に、…獲物を捕食しようとその牙を磨いている。
「いただきま〜す♪」
長時間強張らせていた身体は一瞬でも緩めたせいで難なく獣の牙が入り込む。
侵入を許した後で反応しようものなら、その牙の存在を思い知らされ抵抗するなと言わんばかりに食い荒らされるだけだ。
「イギっ、⁉! ぃ゛ツ、ァあ゛アァあ゛つッ?!!」
一ヶ月以上もの間を開けた吸血行為は、いくら長年培った経験があろうと到底気力だけで耐えきれるものではなかった。
生理的な涙は止まることを知らず、私は獣から逃れようと必死に身体を暴れさせる。その生存行動は獣の癪に触ったのか、牙を突き立てた反対側の首筋にグッと指をはえぞらせる。
結果的に両方から抑え込まれる形で逃げ場を無くし、響き続ける絶叫だけが獣の食指を唆らせるデザートに添えられる。
一切の遠慮なく人の血を奪っていくこの獣に、反抗できる術はない。今回は抜き取られた血が多過ぎたのか手先が急激に冷えてきた。脳に送られるはずの血も奪われ、酸欠状態に陥る。
「ゃ、…めっ……。ラ、、ㇰ…」
舌がちゃんと回っているかも怪しい。でも今はただひたすらに牙を抜いてほしい一心で懇願する。この状態でさらに吸われたら確実に出血過多で一月は昏睡状態に陥ってしまう。
いつか幼い頃、何ヶ月かラクロスが姿を表さなかったときにその反動で三日間昏睡する程血を抜き取られたことがある。
本当はあまりにも血を抜かれすぎたせいで死に至るようだが、私の神力の高さからその前の段階で自動的にセーブが聞くのだと後からラクロスに聞かされた。
死ぬのだったらまだ良い。だけど昏睡状態に陥るのだは駄目だ。その間にオルカが神殿内部に手を回さないとも限らない。
万が一私を死んだことにでもして存在を抹消されたらもう【原作】には戻れない。私が毎日休むことなく仕事をしているのだって、『私』という存在が簡単に消されないようにするため。
だけど私の嘆願に耳を貸すことなく、久しぶりの食事に悦に浸るラクロスをこれ以上どうすることもできずゆっくりと瞼が重くのしかかってくる。
だめ…、駄目なのに……。
グラリと視界が揺れた先で、奥まで差し込まれていた牙が唐突に抜けた。その衝撃でさらに痛みは襲うが、そのお陰で意識は少し元に戻せた。
「…おい。お前、俺の食事を邪魔したな」
「お前が勝手に突っ走るからだ。シルティナの身が持たなくなるだろう」
いきなり口調が変わるものだから、一瞬オルカとの見分けがつかなかったがふと見えたプラチナブロンドの髪が間違えだと教える。とにかく助けてくれた、…のだろうか。
大事な食事の時間を邪魔されたラクロスはイアニスに掴みかかったが、その腕は掴まれ力は拮抗している。
その間に私はラクロスが牙を立てた名残の痕を治す。出血源が塞がれたことで少し身体の重みが軽減した。
ラクロスとイアニスは目に見えて対立し、オルカはというとその様子を眺めるだけで我関せずの態度。
上手く行けば仲違いでこの三人の関係が悪化してくれるかもしれない。そんな淡い期待を持ってしまった私に、畳み掛けたのは他でもないイアニスだ。
「ん゛ぇ…っ⁉! がっ、んぐぅつ…‼!!」
口に二本の指を突っ込まれ、喉奥を撫でられる。瞬きをする前までそんな素振りを一切見せなかったはずなのに、今は仄かな暗い瞳に確かな嗜虐心を持ってこんな卑劣な行為を行っている。
逃れようにも更にえずくだけでどうにもならない。口の中に異物があるというだけでも気持ち悪いのに、今や全身串刺しにされた感覚だ。
私の小さな口ではたった二本であろうと隙間なく埋まってしまう。空いた先から涎が垂れ流され、息は鼻から吐き出すため到底人に見せられない酷い顔になっている。
「え゛っ、…げほッ、げほッ゛‼! う゛ぇツ…」
指が抜かれたのはそれから数分後のこと。ズルリと唾液を絡めて持っていかれたそれは、まるで鼻に水が入ったようなあの痛みにも似た感覚を引き起こした。
身体を鉄くずで固定されているために横になることも、口を覆うことも叶わず余計苦しい。
涙と、涎と、鼻水でグシャグシャになってしまった顔を獣達は食べ頃だと言わんばかりに、喉を鳴らした。