私の【原罪】
馬車が神殿に着くと同時に目が覚める。体内時計は相変わらず健在でなによりだが生憎長時間座った姿勢のままの睡眠は身体の至るところで痛みを訴えた。
ふと目線を移せばすやすやと眠っている子どもの姿。彼もこの一日で随分と気疲れ果てたのだろう。私は起こすことなく護衛騎士に運ぶよう伝えた。
閣下からのお説教が怖いから呼び出される前に早歩きで私室まで向かう。こんな風に逃げたところでどうせ明日の朝に繰り越しになるだけなのに、こんなときばかりはまだ子どもみたいだ。
防寒着をあまり持っていかなかったせいで身体は既に冷えきっている。早速お風呂の用意をさせ、手を入れて温度を確認する。その過程でもう既に溶けそうになる。やはり凍えた夜風に当たった後はお風呂に限る。
ちゃぽん……、っ
陶器にも勝る白肌が湯水を透き抜けて見えている。身を清める時は世話付きの神官でさえ外に出して一人になる。
前世の感覚が抜けきれない、なんて言い訳は孤児に生まれた時点でない。別に、無駄な骨は拾いたくないだけだ。
疲労が水に溶けて身体から抜けていく。お風呂は好きだ。何も考えなくて良い。何もかもが嫌になったとき、頭を冷やして整理できる。あと単純にこの身体は慢性的な虚弱体質な為お風呂は健康的なのだ。
…それにしても、『また』私が孤児を引き取るとは自分自身予想だにしていなかった。あの一件で懲りたと思っていたのに…。どうやら私まだこの世界の人間としての覚悟が甘かったらしい。
思い出すとどうも嫌になってしまう。私の…、『シルティナ』の唯一の失敗。そして、…【原罪】。
まだあの子のことは脳裏に焼き付いて離れない。顔を下に向けて見えた水面に映った私の顔は苦しくも痛々しかった…。
…私が九歳の誕生日を目前にしたときだった。『あの子』との出会いは。偶然見つけた、教皇閣下と同等の神力を持つ女の子だった。
当代は私やオルカが異常なだけで、閣下クラスであれば『聖女』になる資格は十分にあった。そんな彼女を見つけた私は、浅ましくも夢を見た。清廉も潔白も何もない、汚れ役を押し付けようとした下劣な【欲】。
彼女を私付きの侍女にと引き取った。私が初めてねだった誕生日プレゼント。私達はすぐに仲良くなった。楽しかった。嬉しかった。だけれど、その仲が深まるごとに私は罪悪感に押し潰されそうになっていった。
私はまだ前世に記憶があるから良い。大人達の汚い欲望を見ても受け流せるだけの心持ちがある。でも彼女は、まだ幼かった。私より一つ年上だとしても、十一歳の子どもに着せていい役ではなかった。
だから私はこのままにすることを決めた。しかし自分の勝手な願いで連れてきた彼女の贖罪としてずっと傍に置くつもりだった。
欲しいものはある程度買い与えて、仕事を紹介して、いつかは教会と全く違う道に進んで欲しかった。それが、私にできる唯一の選択肢の作り方でもあった。
おじさんのような存在にはなれなくても、確かに私にとっては大事な『家族』だった、…のに。私は忘れない。あの日の怒り。嘆き。苦しみ。痛み。全て私の身体に刻み込んだ感情だった。
大切だった。守りたかった。…だけど、現実はそんな私の願いの一つさえ聞きはしてくれなかった。
ザー、……ザーッ
雨がよく降った日のことだ。私は遠方まで仕事に出掛けていた。いつもは彼女も同行するというのに、この日ばかりは別々になった。
油断していた。あまりに平和ボケをし過ぎていた。神殿に戻っていた頃には、既に手遅れだった…。
静まり返る神殿にただならぬ事態を察知し、私は急ぐ。いつも一番に迎え出てくれるはずの彼女はどこにもいなかった。私が彼女を探して間もなく、護衛騎士から彼女の訃報を聞かされた。
「ぅそ、よ…っ。ぃやっ…、いやぁあ!!」
取り乱す私を傍観する他ない神官達に、嘘ではないことを知った。遺体も見せて貰えなかった。私は雨の中外で突っ立て、ずぶ濡れになろうと足一つ動かせない。
私が愚かだった。私が欲を掻いた。【原作】から踏み出した。逃げ出したかった。その結果、彼女は死んだ。
後悔と懺悔が降り注ぐ雨となって身に落ちる。彼女は原作に存在していない。私が誘った。私の愚かな行為のせいで、未来のあった彼女が死んだのだ。私が殺したようなものだった。
一週間、私は部屋に籠った。己の愚行(愚公)を呪った。食事もまともに取らず、一種の鬱状態が私を襲ったのだ。
このまま時が過ぎればと幾度思ったことか。だけど真実は時に最悪の想像でさえ、上回ってしまうことを知った。
ガチャリ……
「だれ…? おねがい、…来ないで」
ベッドの上で布団にくるまって、私は外の世界を拒絶した。けれどもその存在はお構い無しに私のもとまで歩いた。
「…ォ、ルカ」
そっと布団の隙間からオルカの顔が見えた。暗いからか、どんな表情をしているのか見当もつかない。だけど私は彼に構ってやれるほど余裕がなかった。
「おねがい…、一人にさせて」
また布団を羽織って今度こそ隙間をなくす。
だけどそんな私の小さな抵抗なんて、オルカの前では海の波に流され崩れ落ちる砂の城のように脆かった。防波堤の布団を剥ぎ取られ、強制的にオルカとの対面にさせられた。
私は布団を奪い返そうとオルカに立ち向かったけど、そんなもの意味をなさなかった。
「返して…っ、オルカ」
「…シルティナ。本当に彼女が『事故』で死んだと思ってるの?」
オルカが布団を掴む右手に手を伸ばそうとした瞬間、衝撃的な言葉にまさに身が固まった。カーテンがゆれ、隙間から淡い月明かりが私達を照らす。
嘘よ。うそよウソよウソヨ嘘よッつ!!!!
皆言ったのッ…、階段から足を転ばせたっ、て…。目撃した人の証言もある…。
でも、それじゃあなんで彼女は私が遠方に行った時期に亡くなったの? それじゃあなんで、護衛騎士もいるはずなのに彼女は階段から落ちたの?
神の象徴を司った容姿を持つ私達は、まるで同じに見えて、全く違う。だって、神の遣いはこんな風に泥のようにおぞましい瞳で光悦と微笑まない。
神の代理人は、たかが人間の少女一人が死んだところで、決して涙で嗚咽するような無様は晒さないはずなのだから…。