なきわめく幼子(おさなご)
夜風がまだ幼い肌に刺激として刺さる。
もう子供は寝る時間だというのに、そう簡単には寝かせてはくれない。またしても窓から訪問してきたお客には生憎もてなす茶菓子も態度も持ち合わせていないものだ。
「報告だけ端的にお願いします」
まだ足の届かないソファに座り温かいココアを手に持ちながら、わざわざ私の下に座り『犬』の姿勢をとったラクロスの報告を聞く。
「マニエラ下級神官、…、…、…、エイメル中級神官、この七人が『裏切り者』ってわけ」
ある程度予想していたとは言え、上級神官まで手が伸びていなかったことは幸いだろう。
それでも中級神官に二名も裏切り者がいるとは衝撃だった。せいぜい下級神官が複数人いる程度だと過信してしまった。
「それで、この者達と繋がっていた貴族の名は?」
「これにぜ~んぶ書いてあるよ♪」
そう言って机の上に放り投げた分厚い書類。明らかに今日だけで仕上げられるものでもなければ、ラクロス本人が書いたとは考えずらい、よく要点のまとめられたものだった。
「…これはどこで?」
「別にぃ、馬鹿正直にやるより手下動かした方が早かったってだけ。どうせ全部俺の手柄だし、ね?」
つまり指導者の威厳、というわけでもないけど上に立つ人間としては十分な資格を有しているこの男にはあまりに簡単すぎた仕事だったというわけだ。
これは完全に配分をミスった。どうせならオルカの暗殺依頼でも出せば良かっただろうか。しかし意外にも利益重視のラクロスがそれを引き受けるとは思わない。
万が一手下を動かしたとしても、その程度では彼を殺すことはできないし、私に余計な矛先が向く未来しか見えない。
「それで、『ご褒美』は?」
私が心底後悔している間に距離を詰めたラクロスが私の座る椅子に腕を組みもたれかかった。
「約束は約束ですから…。どうぞ、一度だけ許可を与えます」
我ながら機械に勝る声色でラクロスと見つめ合う。しかし主導権は絶対に握らせないように…。
「それじゃっ、イタダキマース」
一体何をするかと身体を強張らせれば一瞬、肩が噛み砕かれたかのような衝撃が突き刺さった。
「っぁ、イ゛ィっ…?! ぃ゛、い゛だっ、…!」
あまりの痛みに身動きひとつできない私をラクロスはさらに押さえ込んで、微かに視界の端に映った牙を喰い込ませた。
「アー…ッ゛、うっま♪」
恍惚と頬を赤らめるラクロス。カーテンから差し込んだ月光が彼を密やかに照らし、その瞳の色を魅い出している。
真紅に煌めく、【吸血鬼】特有の色。上手く飼い慣らすはずだった野犬が実は血に飢えた害獣だったとは、誰が気づいただろうか。
「ぃたっ゛…、ぃ゛たぃッ…!」
押し返そうとする力も全て奪われ、為す術なく思いのままに血を吸い上げられ十分。ようやく牙を締まった彼は大層ご満悦な顔で愛犬の顔を平気で被っていた。
「めちゃくちゃ美味かった! ね、また俺を使って良いからご飯ちょうだい!」
全く呑気なことだ。こっちは痛みでもう舌を動かす力さえ残っていないというのに…。四肢の感覚なく痙攣しつつ、目線だけでも一挙一動を注視していた。
「んー、だけどシルちゃんあんま肉付き良くないからさ、今度から俺が餌付けしてあげる。そしたらまた俺にご飯ちょうだいね」
思わぬところから空腹からの解放を言い渡されたがその交換条件からして圏外だ。
精一杯の睨みを効かせてNOと返事を返したのに返ってきたのはまるで瀕死の小動物を哀れみ愛おしむような接触だった。
人間の体温より少し低い手が私の頬に触れる。今すぐに振り払いたいのに身体は言うことを聞かない。
「もうホント可愛いんだから。ぜーったいに俺だけのものにする!」
私はモノじゃない。誰も彼も私を人間として見はしない。おじさんだけが私を『ひと』として扱ってくれた。見てくれた。ゆるしてくれた…。
満面の笑みで私を身勝手にも可愛がるラクロスを横目にもう瞳孔も閉じられないのに対し、乾いた涙を潤すための生理現象か高価な人形から涙がボタボタとこぼれた。
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それから一ヶ月、私は強制的な取り引きの名のもとにラクロスの食糧となった。オルカと同じ部類で下手に加減を理解しているだけに痛みはラクロスの匙加減で決まる。
機嫌が良ければある程度私の頼みも反映してくれるが、何を気に障ったのか機嫌が悪ければわざと激痛に失神の一歩手前で何ヵ所も無茶苦茶に噛まれてしまう。
もしかするとオルカよりもタチが悪いかもしれない。『痛み』とはそれだけで正常な感覚を壊していく。オルカの場合「苦しみ」であれば、ラクロスは純度100%の「痛み」だ。
だからこそ生存本能か恐怖が増幅する。目に分かる痛みに怯え、私が弱くなっていく。
神力でどれだけ傷を癒せたとしても、際限なく痛めつけられればいずれは限界が来る。異世界だとしても人間の原理はさして変わらないのだから、無理やり復元した細胞もいつかは朽ちる。
あれから吸血鬼に関しての文献を漁った。だけど既に絶滅したと記載される種族の詳細は禁忌とされているだけあって何一つ有力な情報は得られなかった。
だけどいつしかラクロスは言った。通常の人間であれば一度の吸血で即死に至ってしまう、と。それは私の神力が自動回復を促していることを裏付けた。
つまり赤の他人を救う崇高なこの力は私にとって邪魔でしかないというわけだ。なんという皮肉か。傷跡一つ残さない忌まわしい『呪い』。誰にも助けを求められない。全て無かったことにされるのだから…。
「ぁ゛ぁ…ッ! ぃ゛、ぁあぁぁ゛!!!」
今日も今日とて獣が餌を貪り喰らう。それは獣にとってただの食事でしかなく、餌の悲鳴など耳も貸してはくれない。
前世の漫画でよくある吸血シーンに期待した人達に現実を突きつけてやりたい。無遠慮に首筋を指程の針をが二本抉るのだ。
刺すなんてものじゃない、『抉る』。そしてその激痛を感じさせるま間もなく失神ギリギリまで血を抜き取られる。下手な採血よりも酷い。
「ぃ゛…たっ、ぁあ゛あぁ…゛ッ?!!」
痛みの原因を引き剥がそうともまともに力で敵うはずもない。化け物から離れてようやく一息吐けたと思えば、また別の化け物が容赦なく襲いかかる。
休む暇がない。幸せを見つける暇がない。この苦しみから逃げ出す力すらない。ないないだらけで情けない。ないものねだりはみっともないが仕方ない。
「ぁ…、っい゛…?!」
牙を引き抜く時でさえ気が抜けない。私の反応を楽しむようにわざとゆっくりと抜くのだから痛みに耐えかねて涙と鼻水を濁流させるしかない。
「ん、よしよし。イイコイイコ。頑張ったもんね」
相も変わらず全身脱力した私の頭を撫でるラクロス。『食事』が終わればいつもこうして私を褒める口振りをするが、その張本人が言ってもなにも感情が湧かない。
「ほら、あ~ん♪」
口が開き涎を垂れ流している私に無理やり果物やら細かく刻んだ肉を食べさせるのだって恒例と化している。こうすれば抵抗せず食べさせることを完全に理解しているから…。
だから私は思った。心が壊れるとか、私が消えるとか、そんなものの前に身体が先に朽ち果てるべきだと…。
未知の伝染病でも、不治の病とされている感染病でも、何でもいい。この呪われた身体を壊す病が欲しかった。
だからこそ進んで病が伝染している街や村を訪問し、沢山の患者と触れあった。ときには絶命寸前の患者でさえ手を握り、最期の瞬間まで立ち会った。
神力で病を癒すことはできても落ちた体力まではどうにもならなかったため、間に合わなかった人の最期は悲惨なものが多かった。
突き刺さる現実。命の重さ。聖女の重責。それを全て払拭するほどの狂ってしまった私の思考。
この世界に前世の常識は一つも通用せず、異常が溢れかえって私をすっかり染め上げてしまった。
遺体が火葬され、塵に還ろうと空っぽな心では感じるものがない。人を愛し、愛されなさい。
どこかの文学者が説いた言の葉。あれは愛が『ある』ことが前提で作られたものだ。だから此処では、何の意味も為さない。
チュッ、…ちゅっ、ちゅっ
「はぁ…、最近スゴく頑張ってるみたいだけど、あんま無茶しちゃダメだからね」
いつも通り食事を終えたラクロスがおでこにキスをし、あたかも心配する素振りを見せる。この行為も幾度目だろうか。最近では何も考えないことで苦痛から少しでも逃れていた。
「…も…っ、ころ…っ、して…」
ふと溢した弱音は、今の私の心からの願いだった。惨めでもいい。無様でもいい。嘲けられようと、楽になりたいと、逃げを選んだ。
されどそんな願いさえ、ヒトのカタチをした悪魔は一切迷う素振りを見せることなくその弱音の対価として牙を奥深くの神経までめり込ませた。
「ぃい゛ぁああぁあぁ゛アァア…ッ?!!」
痛いッ…、痛い痛い痛いいたいいたいいたいイタいイタいイタいイタイイタイイタイッ…!!!!!
何十分、いや何時間経ったことだろうか。あまりの痛みに意識が飛んでいたかもしれないから時間感覚はあやふやながらも白を基調とした衣服がまだ真っ赤に色付いていることからそこまで時間が経っていないことを知った。
喉が潰れるまで叫んだら、やっとラクロスはその牙を抜いてくれた。初めて日を置かず二度の吸血だった為か極度の貧血状態にあることがわかった。
ふらふらと力なく上の空の私の両頬を持ち上げ、無理やり目線を合わさせられた。
「シルちゃん。『イイコ』…、だもんね?」
笑っているのに、その瞳の奥は酷く乾いてゾッとするほど気味が悪い。
無性に悲しくなって、自分の無力さに打ちひしがれて、本当の子供のようにわんわんと声すら出ずに泣いてしまう。私には【ヒト】として生きることも、死ぬことも許されなかった。
…終わりたい。
終われない。
終わらせたい。
…っゆるされない。
無限とも思えるこの地獄を生き抜く術を誰に教えられるわけでもなく、ただ泣き喚くだけの子どもは、綺麗に月明かりを溢す夜空に慰められることなく、…またあの始まりの朝日を迎えた。




