二人確かに…
冷えきった身体をのそりと起こし、水を含んで重くなったタオルを浴槽の縁に掛けて新しいタオルで体を拭く。
まだ若干の水分をしたらせたまま、私は等身大の鏡に向かった。大きなバスタオルにくるまれて不恰好な自分の姿が醜く映える。無駄に煌めいた私の『色』が涙の跡を掻き消している。
そっと鏡に手を移せば冷えた体には馴染みがいい。女性が憧れる体型と言えば聞こえはいいが、要は『不健康』な健全なのだ。透かした体から見えるのは骨ばかり。服を着れば美しく、脱げばおぞましい私の身体。
嫌気が差す…。こんな身体今すぐ脱ぎ捨ててしまえば、私は楽になれるというのに。私はこの身体がある限り、伴に互いを縛られ続ける運命だとと思い知らされる。
望んで手に入れた訳じゃない。気づいたら手にあったのだ。捨てたくても、それを許してくれなかったのはこの世界じゃないか。
最初は死にたいなんて考えてなかった。どこか遠い田舎で静かに暮らしていけたらなんて、夢を抱いていたこともある。
だけどあまり時が経たない内にそれを『救われたい(死にたい)』に変えたのはこの世界だ。私を磨耗させ、苦しめたのはこの世界だ。私じゃない…。
どうしようもなかった。抗う術さえ教えてくれなかった。この世界はどこまでも私を弄んで嘲笑った。
月明かりを覆い隠す宵に呑まれ、もういっそ全て消してしまえれば…、そんな思考が頭をよぎる。だけどそれと同時に浮かぶおじさんの存在に、どうしてもそれを踏み切ることができない。
私が『私』を守るために作った存在に、守られているのか縛られているのか、今となってはもう分からない。
おじさんがいるから今の私があって、おじさんがいたから私は死ねずにこんな地獄を生きている。どこまでも愛おしくて憎ましい…、私の大切な人。この世界で貴方の息吹きだけが私の生きる理由だから、お願いだから生きていてください…。
渇いた瞳からまた一筋の涙が床に染み込んだ。ポタリ、ポタリと水滴を落としながら浴槽近くに用意してある着替えまで手を伸ばす。
身体の芯から凍えるような冷たさは多少緩和され、そのままソファに腰を着いた。ボーッと意識を浮遊させ、もう誰も信用できないことを改めて噛み締める。
いや、そもそも最初からそんなものはなかった…、はずだ。いつから私はそんな当たり前のことを忘れていたんだろう。
神殿の人間は特に、その傾向が強かった。名ばかりの『聖女』に尽くすより、実績のあるオルカに盲信するのだ。人心掌握に長けているからこそ成せる技であり、私にその才はなかった。
私の護衛騎士はここ数年と変化はなく、全員同じ顔ぶれで馴染みも深い。と言っても彼方があまりにも凝視してくるため嫌でも顔を覚えさせられるのだ。
別に彼らを味方だと勝手に思い込んでいたわけでもないが…、やはり心の奥どこかで失笑しているのは少なくとも情の一つでも残してやくれなかったことへの何かしらに対する思いだろう。
ため息を溢す余力さえない。…私に残されたもの。此処にあるもの。あぁ、そういえばあの子がいた。私が今日連れ帰ったあの子。あの子なら、…まだ奪われてない。
チリンチリン…
机に置いてあるベルを鳴らす。それに合わせて現れる神官達に、私は今どんな目で見つめているのだろうか。せめて、少しでもこの完璧な仮面からヒビ割れて出たものがあればいいのに…。そう思いつつも『聖女』を必死に取り繕う私に、途方もない矛盾を感じる。
「御呼びでしょうか、聖女様」
「…今日保護した子を此処に呼んでください」
「畏まりました」
一子乱れぬ動きに人間味は感じさせない。あの男の駒と言うには納得しかない身のこなしだった。
気を利かせた一人の神官が温かいミルクティーを注ぐ。だけど私はそれに一切手をつけることなく、これから訪れる客人を待った。
ガチャ…
ものの十分も経たない内に連れてこられたあの子は、随分と見違えて綺麗に整えられていた。部屋に入るときは緊張か僅かに震えていたらしいその姿は私を確認すると消えていた。
「せいじょ様っ」
まだ栄養が不足した未発達の体で一生懸命此方に向かって走ってくるその様はなんとも言えない感情を私に残した。程なくして私のすぐ傍まで到着した彼はキラキラとした瞳で私を映している。
「貴方の元気な姿が見れて嬉しいわ。…貴方達はもう下がってください。今日はもうお休みいただいて結構です」
「しかしこの子どもは…」
彼と表面上だけでも二人だけの話がしたいので神官達を下がらせようとしたが彼らもこの子のことで扱いを考え抜いている。
「彼はもう少し私との談話がありますので。どうぞ、早くお下がりに」
「失礼致しました」
少し強めの口調で言うとそれ以上は何も言わず退室していった神官達にそわそわとする彼。私は用意されていた焼き菓子やミルクティーを彼の前に差し出した。
「好きなだけ食べていいわ。神力で外傷は治したでしょうけど、栄養不足は変わらないのだから沢山食べないと」
「あ、ありがとうございますっ」
私が急かすとパクパクと口に頬張る彼。両手にそれぞれ茶菓子を持って必死に詰め込んでいる姿に苦笑してしまった。
「…ンッ?!、ゴホッ、ゴホッ…ッ!」
「あぁ、ほら。そんなに慌てなくても大丈夫よ」
喉に詰まって咳き込んでしまった彼にミルクティーを飲ませて落ち着かせる。みっともない姿を見せてしまったとショボンと項垂れる彼がまたなんとも可愛い。
「ごめんなさい、せいじょ様…」
「謝ることなんて何にもないわ。貴女はこれから好きなものを好きなだけ食べていいのよ。焼き菓子は気に入ったかしら?」
「はいっ! すごく美味しいですっ」
「それは良かったわ。それと、今さらだけど貴方の名前を聞いてもいいかしら?」
「ノースです。由来はいんちょう先生が北のみちばたで捨てられていたからだって言ってました」
「…ノース。今まで頑張ったのね。貴方はとても偉い子よ」
優しく抱擁してノースの頭を撫でる。誰かに褒めてもらうことなど、通常の孤児にはあまり経験がなく、小さな子程憧れを抱いていた。
ノースはそんな子達をまとめる立場にいたからこそそれを常日頃からやってきたのだろうけど、どうも自分がされたことはなかったようだ。最初はなんの反応もなかったノースだったが、次第に鼻声混じりの嗚咽が聞こえてきた。
「ぅ゛っう゛…、ぅう゛ぅううっ゛」
まだ六歳という年で、声を上げて泣くことさえ出来ずその胸の内を服を掴む手で表現するノースがどうしても自分と重なる。
大人の顔色を伺ってばかり。自分を押し殺して押し殺して、歪んだ形のまま成長してしまった不完全な私達だ。
一通り落ち着いてからハンカチでノースの顔を拭う。目元を真っ赤に腫らして、まるでついさっきの私みたいだ。
思い切り泣いたからかうとうとと眠そうなノースの手を引いて一緒にベッドに上がった。いつもは酷く物寂しいと感じていた大きなベッドも他人の体温があるだけでまるで変わることを知った。
「寒くない?」
「はい。とてもあたたかいです。それにせいじょ様が手をにぎってくださりますから」
「…ノース。私が貴方を守れる範囲で貴方を幸せにすると誓うわ。此処はきっとあの孤児院より幸せになれる場所よ。だけど、…忘れないで。神殿が安全という保証はどこにもないわ。たとえどれだけ優しくされようと、本当の意味では絶対に誰にも心を許しては駄目よ。此処は、恐ろしい怪物が住み着く巣窟だから…」
とても幸せそうにはにかむノースの頬に手を添え、私は誓いの言葉を紡いだ。それと同時に吐露した警告にノースは素直に承諾する。
「わかりました。そしたらぼくはきっと強くなってせいじょ様をお守りしますね」
無邪気な笑顔と共に出された子どもの口約束、されどその言葉がどれほど私の心を満たしたのか、まだ彼は知らなくていいだろう。
そうして私達は初めて孤独でない夜を、誰かに怯えずに眠る夜を越した。二人確かに、強く手を握って…。




