演劇の下準備
ユグトゥスの治療を初めてから数日後。私は兼ねてから考えていた帝国式のマナー講義について習い始めた。と言っても全部ユディットが教えてくれて専門の貴族に頼ることはなかったんだけどね。
最初は勿論マナー講師として有名な侯爵夫人に請け負ってもらうつもりだったけどまだ他人に慣れていないことを鑑みてもユディットが頑として反対した。
なんでも一端のマナーなら自分でも十分に教えられるとかで、実際ユディットの技術は皇室で洗練されていたし普通に高位貴族も引く手数多の実力だった。
だけど私が一通りやってみたらもはや教えることなんて何も無いと言われて実際に教えてもらうことなんて若干の帝国様式と聖国の仕草の違いぐらいだったからすぐ終わっちゃったんだけどね。
まぁこれでも一応聖女やってた訳で帝国式のマナーもそこまで変わりなかったから良かったんだけど、問題は貴族家の名簿を全て暗記することだ。
挨拶を行う際にどの勢力にいてどの政治的経済的役割を担っているのか精確に知らなければ社交場で生き残ることは難しい。
これは流石の私でも骨が折れた。著名人ならまだしも子爵や男爵レベルで会話することなどほぼ皆無だったわけだから一からのスタートなわけだしね。
表では有効的と見せかけて裏で別勢力と手を引いてるって可能性も十二分にあるから裏を取るのにも重労働だし有り体に言えば面倒くさい。
折角働かない生活が板についてきたのに今更元の調子に戻すのには結構な苦労が必要だった。その代わり少し休憩するたびにユグトゥスの子守りができるから頑張れるというものだ。
普段はユディットが面倒を見てくれていて私が抱っこすると「きゃっきゃ」と笑うものだから気づいたら構い倒してしまう。全く赤ん坊の魅力というのは本当に底しれないと思う。
今日も今日とてユグトゥスと遊んでいるとどうやら予定の客が客間に着いたと連絡が入った。
離れるとすぐにグズってしまうから仕方なく一緒に連れていくことにしたけど基本的に知らない人間の前では大人しいんだよね。
グズるのは私やユディットの前だけだし笑うのも私達がいるときだけ。
頭がいいのか好き嫌いが激しいのかどっちでもいいけどこれは将来気難しいお坊ちゃまになってしまうかなと少し笑ってしまった。
客間に着くと既に予定のデザイナーが席についており机の上には様々なカタログが並べられている状態で私が入ってきたことに気づいた彼女はすぐに席を立ち綺麗なカーテシーを見せた。
「帝国の星アルティナ・フォン・ラグナロク皇女殿下にご挨拶申し上げます。ツェツィ商会専属デザイナーのフィーア・ツーウェルトです」
「えぇ。今日は皇子も一緒なのだけど構わないかしら?」
「勿論にございます。そちらが先日御誕生になられたユグトゥス殿下であられますね」
「そうよ。私でないとグズってしまうから連れてきたの。もうすぐお昼寝の時間だからすぐに眠りにつくわ」
そう言ってすでにうとうとし始めているユグトゥスを軽くあやしながらひとまず自己紹介も済んだところで席につきカタログを手に取る。
「皇女様がどのようなデザインをお好みになるのか判断が難しかったため全系統のカタログを持参いたしましたが特に外せない点などはございますか?」
「う〜ん、…そうね」
一通り目を通すだけ通して、私はすぐに一冊目のカタログを閉ざした。二冊目も、三冊目も同様だ。そうすれば彼女は気に触ってしまったのではないかと恐れるだろう。
彼女には悪いが元から既存のデザインを選ぶつもりは毛頭ない。だってそれは全て既にこの世に実在しているもので、有り体に言えば稀有を好む貴族達にとって斬新性に欠けるのだ。
最後のカタログまで閉じ終わったところで私はようやく彼女の方に顔を向けた。
「ねぇ、フィーア。私が何故帝国で最も著名なグラニッツ商会のブティックではなくツェツィ商会を選んだか分かるかしら?」
「も、申し訳ございません。見当もつきません…」
「答えは簡単。嫌いだからよ」
「嫌い…、でございますか?」
私がこれ以上にない程純粋で輝くような笑顔を向けた先で、今まで貴族然としていたフィーアの顔があからさまに驚愕へと変わる。
それもそうだろう。なにせグラニッツ商会といえばこの数年で帝国内において確固たる立場を確立しその手は既に大陸まで伸びている。
なにより進出気鋭の商会でありながら商会主が帝国四大公爵家の娘という後見にも恵まれたものなのだからもはや誰もグラニッツ商会の覇権が揺らぐことなど疑ってはいない。
それはグラニッツ商会が設立される前に一大勢力を築いていたツェツィ商会であろうと…。
「そう。私ね、私より目立つ女が大嫌いなの。だってこの私を差し置いて注目を集めるだなんて、とっても身の程知らずでしょう? だから帝国の寵児だなんて持て囃されているあの女が所有する商会では絶対にドレスを買いたくないのよ。貴方ならこの気持ち、分かってくれるわよね…?」
理由なんて真っ赤な嘘でも結局相手が信じればそれまでだろう。実際に私が少しした威圧と誘導程度で簡単に困惑を見せたのだから、意外とこの仕事は簡単だったのかも。
「な、なるほど…。それで私どものところ(ツェツィ商会)に」
「それともう一つ。貴方にはオーダーメイドで私のドレスを作って欲しいの」
「オーダーメイド、でございますか…?」
私がユディットに目配せをすると前もって用意していた図案の紙が机に置かれる。
それは昨日の夜に私が思いついたデザインをそのままユディットが紙におこしてくれたものだ。我ながら芸術の才能は乏しいと理解していたのでユディットに頼んで大正解だった。
「これは…っ?!!!」
「どう? 難しいことじゃないでしょう?」
私がフィーア夫人に見せた図案は今までの帝国社交界では考えられないような肩や背中が大きく露出したデザインだった。
エディスは現在の社交界でまだ幅を利かせる旧貴族達を刺激しないよう明らかに肌を露出するような現代デザインのドレスを避けていたようだけど、私は別にそんな事関係ないしね。
というかこれ以上グラニッツ商会のものと被らないものも少ないんだよね。
あっちも手当たり次第なんでも乱獲するものだから流石に強欲だと思う。現代無双はんたーい! 現代チートはんたーい!
「殿下。このようなデザインはもしかしたら社交界では忌避され」
「あら? 知ってるわよ。でもそれを着るのが私だったら? 誰が口を挟めると言うの?」
私は自分の美貌をよく理解している。好きかというわけではないけど、その利用価値も十分に分かっているのだ。そしてきっと彼女は生粋のデザイナーなのだろう。私の一言で全身から既に創作意欲に満ち溢れている。
フィーア・ツーウェルト。元々帝国一のデザイナーとして名を馳せた彼女なら、きっと私が満足する以上のものを作ってくれるだろう。彼女もまたエディスの身勝手な行動故に本来の正しい未来を捻じ曲げられたある意味の被害者なのだから。
そして固い意思を決意したような彼女の燃えるような瞳がより私に信頼を預けた。
人間は信じるに値しない生き物だけど、その創作意欲だけは認めているのだ。せめてわざわざ悪女を演じた以上の働きはしてもらわなければ認めた価値がない。
とにかくフィーア夫人がその場で身体のサイズを図って完成は遅くとも一ヶ月以内になるそうなので後は任せるしかない。他にも会場の内装や当日の進行など様々な仕事が割り振られてる今中々時間も割けれないからね。
すっかり眠ってしまったユグトゥスを最近新たに設置した書斎机の横の揺りかごに寝せて私はまた建国パーティーの来賓に関する情報などを頭に叩き込んでいった。
建国祭まで残り一ヶ月と少し。この日が私の皇女としてのデビュタントになる以上失敗や妥協は許されない。全てを完璧にして前座で躓くことがないように…、その一心で夜遅くユディットが警告に出るまで私の部屋の明かりが消えることはなかった。