最悪の帰還
ザク、ザク…
森は奇妙なほど静けさを増し、森の奥中心に入ったというのに魔獣の一匹も出てきやしない。この原因がシムルグにあるなら、伝承通りの存在だ。
【シムルグ】は単に魔獣として区別できない。魔獣の中でも特に知性が発達し、独自の生態系を築いてきた彼らはゼルビア王国では神獣として崇められていたのだ。
そんな王国が彼らの討伐を神殿に要請したと言うことはそれほど甚大な被害を及ぼされた、または及ぼす可能性が高いかだろう。
魔獣の討伐要請はこれが初めてではないが、やはり命の奪い合いということもあって緊張感は何ら変わらない。
それから二十分ほど彷徨っていると、突如として大きな唸り声と共に私の目の前に巨大な怪鳥が姿を現した。
「…貴方がこの森の騒ぎの中心になった魔物ですね」
グルルルルッ…!
警戒か威嚇か、唸り声はそこらの小動物を怯えさせ強者の風格を保っていた。
だけど、どうも私には『恐怖心』というものがゴッソリ抜け落ちてしまったようだ。前までの私だったら泣いて逃げ出していたかもしれない。でも今は、噛まれたり八つ裂きにされていない以上何の恐怖もない。
「貴方のテリトリーを犯したことは謝罪します。…子どもが怪我をしているのでしょう? もし貴方が知識のある魔物なら、私の治療を受け入れてください」
人間よりも遥かに知能が高いと云われるシムルグがむやみやたらに西の森を支配化した理由。成熟した体長の怪我一つないシムルグ。そして彼の目は、何百何千として見てきた親が子を守ろうとする『それ』だった。
グルルルッ…、グル…
武器抵抗の構えを完璧に無くそうとまだ警戒を怠らないその姿勢には感服する。が、こうして押し問答している時間もないのが現実だ。
「…わかりました」
私は髪に隠しておいた小型用のナイフを取り出し、親シムルグに見せつける。一気に怒気を放出し空気を圧迫させた親シムルグだったが、そのナイフを彼でなく私自身に向けて刺したことで驚愕の反応を見せた。
グルルルッ…?!
「っぅ…ッ…!」
思った以上に深く突き刺した為想像以上の激痛に顔をしかめたがすぐに神力で傷口を癒す。その光景はシムルグにとって摩訶不思議なものだっただろう。
なにせ一人間が彼の警戒を解くために自傷し、その力を信用性を己の身を持って説いたのだから。
「っ…、はぁ。…お願い。貴方の子供を見せて。この力で助けたいの」
グルルル…
親シムルグは数秒の間じっと目線を合わせ、ついてこいと言うように首をくいっと降って森の深みに向かって歩き始めた。
しばらくすると水の音が木霊する場所まで歩いていた。泉の近くに横たわっているのはシムルグの子供だろう。
クルルルル…
クルル…ッ…ル
親シムルグが子供に寄り添い、頬を擦り付ける。それは人間と同じ、親子の愛だった。親シムルグは私に視線を向け、治療するよう頼んだ。
「すぐ治すから、いい子にしてるのよ」
子シムルグは親シムルグが先に説明していたのもあってかすぐに私を受け入れた。人懐っこい性格なのか私が少し頬を撫でるとそれに返した。
約束通り子シムルグの傷を癒す。何ヵ月も経っていたのか化膿が激しく、猛毒も負っていた為いくら回復能力の優れたシムルグといっても幼い子供では限界があったのだろう。そしてこれは明らかに人為的な傷だ。一定の国では神獣として崇められるシムルグをここまで追いやったのは誰か。
思考を巡らしても多岐にわたる可能性に頭を悩ましていると、すっかり元気になった子シムルグが親愛を表すように身体を擦り付けてきた。
「まだ回復して間もないのだからそう簡単に動いては駄目よ」
クルルルッ♪
どうやら相当好意を持たれたようだ。親シムルグも友好的な姿勢を見せている。
本来なら直ぐに神殿に帰り報告書をまとめなければならないけど、この温かな雰囲気にもう少しだけ浸かっていたいという欲が私に溢れた。
丁度陽だまりができてお昼寝に気持ちいい時間帯だった。シムルグに身体を預けゆったりと休息できるのもいつぶりか。
こうしてみると人間より魔物の方が幾らかマシな気がする。下手な嘘もつかないし、何より歩み寄る姿勢がある。
「気持ちいい…。こんなに綺麗な世界を見たのはいつぶりかな」
太陽に手を伸ばし、口調だっていつのまにか戻っていたけど、それすら気づかず束の間の休息を楽しんでいた。森の動物達がくれた果実を頬に含んで、甘い味に満たされる。
「ねぇ、人間の世界はとても汚いの。だから、こんなに優しい貴方達を『魔物』なんて言うのね」
くすくすと朗らかに笑うのだって、まるで私じゃないみたい。でもそれが心地よくて、此処から離れたくなかった。
「私から見れば人間の方がよっぽど『魔物』よ。少なくとも貴方達は私を傷つけたりはしなかったもの」
そっと毛並みを撫でていれば、まるで慰めるかのように身を寄せあってきた。その好意に慣れないながら、身を預けた。そのときに流した優しい一筋の涙は、その温かさと心地よさからの決別でもある。
「それじゃあもう戻らないと…、貴方達とはこれでお別れだわ」
そっと口元を撫でてあげると寂しそうに喉声を鳴らす子シムルグ。イヤイヤと駄々をこねて親シムルグを困らせている。
「…ごめんね。またいつか遊んであげるわ。それまで待っていて頂戴」
口惜しそうな親シムルグが強制的に私から子シムルグを引き剥がし、私を帰そうする。私も別れを惜しみながら彼らから背を向けようとしたその瞬間、悪寒が走った。本能からバリバリと潰されるような、私の根幹からグラつくほどの、悪寒。
「…ぅ、そ」
振り返る勇気は私にはなかった。木陰から姿を出した彼に、全ての怖れを抱いていたから…。
「ぃ、…っや…」
離れかけた子シムルグを無意識に掴んでは引き留め唯一の拒絶とでも言うべきか、隠れるように身を縮込ませた。
どうか嘘だと言ってほしい。全て私の幻覚だと言われても構わない。どうか私の盲言だと嘲笑って欲しい。だからどうか、どうか…っ、彼の帰りを告げないでほしい。
「ただいま。シルティナ」
上級神官にだけ認められた白金の祭服。二年前とはうって変わってすっかり大きくなった体格。
まだ瞳の奥に深淵を潜め、まごうことなき『聖者』の微笑みでオルカは帰還を、またこれから始まる『地獄』を告げた。
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…静寂は長く続かなかった。彼が望む答えを出せずただ固唾を飲んでいる私に一層微笑みが深まり瞳は乾く。
「シルティナ、返事は?」
「…っ、ぁ…。お、かえりなさっ…、ぃ」
分かってる。…現実はこんなものだと。頭はでは理解できているつもりなのに、どうしても私が拒絶する。身体はこんなのなのに、口から発することばはまさに調伏された『それ』だ。
奥深くに刻み付けられた恐怖こそ私たちの間にある絶対的関係。それ以外を許さないとでもいった、純度100%の『恐怖』。
「全く、折角の再会だというのにヒドいな。挨拶は目を合わせてと『散々』教えたはずだろう?」
「っ…、はぁ、はぁ…っ」
オルカの言葉の一つ一つに過去が愕然と掘り出されその忌々しさに必然と過呼吸が起こる。アレが教育と言うのなら、その定義は虐待に等しい。
「ごめ…、ごめんなさっ…! おねがっ…。ゆるして。ゆるしてくださっ…!」
「…シルティナ。【聖女】という者が魔物に身を寄せて、駄目だろう? 此方においで。駆逐してあげるから」
無理だ…。この手を離すことなんてできない。それほ自分から命綱を切ることなのだから…。
ガタガタと誰がどう見ても哀れむほどのあられもない姿を見せる私に端からオルカに対し威嚇MAXのシムルグ達。
だけど、例え彼らでも到底オルカには敵わない。歴代最高峰の神力を持っている私でさえ、オルカとの実力は天と地の差あるのだから。私が今できるのは、彼らを見逃してもらえるようにオルカに懇願すること。
「だ、…め。シムルグたちは、ゼルビア王、国に…」
「シルティナ。此方に来なさい」
異論を許さぬオルカに、ぐっと目に見えぬ『ナニか』で口が縫い付けられる。諦めればいい。諦められれば…。でもそれじゃあ、ずっと私が苦しめられるに決まってる。
大丈夫。大丈夫だからとシムルグ達を落ち着かせる振りをして己を鼓舞する。壊れかけの機械人形のようにドギマギとしてようやくオルカと目を合わせることができた。
瞬間的に飛び出そうとした悲鳴を殺して、何度目かの空白の後に声を震わせて懇願した。
「おねが、い…。何でもするから、この子達を殺さないで。おねがい。おねがい…っ」
怖い。怖い怖い怖いこわいこわい…。今だってこのまま気絶してしまいたいぐらい怖い。だってオルカは今、【怒って】いるのだから…。
あの時の、私が失踪した後のオルカと面影が重なる。滅多に私的な感情を表に出さないオルカは怒るとより笑みを深める。されど瞳だけは乾ききって、空虚なガラス玉に濁る。それが何より怖いときのオルカだ。
「シルティナ。今すぐ私の元に来るか、それともお仕置きされ無理矢理帰るか、好きな方を選ぶんだ」
【お仕置き】。あの発狂しそうなほど人間の加虐性が充満した行為に、私は耐えられるほど強い人間じゃない。でも、もう後戻りもできない。
「おし、おき…、されるか、ら…。だからっ、この子達はみのがして…!」
「シルティナ。本当に…?」
「おねがいだからっ。お仕置きでも何でも受けるからっ! この子達はころさないでっ…、オルカ…」
最後は鼻声でもう何も言えたものじゃない。ぐすっ…、ぐすっと無様を晒している私の後ろでシムルグ達が今にも戦闘態勢に入ろうとするのに対し、オルカは少し考えるような素振りを見せた。
だめだ。もっとオルカの天秤が重く傾くぐらいのものがなけらば…。
「痛いことも…っ、苦しいこともしていいからっ! オルカの言うことも全部聞くのっ゛! だから、…だからおねがぃ。ころさないで…っ」
「…ふぅん。そこまでしてその魔獣を守りたいんだ?」
「…っ、おねがっ、…おるか」
わざと直接的な答えは出さなかった。だってここでそれを言ってしまったらオルカの逆鱗に触れるから。そうなれば私の願いも何もなくシムルグ達は殺されてしまうだろう。
「わかったよ。…その代わり、【お仕置き】だ」
「…っん゛」
小さく頷いた私を距離を詰めたオルカがシムルグ達から引き剥がす。
そのままお姫様抱っこの形でオルカに抱き抱えられ、私はオルカの顔をできるだけ見ないようにするために首に腕を回すけど、今回はそれが許されなかった。顎を強く掴まれ舌をねじ込まれる。それもシムルグ達の前で…。
「っんん゛…?! んっ、ぁ…っ。っ、あ…んむっ…」
オルカの舌は容赦なく口内を蹂躙する。歯揃いに沿って丁寧に舐められ、舌同士で絡ませられ合う。前世でも経験のなかったキスは、上手く息の仕方がわからなくて少し苦しかった。
私にだって乙女心のようなものはあった。今となってはあるかどうかも不明なものだが、それでもファーストキスぐらい好きな人としたかったなという未練はある。
しかしその相手がよりにもよってオルカで、初心者に手解きの一つもないそれは一種の暴力だ。
シムルグ達が怒りの唸り声をあげているがオルカの眼力で幸い手を出すことはない。彼らが賢い子達でよかった。そうでなければ私の努力の全てが無駄になってしまうのだから。
別にたかが【人魚の涙】の四割程度でこんな苦痛に耐える訳じゃない。普段だったら私は彼らを見捨てていた。ただ今日は、どうしてもそれができなかっただけだ…。
数分経ってようやく舌が抜かれ、二人の間には唾液が絡まって地に落ちる。私はやっと酸素を取り入れることができて必死になって空気を吸っていた。
「まだ【お仕置き】も始まってないのに、もうキツイ?」
返事をする余裕なんてなかったけど、どうにか首を左右に動かして続行を告げる。
オルカはそれを見て仕方ないなとでも言わんばかりに肩をすくめ、生まれたての雛鳥のように空気を求める私の背中をよしよしとまるで善人かのように撫でた。
「それじゃあシルティナがちゃんと改心するまで【お仕置き】してあげる」
にこやかに微笑んでいるのに、吐いた言葉は何ともイカれ野郎の発想だ。
オルカはシムルグ達の境界線として炎柱の線を描き、とっくの昔に転移魔術が使えるはずなのに徒歩で私を抱きかかえたまま森を進んでいく。
なぜ…、とは聞けない。聞くことなんてできない。
それほどまでに私の身体は恐怖で緊縛している。そうした中、木のざわめきだけが聞こえる森で、オルカの鼻歌が響いていた。