失楽園の体温
女にとっての一番の幸せは、母親になることだと言う。
子を産み、育て、貴族であれば立派な後継者にさせることが正解なのだと言うのが未だこの世界の常識として根強く定着している認識だ。
子息として生まれれば正統な家紋の後継者に、子女として生まれれば嫁ぎ先を見つけ次代の後継者を産むことこそが価値だと押し付ける思想が今では違和感を持つことのないのだから堪らない。
もし、私がこの子を産めばそれはきっと祝福されるべきことなんだろう。当然のように生命の誕生は平等に尊いものなのだから。
だけど、父親がいなければ…? それも無理矢理合意のない行為の末産まれた子どもだといつしか知ってしまえば?
未婚で子どもを持つ女性への偏見は前世よりもずっと根深い。
宗教が当たり前のように浸透している世界だからこそ純血に面持ちを寄せるのは仕方のないことと言えど、無理矢理孕まされた女性は家族にも非難され時には自殺さえも簡単に手を取ってしまう。
世間から向けられる売女と揶揄される嘲笑と軽蔑の視線に、本来娘を守るべき家族から向けられる罵倒と貶めるような言葉の数々に疲弊した彼女達の行き着く先などいつも同じだった。
聖女としてその光景は幾度か見たことがある。
その度に、この世の汚さに辟易としたものだ。なんて醜い世界なんだろう。自分は正常だと感じるためだけに他者を陥れる彼らの方が私にはよっぽど気持ちの悪い。
そんな世界で、…私は本当にこの子を産めるだろうか?
いずれにせよ後悔は必ずするだろう。たとえ何方の選択をしたにせよ、後悔しないことは絶対にない。
子どもを堕ろせば罪悪感に囚われ過去に縛られる。子どもを産めばその責任と一生涯付き合うことになる。
まだ母親になる覚悟も何も持っていない私にその責任に向き合うことは完璧になどできない。
もしかしたら子どもを憎いと感じることがあるかもしれない。怖いと思うことがあるかもしれない。
殺してしまいたいと、壊れてしまうこともあるかもしれない。
理想の母親像に押し潰れて嫌気が差すかもしれないし、どれも全部不確定の事象でありながら鮮明な未来だ。
それでも私は、欲張ってもいいだろうか。
【家族】が欲しいと、願っても良いのだろうか。私一人のせいでこの子の一生涯の責任を必ず誰かが支払っていく。人は一人では生きられないのだから、沢山の迷惑も掛けるだろう。
それでも私は、一度は夢見た未来を諦めたくないのだ。折角すぐ手の傍にある宝物を、自らの手で手放したくはない。
おじさんの服を掴んだ手をぎゅっと握って、私はようやく自分の思いの丈を全て吐き出した。
「おじさん。私…、産みたい。私の赤ちゃん、産みたい…っ」
「…アルティナ。今は混乱しているだけで、また時間をおいて」
「ううん…、違うの。たとえどんな子であっても、この子は私の子だからっ…。だから、産みたいの。もう何も諦めなくていいって、おじさん言ってくれたでしょ…?」
「だがこれは…、ッ゛」
「分かってる‼ おじさんが、私の為に堕ろしたほうがいいって言ってるのも、イェルナ皇妃の件があったのも。…でも、ごめんね。これだけは譲れないの。」
おじさんが唯一后に迎えたイェルナ皇后は、エルネを出産したその日に亡くなった。
元々身体の弱い方だったのにも関わらず、出産すれば死ぬと分かっていながら産むことを選んだ彼女と私をおじさんは重ねている。
それに私は病み上がりも途中でまだずっと身体が幼いから、余計にそうだ。
前世でも出産は経験したことないから、死なないという確証はない。どれだけ痛いのかなんて想像もつかないし、未だ自分のお腹にもう一つの命が宿ってることすら信じられないぐらいだ。
「…どうしても、産みたいんだな」
「ぅ゛ん…。私は、この子を殺したくない。折角授かった命に、背を向けたくない」
色々考えて、やっぱり私の下した結論は変わらなかった。
愛せるかも分からない、まだ人間の形もしていないそれにどうしてここまで執着するのか自分ですら分からない。
だけどやっぱり、この子に私の世界を見せてあげたいと思ってしまったのだ。
この喜びに満ち溢れる世界を、幸せで眠る時間を、私の大切な人達を、この小さな命に全て与えてやりたい。
私の人生に少しでも、幸せな思い出が欲しいのだ。
自分を悲観し嘆くようなことはもう飽きたから、今度は誰よりも幸せに生きてみたい。そしたらきっと、過去の呪縛を終わらせられる。
「そうか…。後悔しないか?」
「…どうだろう。するかもしれないし、もしかしたらしないかもしれない。だけどこれは私が選んだことだから、その責任だけはちゃんと取るよ」
私はおじさんに危害が及ばない限り私の全てを掛けてこの子を守れると誓える。
替えの効く私の何千の命を全て捧げても、守るよ。それが私なりの精一杯の愛情だから…。
「ほら、泣かないでよ…。おじさんを見捨てたんじゃない。私は私が選ぶ最高の選択をしたの。全部私の我が儘なんだから、おじさんが悪いわけじゃない」
「…っお前まで、イェルナのように俺を置いて逝ってしまったら」
「そしたらおじさんが壊れちゃうでしょ? もしそうなっても死物狂いで戻って来るから、絶対におじさんを置いては行かないよ」
柄にもなくクマの酷い頬につぅー、っと静かに涙を流すおじさんの両頬に手を当てて温もりを半分こに分ける。いつの日かおじさんがそうしてくれたように…。
それにしても、おじさんが泣く姿は初めて見た。
たとえどんなに酷い状況でクマを増やしていたとしても、想像もできなかった光景に内心ちょっと驚いてはいる。
それでも、大好きな人が自分じゃない誰かのために命を賭けるなんて絶対に嫌だっただろうなぁ。
もしオルカ達がこの事実を知ったら問答無用で殺しそうだし、その点選択肢を与えてくれるだけ優しいんだよねぇ…。
まぁ感覚がバグってるだけで何が普通なのかを忘れた私にとってはもうどうでもいいことなんだけど、折角ならこの子も皆に祝福されて産まれてきてくれたほうがずっと良い。
ねぇ、そうでしょ…?
そんな風に問いかけながら、私は自分のまだ膨らみの一つも感じられないお腹を優しく撫でた。
先程まではろくな体温も感じられなかったというのに、今では確かに鼓動が脈打っている感覚がして不思議でならない。
ずっと私を守ってくれていたんだよね。あの牢獄で孤独だった私の傍で、貴方はずっと…。
あぁ…、嬉しいな。何もなかった、空っぽだった私がおじさんのもとへ帰ってきてからずっと満たされていく。
これが喜び。これが安らぎ。これが幸せ。私が欲しかった、全部。
そしてそれを与えてくれた、私の光。私の太陽。私の救い。私の…、【神様】。
ねぇ、おじさん。私、貴方と生きたいよ。このいつ終りがあるかも分からないあやふやな生を、全部貴方と過ごしたいよ。
だから、一緒に幸せになろう? おじさんと、私と、この子と、皆で、…幸せでいようよ。
いつか崩壊する楽園と分かっていても、どうか今だけはこの本物で仮初の幸せに浸からせて欲しいの。
そしたらいつかこの夢が冷めても、まだ絶望せずに希望を持っていられるでしょう?




