名無しの過去
・ 【ユス卿視点】です。
ドチャッ、グチャ…、グチュ……
血生臭い耳障りな音が、脳裏にこびりつくように鼓膜を通過する。
地面の見えなくなった場所で人間も魔物も同様に骸となって一色多に転がっていた。
新調して支給された服はもはや使い物にならず、考えるのはこの近くに水辺はあっただろうかというこの状況にはそぐわない無気力なものだった。
平凡で、貴族の中では貧乏な子爵家の婚外子として生を受け物心ついたときには母という存在はいなかった。
記憶の片隅には確かに存在しているが、最後の記憶は馬小屋の奥で半裸の状態で血だらけになって微かな呼吸で生き凌いでいる姿だった気がする。
当時は不況に煽られ誰も人を助けられるような状況ではなかったから、仕方なく一人夜に穴を掘って素人ながらに供養したのだ。
しかしもうその墓でさえ訪れたのは随分前のことで、今もなお原型を残しているのかは定かではない。
別に母親からの愛情がなかった訳では無いが、自分が母親を愛していたかと聞かれるとそれも分からないと答えるだろう。供養したのは家族として恩を受けた最低限の義務であり、それ以上の感情もなかった。
母親からの庇護を失った後は各地を転々とし、時には物乞いや盗みを犯してその日その日をやり過ごしていた。
夏の日はカンカンと照らす太陽に雨水の少しでも貴重だったが、冬はもっとキツかった。
手先の感覚が曖昧になり雪を食べて耐え忍んでいたときもあればたった一枚のボロ生地の為に子ども同士が殴り合っている姿は見かけることも多々あった。
スラムで暮らす人間は、普通に生きる人間達の何倍も一日一日を必死に生き足掻いていた。
それは人間として素晴らしいことなのか、間違っているのかは今でも分からない。
道理も義理もなかった表とは決して交われない世界だ。それでも、確かにあの場所は自分の数少ない居場所でもあった。
スラムでの生活は日常での感覚を磨き、傭兵としての仕事に着いていく年になればそこでは暴力を学んだ。
熾烈な上下関係と共に繰り広げられる理不尽なまでの暴力。
たまに魔物の餌として生身で放り投げられることもあったがその度に生きて戻ってきては自分が死ぬことに賭けていた奴らにボコボコにされた。
だがそれも二年程経てば立場も変わっていった。
十分な食事で栄養を吸収した身体は日に日に筋肉を着け、死闘をくぐり抜けた身体は反射で殺気に反応できるようになった。
その頃にはもう以前俺に暴力を振るっていた男達の顔の原型がなくなるまで殴り倒し、二度と歯向かうことのできないようにすることも容易だった。
復讐と言えば聞こえは良いが、ただ何度も突っかかられるのが面倒だっただけだ。
永遠と殴られたことも、ダーツの的にされたことも、吐くまで腹を蹴り上げられたことも、どれも自分にとってはつまらないことだったから。
さらに当時の頭が言うには自分の戦闘センスに関しては飛び抜けていたらしく、年が20や30上の大人相手にも軽々と立ち合えるようになってからは仕事も増えた。
だがそんな生活に馴染んでいったのも束の間。新たに帝国皇帝となった男が一斉に国防を強化してからは徐々に仕事がなくなり、食い扶持のなくなった傭兵団はあえなく解散し分裂した。
それから手に職を持つために募集してあった帝国騎士団に入り、見習いから始めて平民でも受け入れられる下級騎士としての生活に順応している。
たとえ騎士団であろうと規律や階級などの戒律でまた暴力などもあったが今度は甘んじて受け入れた。ここは傭兵団とは違い正式な騎士団である為に今まで通りには行かないと分かっていたから。
それでも下級騎士はほとんど捨て駒のような役割で、最終的にその管轄で自分より歴が深い人間はごく少数しか残らなかった。
できるだけ影を薄く過ごし、ある程度の仕事をこなし寝て食って殺して過ごす日々。
そこには一番平穏という言葉が似合っていたのかもしれない。
わざわざ昇給したいとは思わなかったし、これ以上しがらみを作るのも面倒だったから昨日飯を共にした者達が明日には墓に入っていようとこの環境が丁度良かった。
そう。自分という、怪物に鎖を繋ぐ為には…。
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聖女様との出会いは、軍に入隊して三年の月日が経った頃のことだ。
久方ぶりの外国への支援要請での遠征。聖国から聖女様も派遣される大規模な魔物大騒動。
騎士団の中では張り詰めたような緊張が一律に走り神経を尖らせている。
それもそうだ。
この戦いで生き残るかなんて実力のある人間以外確証できるはずもない。戦場では弱い人間から死んでいく。それが綺麗事では覆すことのできない真理だった。
そして冒頭通りに誰もいなくなった戦場で一人、剣を振るうのだ。
目の前で同僚が食い殺されようと、助けようと思う気持ちは微塵も湧かなかった。ただ早く、苦しまずに死ねるようには思った。
自分はもはや正常ではない。いや、もとから正常とはかけ離れているのだ。
傭兵達に暴力を受ける前から、スラムで暮らす前から、母を殺される前から、自分に感情とやらは機微たるものだった。
コレは治らない。治そうとも思っていない手前、意味もない。
まるで化け物になったかのような気分だった。
いや、そもそも人間も魔物も等しく胸の内に焦がれるほどの欲動によって蹂躙してしまう自分は、果たして人間なのだろうか…。
ずっと考えていた、自分が生きる意味。存在する理由。その全てが無意味と分かっていても考えずにはいられなかった問い。
ずっと囚われていた。こんな怪物が人間の皮を被って、人間を装って生きていても良いのか。人間のなり損ないが立派に顔を上げられなんてできないのではないか、と。
そしてその問いの答えは、あの方に出会ってようやく巡り会えたものだった。
「今日はそよ風が気持ちいですね」
皆が撤収作業に勤しんでいる中自分の管轄の仕事を早々に終え草丘で適当に暇を潰していた時、唐突に聞こえた幼い声。
最初は気のせいかとも思ったがスッ…と何気なく横に腰を下ろした小さな存在に今度は不思議と興味を引いた。
限りなく存在を消していたはずなのに一体どうやって自分を見つけられたのか、そして何故自分のような一下級騎士に声を掛けたのか。
その身につけた衣服から到底同じ目線で話すこととなどできない身分だとは承知の上だったが、此処には自分と彼女以外いない。
それから幼い彼女は永遠と一人で会話を続けた。決して返事もしなければ相槌さえ打たなかったと言うのに、何が楽しいのかより一層声を弾ませて話す彼女が物珍しかった。
その時の自分には、彼女の奥底に隠れる本当の声には届くこともできずにいるとはまだ知らずに…。




