侍女の過去
・【ユディット視点】です。
「指名依頼だ。内容は、帝国皇帝カフス・フォン・ラグナロクの暗殺。断る選択肢は…、分かるな」
揺れる蝋の光だけが息をして湿った空気が暗い地下の一室に留まる。
目の前に座る男の顔さえまともに見えず、ただ葉巻の匂いが煙とともに流れた。その匂いに僅かに顔をしかめつつもそれ以上に何も言うことはない。
男の眼光が私を捉え反抗の意思を示そうものなら即刻処分に回されると分かっているからだ。
しかし結局依頼内容を聞けば今この男を殺しても問題はないんじゃないんだろうかと思ってしまう。
帝国皇帝カフス・フォン・ラグナロクの暗殺。この業界ではもはや禁忌とも持て囃される人間の暗殺だ。死ねと言われているのとなんら変わりはない。
バカ真面目に最後まで命令に従って無駄死にするよりかはこの男を殺して逃亡劇でもかました方がよっぽど有意義だろう。
ただでさえ最下層とも呼ばれるスラムで生まれ育ちさも当然のように犯罪組織の駒として今まで散々に扱われてきたのだ。ものの見事に殺人兵器と化した自分にもはや目立った感情はないとは言え多少の苛立ちはある。
もともとスラム街出身の中でも一際ずば抜けた容姿と卓越した魔法の才能が自分の売りだった。
だからこそ同期の中では群を抜いて仕事をこなす年齢になると依頼達成率はほとんど完璧にまで近い成績を叩き出している。
依頼の内容はそれえこそ千差万別で諜報や強奪、暗殺、死体処理、隠蔽工作。それこそ国家絡みのものも少なくない。それでも貴族の殺害となればまた話は代わり熟練の人間でも成功率は半分にも満たない。
それは警備に当たる騎士の邪魔であったり屋敷全体に張り巡らせられている防御結界だったりが関係してくるのだ。
どれだけ綿密に計画を立てたところでほんの些細なズレが命取りとなる世界だ。【絶対】なんて存在しない。
そんな血塗れの世界で唯一の癒やしが私のある趣味だった。私がまだ感情を失わないでいれる最もたる要因。
私は可愛い物が好きだった。
誰よりも、何よりも、愛していた。見るだけで心が癒やされたし、得をした気分になるものがそれ以上になかった。
その趣味はたまに貴族の家に潜入する際侍女として働くことでよく満たされた。
可愛いものを集めて育ったような貴族令嬢がさらに私の手で光り輝くようになるのを見るのが唯一の楽しみと言っても過言じゃない程だ。
その人間一人一人に似合う髪型や服の形などを教え、絶大な信頼を預けられるために仕事を容易にこなせる。まさに一石二鳥とはこのことだろう。
そんなこんなで今まで結構楽しんで生きてきたつもりだ。十七歳の誕生日として先日一目惚れしたテディベアだってまだ新品なのだ。
こんなところで死んではいられない。が、組織を裏切れば間違いなく制裁が下る。その光景を散々嫌と言うほど見せられ自らも手を下したことがある立場としては拒否権など端からないのだ。
一瞬黙りこくったがすぐに切り替えて了承の返事を返す。未だ鋭い眼光は続いているがどうせ裏切って逃亡するのか疑っているんだろう。もしかしたら依頼の前に殺されるのかもしれない。
少なからず帝国有数組織のボスだというのにいい加減その疑い癖はみみっちいものだと嘲笑ってしまう。
実力では今の私とほぼ互角、地道に礎を築いてきただけで本来君臨者が持つべき素養も欠落している男。
そんな人間を私達は父と崇め従ってきた。それこそ奴隷のように…。そしてこれからもそれは変わることがないだろう。いつか組織自体が別勢力に呑み込まれるその寸前まで。
組織とはそういうもので、勢力争いに負け名を忘れ去られた数々を知っているからこそこの無情な現実を簡単に飲み込めるのだろうか。
すっかり元の感覚というものを落としてしまった私にとってもうどうでも良くなるようなことばかりだったけど、いざ死ぬと思えば案外無駄なことばかり考えてしまうものだ。
依頼から数ヶ月。できる限りの計画を立てさらには拘束された際の自死用の薬と万が一の逃亡ルートも用意した。まぁどうせ全部無駄になるんだけど、やるだけやった方が後悔もない。
決行当日。当初の予定とは大幅に異なり酷く閑散とした内部の造りにもはや罠ではないのかと呆れ、しかし誘われていると感じれば弄ばれていることへの自虐が募る。
皇帝の寝室に近づくに連れ騎士どころかメイドの一人も姿を見せない。
仮にも今暗殺を実行しようとしている対象は現人神として崇められている正真正銘の化け物。あの境地に至った人間に護衛などもはや無用の用であろう。
しかし唯一寝室の扉の前には皇室騎士団長のヘルメス・ディ・レグナントが存在していることから護りとしては十分すぎる程だ。むしろ他に人間がいることのほうが返って足手まといである。
もはややけくそで考えた計画通りに行けば魔道具で寝室の空間を切り取り外部からの侵入を阻止する。それもヘルメス卿相手には持って数分だろうがどうせその間に私の首は吹き飛んでいるだろう。
窓の外の木の葉の影に隠れて皇帝の様子を伺っていたが情報収集を始めてからずっと日昼関係なく仕事に勤しんでいる様子を見ると本当に人間なのかと疑ってしまう。
少しでも弱っていてくれればと叶わぬ願望を抱いて一つため息に近い呼吸を置くと皇帝と視線が合ったことに気づく。
いつ気づかれたのか、気配は最大限に消していたつもりだ。いや、そもそも気づいていながら放置していたの方が正しいのか。
ひとまず目が合った瞬間殺されるようなことはなかったようだ。ジッ…と見つめるというよりかは私の存在を無視して外の景色を見ているといったようだ。こんな、曇天とした何も無い空を。
目元にはクマが何重にも重なり威圧的な殺気も感じないがそれでもやはり心の臓が竦むくらいの上位者からの圧は確かに感じるのだから流石だ。
私達のなんちゃってボスとは格が違う。
伝説上の竜と相対しているかのようにも感じる、生命としての格。敵とすらも認識されていない面倒な羽虫に向けるような視線はいくら経験を積んだとしても得られるものではないだろう。
だがここまで来て逃げるのも手間なのも事実だ。
どうせ死ぬならさっさと首を切られた方が楽だし手っ取り早し。裏切り者として薬物漬けにされ娼館でマワサれるよりはずっと…。
覚悟を決めてとっくの昔に施錠もされていない窓から楽々と侵入する。僅かな気配の感知にヘルメス卿が扉を開く前に起動した魔道具。どうやら値段分の性能は示してくれたようだ。
「…出ていけ。今は相手をするような気分じゃない」
「私だってできることなら相手なんかしたくないわよ。だけど逃げることもできないの」
堂々と部屋にまで侵入したのにまるで子どもを邪険にするような扱いに思わず笑ってしまう。素顔も明かしているのにどうやら目の前の書類の方がお好みのようだ。
大抵は見惚れるか激昂しながらもこの美貌にたじろぐというのに、皇帝は一切そういった反応を示さなかった。亡き皇妃を一途に想っているという噂は変わらず事実なのだろう。
足に帯剣していた短剣を何本か皇帝に向かって投げる。脳天を狙ったつもりでも全て素手で止められてしまった。だけどここで諦める訳もなく間を開けずに魔法を展開させ皇帝を襲った炎も今度は剣で真っ二つに切られてしまった。
どこまでも現実離れした人間だ。普通剣は魔法に叶わない。剣気と呼ばれるオーラをまとえばまた話は別だが本来の剣では絶対に有り得ない事象なのだ。
ハハッ…と乾いた笑いを浮かべていると男の剣がすぐ目前に迫っていた。それをギリギリで受け止めつつも凄まじい威力で身体は悲鳴を上げ数mといとも簡単にふっ飛ばされた。
壁がめり込み身体中にはありとあらゆる打撲痕ができる。しかし息をつく日まもなく二撃、三撃とやってくる攻撃を回避しながら回復に回るのは到底困難を極めた。
すると数撃加えた後、何を思ったのか動きがピタリと止まる。そしておもむろに手を私の方へ向け、まるでそちらから来いとばかりに誘うのだ。
散々痛めつけた癖に何をとも思ったがこの場の支配者に逆らえるはずもなく痛む身体を無視して連撃を打ち込む。
防御に魔力を使ってすっからかんになったため後は全て身体強化に全振りして最高速度の剣技を繰り出すも何ともあっけなく全て片手で防がれる。
直接相対して実感する、ふざけるなと思わず笑いたく為るほどに開いた実力の差。長年に積み上げてきたものがまるで子どもをあしらう我のように無碍にされるのだから溜まったものじゃない。
そして私を見るその瞳からはまるで殺す意思を感じ取れないのが不思議だ。この一連の行動からまるで私の体力を削っているような感じなのだ。
この実力差であればわざわざ隙を突かずとも即死させることができるだろうに、なぜ無力化させるなど面倒なことをしているのか。
理由は分からないがひとまず腕の力が消え剣を床に落とすまで私は攻撃を続けた。
カシャン……、ッ
あがった息と剣が床に叩きつけられるような音が部屋に響く。皇帝は動く音や呼吸の音さえもしないのだから余計にその音は強調されて感じるのだ。
足もとうとう限界だったのかその場で崩れ落ち、首筋にはヒタリと冷たい刃が当たる。はっ…はっ、…と息のあがった身体にはその冷たささえ気持ちよく感じるものだ。
「首謀者の名は?」
短的な問いに答えることはできない。そもそも使い捨ての駒にわざわざ必要以上の情報を与えたりはしないのだから。
皇帝もある程度気づいてはいるのだろうが、それでも私の所属している組織の背後関係を洗い出すために拷問でもするのだろうか。自死用の薬は歯の中に仕込んである。それを飲み込むのが先か、止めるのが先か…。無謀な賭けだ。
「ねぇ、一つだけ最後の頼みを聞いてくれる?」
「首謀者の名は?」
「聞かされていなことだって分かってるんでしょ? ねぇ、お願いだから…。せめて楽に殺して欲しいのよ。苦しいことはもう十分に味わったじゃない」
私は見下ろす皇帝から目を離さなかった。離したら最後、何の感情も宿さないその瞳は簡単に私の首に刃を突き刺すと知っていたから。
「お前の望みはそれだけか?」
皇帝の視線が突き刺すと同時に刃が皮膚を切りながら首に食い込む。まるでたったそれだけかと聞かれているようだった。そんなものか、と。
そんな訳ない。できれば生きたいしまだまだやりたいことなんて五万とある。それに私はまだ夢を叶えていないのだ。
だから、だから私の望みは……。
組織のボスはユディットにはまだ利用価値は有りましたが依頼人がまた無視できないような立場の人間であったために必要最小限の犠牲として切り捨てられました。
ですがこの後ちゃっかりラクロス達の勢力によって跡形もなく潰れています笑。