悲劇の人魚
外装を重視する神殿には珍しい、明かりが蝋だけの真っ暗な地下をどれくらい歩いただろうか。オルカの靴の音だけが反響して聞こえる。私は身体の全てをオルカに預け、蝋から揺れる炎だけを目に映していた。
ギィイ………ッ
まるで油も指していない重厚な扉を開いた先では、よくよく手入れの施された豪華な部屋があった。一見質素な部屋に見えるが、その筋の人間が見ればその価値に恐れおののき足を踏み入れることですら躊躇してしまうだろう。
立場上芸術の知識も素養程度に与えられていた。会食や謁見などの場所で使う場面も多かった為私にだってそれ相応の見聞はある。だからこの部屋が間違いなくオルカの私室であることも、理解できた…。
オルカは脱力しきった私の身体をそっと、宝石でも扱うかのようにベットの上に置いた。その姿はつい先程まで私の首を絞め、喉を掻き回し、口内を侵食していた人間とは思えない。
私は目線だけでオルカを捉え、地下の薄暗さを呑み込むような瞳に囚われている。
「…シルティナ。もう休憩は十分に与えただろう?」
嫌な予感、なんてものじゃない。今にも悲鳴を上げてこの場から身体を引き千切ってでも逃げ去りたい衝動に駆られた直後、オルカの腕が私の肌に触れた。
ギッ、…ボキッ
「ぃい゛ぃッ??!!!! あぁ゛ああぁあぁ゛あぁ…゛っツ゛!!!」
枝のようの細い私の腕は、いとも容易く根本から綺麗に折られた。粉砕骨折されなかっただけマシだと思えば少しは気持ちが楽になる、訳がない。
その後も順調に四肢全ての骨が折られていく。自分の骨が折れる音を一日に何度聞けばよいのだろうか。耳に流れ込む全ての音という音に吐き気がする。
最後の左足を折られるときなんかはもう悲鳴を上げることすら叶わず痛みが脳に直接伝達された。そのせいで失神を食らってしまったが、結局一分も経たずに叩き起こされた。いや、それよりも酷い起こされ方だ。なにせ失神している間に治した四肢を再度、曲折されるのだから。
「…ッあぁぁああぁ゛ッツ!,! ぎッぃ、ぃだいぃだいぃだいィダッ、ィ゛、っア゛…?!!!」
どれだけ声を枯らしても、オルカは単純作業のように手を緩めることはない。ふとオルカと目が合う。グシャグシャになった私の顔を見て頬を弛ませ、右腕を折ると同時に舌がねじ込まれる。
終わりの見えない痛みとこの男の不可解さに脳は徐々に機能を失っていく。正常に機能すること事態バカらしく思えるのだ。思考に全てを費やしても増すのは痛みの精度だけ。それならばいっそ思考を放棄して少しでも『楽』を求めた方が苦しみを少なくできる。
少なくとも十回は繰り返された非業は、数度目の失神の末に終わりを迎えた。だけどこれで本当に全てが『終わる』わけじゃない。これが『始まり』だと、オルカはほんの少し口角を上げて目線一つで告げた。
「随分汚れたね。ちゃんと『綺麗に』しようか」
「っ、゛ィ、…や゛ッ……」
ガラガラに枯れた声を振り絞って抵抗を口にするが、オルカの耳には一切まかり通ることなく抱き抱えられそのまま浴室に運び込まれた。
予想した通り浴槽には今にも溢れ出しているほどお湯がためられている。その中に私を服のまま投げ入れた。その拍子にお湯は飛び広がりオルカも濡れ白銀の神がしたれかかる。R18禁ゲームでよくありがちなスチルも、この状況では笑えない。
オルカは濡れたことに気をやる素振りも見せず、骨格のしっかりした手で私の首を掴む。何をしようか、決して外れることのない予測ができてしまう自分が今は憎い。
ゴボッ………ッ、…
涙や鼻水、その他様々な体液はお湯とともに混じり、私は水面からなんとか這い出ようと抵抗するも肉体的力の前では全てが無意味だった。
身体中の穴という穴から水が入り込み、次に酸素を供給できたときは口と鼻の境目が途切れていた。
「っ゛げほッ、ゲホッ! がっ、ぉ゛え…。ぅ゛、がハッ…、ッア゛!!!」
喉が痛い。苦しい。肺に水が溜まって神力ですらどうすることもできない。全て、神力について誰よりも詳しく理解するオルカだからこそできるモノだった。
また息を吐く暇もなく、私の視界の全てを大きな手のひらが覆い隠す。小さな悲鳴はその手の内に掻き消され、私はもう一度水の檻に閉じ込められた。
ゴボッ…、ボボボ…ッ
空気の泡だけが地上に抜けていく。肺が満杯になり、身体の中で逆流する水に悶え哀れな人魚は、…そのまま海の藻屑と化した。
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あれから二日経った。私は、【お仕置き】に終わりを見出だすことがなくなった。ただひたすらにオルカに許しを乞いた。オルカに許されることが全てで、それ以外の思考を削いだ。そうでもしなければ『壊れる』と思った。…オルカは私を壊す気だった。
「それじゃあシルティナ。もう一回、ちゃんと言おうね」
オルカは私の両頬に手を当て、顔を見合わせる。鼻と鼻がすぐにくっつきそうな距離だ。
以前ならば恐怖していたその距離感も、今はどうも麻痺している何も不思議に思わない。オルカが正しい。オルカのやること、為すこと、言うことその全てが『絶対的』善だと刷り込ませられた。
「ごめんなさい…。私は悪い子です。オルカの言うことを聞けませんでした。私は悪い子です。もう二度とオルカの言いつけには逆らいません。もう二度とオルカ以外に大切なものを作りません。もう二度とオルカの手を煩わせません。もう二度とオルカ以外に心を開きません。もう二度と、もう二度と……」
壊れた機械のように言葉の反復を繰り返す。その目のすぐ先には何もないガラス玉の濁りだ。今誰に向かって言葉を吐いているのかすら理解できていない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、………。ただひたすらに謝罪の言葉を紡ぐ。疑問なんて持たない。だってそれは『人間』様にしか与えられていない権利なのだから…。
「うん。いい子。もう誰彼構わず娼婦みたいに腰を振っちゃダメだよ?」
言っている意味は分からないものの、コクりと首を縦に振った。まるで生き人形になったかのような閉塞感が重くのし掛かる。本当にこれでいいのか。自問自答するにはもう遅過ぎた。
「よしよし。よく頑張ったね。理解ってくれて嬉しいよ…、シルティナ」
【お仕置き】が終わると決まって『ご褒美』が与えられる。壊れモノを扱うように優しい手。心の底から愛おしんだ眼差し。全てを委ねてしまうような甘い言葉。
夢見る少女が憧れる『理想』が煮詰まったそれは、私のとってもとても苦しい毒だった。
このまま直ぐに放り出してくれれば少しは反抗する気が残っていたかもしれない。従順に矯正させられてしまった『私』を打ち破れたかもしれない。だけどこの甘い最後の【仕上げ】が、皮肉なことに私をさらに完璧にしてしまう。
この男のためだけに自分が生きているように感じる。彼が私を望んでくれる。それが何よりの幸福であり、私の生きる理由だと錯覚することが何より恐ろしい。
無意識の内にオルカの胸元に収まっている自分の手遅れさを痛感し、その毒を溺れようかと思うほど頭がトチ狂っていることに気づいた。
オルカは私の身体の至るところに触れるだけのキスを贈る。甘くて、切ない、優しいキス。それに溶かされそうになる。『私』が変えられていく。押し殺されていく。ノロワレていく…。
気づけば『愛してる』と口にしていた。意図したものじゃなかった。私はまだ壊れていなかった。なのに私は、【禁忌】を口にしていた、
まるで二人、本当の恋人かのように愛を紡ぎ合う。そこにはもう歪な隷属はない。ただ優しくも甘酸っぱい、『愛』があるだけだ。それもどこか、今にも崩れて壊れてしまいそうに脆い不完全な紛いモノ。
「愛してる。愛してる、オルカ。大好き…」
狂ったように愛の言葉を繋げる私を、オルカは何よりも愛おしく見つめた。やっと念願が叶ったかのように一層その微笑みを輝かせ、顔面の破壊力が増す。
「俺も大好き。シルティナが望むなら俺の全部をあげる。だから、ずっと俺の手の中にいるんだよ…」
「うん。大好き。大好き、愛してる。愛してる、オルカ」
本当に、二人の間にあったのは『愛』だったのだろうか。それにしては、ずっと何か気味の悪い別のモノのように思える。私が今吐いている言葉は、何に対して、誰に対してのものなのだろうか。それを分からずに吐く言葉に、何の意味があるのだろうか。
…もう分からない。分からないけど、今はそれでいい気がする。このまま意識が浮遊した末に、空気中に霧散してしまえばもう二度と『私』が出来上がることはないだろうから…。
こうして神殿の戻ってから【お仕置き】に二日、『ご褒美』に三日。移動時間に二日、合計七日間に及ぶ躾が終わり、私はまた何事もなく『聖女』の仕事に戻った。
いつにも増して温かく、優しく、慈悲深い『聖女』様。誰もがその神々しい姿を一目見ようと長蛇の列に並び、待ち焦がれている。
七日の内に溜まった書類仕事と同時進行でこなす『祝福』は精神を疲弊させる。毎度笑顔を張り付けることにも疲れを感じていた。
夜が更け、神官達を返した後でも私は書類の処理を続けていた。そしてまた、月光の恩恵に浸かった無礼な訪問客が窓から現れる。
「あぁ~あ…、随分手酷くやられたみたいだね、シルちゃん」
書類から目を離すことのない私に構わず触れたラクロス。本気で心配する素振りなんて一ミリもない彼に私が顔を向ける動きは、どこか機械的だ。
「…なんのようですか?」
「んー、心配して来ただけだよ」
嘘つき。そう言って嘲笑ってやりたいけど、今はそんなことできる気力が尽き果てている。
「…そうですか」
またぎこちない動きで元の位置に顔を戻す。まるで現実から逃避するように、私は目の前の書類に手を進める。
「俺の処においでよ。ちゃんとお世話してあげれるよ?」
「…お帰りください。それと、私は貴方の『ペット』ではありません」
「それじゃあアイツの『ペット』なの?」
もうすっかり顔馴染みであるかのような物言いに、疑問より先に馴染みが来たのは何故だろうか。
同族嫌悪とでも言うべき二人が、何らかの化学反応を起こしたと思えば理解が早くて済む。そういった屁理屈なら随分と得意になったものだ。
「私は誰のモノでもありません。貴方にも言ったでしょう。私の役に立てばその分の褒美をあげると。だから、どうか早くこの場から立ち去っていただけますか?」
もう傷つきたくない。そんな願いは心の壁となって今まさに現れている。
一向に構う気のない私に焦れたのか無理やり首筋を露にされ牙を食い込まされるが、もはや悲鳴を上げるというよりその激痛に飼い慣らされていた。
ジュッ、…ジュッ~ーーージュル…ッ
致死量レベルの血が抜かれていくことにより手先から冷えきっていく。そのためか指に力は入らず書類に手をつけることができない。
そうして夜の化け物は満足のいくまでその精を満たし、大きな噛み跡を残してその姿を消した。
一人暗い闇の狭間に取り残された私は徐々に再生していく己の姿を鏡越しに見つめ、その傷跡をどうにか残そうとテーブルに置かれた果物用のナイフで何度も、何度も何度も何度も何度も…、掻っ切った。
グサッ…、グサッ。グッ、…グシャア……ッ
それでも、『呪い』は私を犯す。噛み跡より深い傷になろうと、この呪いはもっと深いところまで私に根付いている。
「あ、っは…、ぁははっ…。あははははっ…!!!」
純白の衣服が血で生臭く色変わりしても、私の身体は何事もなかったかのように元通りに治る。たった少しの傷さえついてくれれば、私のこの傷が可視化されれば、ただそれだけで全て報われるというのに…。
証拠の一つも残さない己の身体にまるで『裏切り』を感じるのも今さらながら、失意のまま失血量の多さから瞼が重力に従い落ちていった…。




