もう一つの真実
・ 【皇帝】視点です。
彼女を皇宮に連れ帰ってきて一日、二日と流れ早くも五日が経過していた。
その間彼女が目覚めることは一度もなく、死人の様な血色が更に濃くなるばかりだった。
雨に濡れて冷たくなった手はどれだけ熱をやろうにも一度手を離せば急速に温度は冷えて生きた心地がしなかった。
皇帝としての執務も全て投げ出し、ただただ彼女の看病に身を費やした。いつ目覚めても良いように一睡もすることなく、身体に鈍りが出ようと構いやしなかった。
そんなことよりも一向に目覚めようとしない彼女がいつ死んでしまいやしないかと漠然とした恐怖だけが思考を塗りつぶしてしまうほどに覆い尽くしたからだ。
臣下から催促の嘆願書が出ようと、数年と顔を合わせていない第二皇子から謁見の報告があろうと、決して彼女の側を離れはしなかった。
時折様子を伺いに来るティオニス以外、誰一人としてこの部屋に入ることを禁じた。
「陛下。このままではお嬢様の御快復の前に先に陛下がお倒れになりまする」
「…だからなんだ? そんな下らないことを口にしたからには、当然与えた仕事は全うしたのだろうな?」
「…はい。伝手を掻き集めまして、ようやく今朝完成いたしました」
「御択はいい。さっさと始めろ」
つまらなことを長々と喋るティオニスを黙らせて、早速禁術へと取り掛かった。
ティオニスの指示通り彼女の手を握りつつ根源の魔力回路を繋げる。直に繋がった今ならば彼女の魔力量の膨大さがどれだけのものなのか分かる。
身体全体を余すことなく魔力で満たしながらそれを誰にも気取らせないために魔力回路を奥深くにしまい込んでいた。
これではほぼ魔力もないも同然で、錆びきった回路から当分当初の資質通りに魔法を扱うことは困難だろう。
何不自由なく魔法の道を極めればそれこそ世界がひれ伏す大魔道士になっていただろう可能性が、こうして見えない内に無慈悲に軽々と摘み取られていく。
恐らくその選択をしたのは彼女自身なのだろう。
自身のためか、はたまた別の誰かのためか、何方にせよ己の手で未来を潰したも同然の仕打ちに再度腹の中から憤怒が呼び覚める。
一体誰が彼女をこんな目に合わせたのか。もしその顛末の一端でも握っている人物がいたとすれば、決してただでは死なせない。
この世のありとあらゆる苦痛を味あわせ、自分がムシケラ以下の存在だと自覚させてから、ゆっくりと生きたまま臓物を獣に引き摺り出させその掃き溜めのような内蔵を咀嚼させてやる。
彼女が味わった何百、何千倍もの恐怖と絶望をくれてやらなければ到底この気は収まることを知らなかった。
ティオニスの唱える詠唱が進むに連れ、自身の魔力回路から蛇口が壊れたかのように津波の如く魔力が彼女へと流れていく。
ごポッ……、⁉!
口から咽た血を握った手のもう片方の手で押さえながら、意識を確実に彼女へと集中させる。
機会は一度きり。失敗すればもう後がないと事前にティオニスから聞かされていた。
途中想像を絶する激痛に苛まれるだろうが、絶対に繋いだ魔力回路を断ち切らないこと。もしも断ち切れば流していた魔力が行き場を失い暴発し互いに無事では済まないと。
此方が呑み込まれそうな勢いで魔力を吸い尽くしていく彼女の手を更に強くグッ…と握り、肺が押し潰れそうな重圧に藻掻き耐える中、俺は少しだけ笑った。
これは彼女が生きようとする証だ。
だから、好きなだけ持っていくと良い。望む分だけ、余す分だけ持っていくと良い。喰らい尽くして、満腹になったのなら、そのまま目覚めてくれ…。
視界が途切れ途切れになった瞬間でも、決して手を離すことなく意識が戻った頃には全てが終わっていた。
結果、彼女は未だ目覚める気配はなくとも寿命の件は問題なく解決したらしい。その代わり俺の寿命の何割かが減り皇族特有の稀有な回復力も喪失したと言うがそんなことはどうでもよかった。
まだ重力に慣れきらないかのように鉛のような身体を起こして、俺はそのまま彼女を抱える。
ティオニスに無茶をするなと提言を食らったが、今の俺にはただの五月蝿いノイズにしか聞こえない。
まるで音とも聞き取れないし、文字に似た黒い蟲が耳の中を這えずり回るような感覚がただただ不快だった。
俺だけが動かすことの出来る転移魔術陣で記憶と何ら変わることない懐かしい宮殿へと彼女を案内する。
と言っても深い眠りから覚めることのない彼女をまたベッドへと移して、その隣に掛けてある椅子に腰掛けるだけだが…。
改めて現状を確認するために自身に内蔵される魔力を観察すれば、魔力回路の損傷が深刻な状態で回復には暫く掛かりそうだった。
想像以上に魔力がごっそりと持っていかれたな…。三割…、いやほぼ半分近くだな。
ぐらりっと感じたことのない倦怠感に襲われ恐らく人生で初の魔力欠乏の症状を味わうが、たったこれしきのことで彼女の命と換えられるのならば歓びすら感じた。
それと魔力回路を繋げたことで新たに知った事実、それについて考えなければならないと思うと同時に瞼が下がる。
もはや自分の意志で身体の制御が追いついていないのか、強制睡眠状態へと身体が適応し始めれば為すすべはない。
皇宮のように騒々しい雑音もなく、カーテンの隙間から零れ落ちる木漏れ日だけが優しく彼女を祝福しているようで気分がいい。
数日ぶりの睡眠と魔力欠乏も相まって、丸一日と熟睡する羽目になってしまったが隣の眠り姫は未だ眠りについたままほんのりと血色の戻った頬がその眠りの心地を告げている。
少なくとも、今にも死にそうな状態からは脱却したと考えればまだ救いはあるのだろう。
…だが、まだ完璧とは程遠い問題が残っている。考えたくもない事実だが、今の彼女は俺がかつて最も愛した人と同じ状態にある。
新たな命を、小さながらも確かにその身体に宿しているのだ。まだ幼いこの身体に、決して望んだとは言い難いほどの状況で…。
この子はこの事実に気づいているだろうか。もしそんな事実を知ることさえなければ、俺はもう彼女のときのような過ちは繰り返さない。
この肚の中の怪物が母体を喰い破りこの世界に辿り着く前に、迷いなく俺はその命を途切らせてしまうだろう。
だが、それがこの子にほんの少しの影響でも及ぼそうものなら俺にはできない。できるはずもない。
守るために傷つけてしまえば、それこそ彼女のときと何ら変わりないのだから…。
…この子も、また彼女と同じことを言うのだろうか。
自分の命など差し出して、自らの肚に宿る怪物を産みたいと。俺に止められるはずがないと信じ切ったその目で、最期には俺を残して消えてしまうのだろうか。
過去は繰り返さない。そう固く心に決めたはずの覚悟は、きっと彼女の一言でいとも簡単に崩れ去ってしまうのだろう。
強制なんて出来るはずもない。彼女がそうしたいと望むのなら、叶えてやらない選択肢など始めからないのだから。
それでも、それでもどうか…、俺を置いて行かないでくれ。
みっともなくまた縋り付く俺を、置いて行かないでほしい。俺を捨てて勝手に一人で何処か手の届かない遠くへ消えていってしまわないでほしい。
どこまでも身勝手で救いようのない願いだと分かっていても、どうかお前だけは…。
彼女のためにそんな背信的な祈りを捧げ続けたせいか、結果帰ってきたのは盛大な拒絶だったわけだが何とか時間を掛けて彼女の心をほどくことができた。
最初にあの拒絶を受けた時は死にそうな程ショックを受けたが今となっては完全に思い出話だ。
彼女に当時の様子を聞けばなんと意識はあったそうで、フラッシュバックから身体と意志が乖離した状態だったらしい。
それを聞いて安堵すれば良いのか怒ればいいのか複雑な気持ちにはなったが、彼女自身が気にしていないのならそれでいい。
それと名前を何らかの事情で名乗れないと言ったときには俺が名付けた。
いつかイェルナと話した、もしも子どもが生まれたときに名付けようとしていた名前。
全知全能の神の娘でありながら、文献では神の中でも最も人間を愛し導いたとされる女神アルティナ。
二人で偶然話していた時、互いに同じ名を思いついたのだからまるで運命のようにも感じた。
それも今となっては時折思い出す苦しい過去となっていたが、彼女にその名前を与えてからというものイェルナのことを思い出す時間が増えていった。
今までは過去を受け入れようとはせずイェルナとの記憶も全て奥深くにしまい込んでいたが、アルティナと過ごす時間の全てにイェルナが隣りにいるような感覚がするからか、何故かはわからない。
ただそれでも、イェルナが死んでしまって以降空っぽだった俺の心は確実に満たされていた。
あの絶望に比べれば、今が全て幻にすら感じる。これは本当に現実なのか。また目覚めれば全て消えてなくなってしまう白昼夢なのではないか。
この幸せの中で、漠然的に感じる不安。あの時は感じることすらなかった、幸せのあまり感じてしまう未来への不安だ。
そしてその苦しささえもいつか呑み込んでしまえるほどになったとき初めて自分を好きになれるかもしれないなと馬鹿げたことを考えては、今日もまた笑った。
この世界で魔力回路はほぼ第二の心臓の役割を果たしておりそれを繋げるということをお互いに心臓が外部に剥き出しで攻撃されれば一瞬に崩壊する危険性が伴います。
それを躊躇いもなく実行したカフス(皇帝)は勇気があるというより愛を逸脱した狂気ですね(笑)
因みにアルティナを蝕んでいた刻印はこの時に消失しました。
刻印者以外が破壊するためには魔力回路を犠牲にする程の限界が必要でしたがカフスにとってはそれが丁度自身の魔力の半分だったみたいですね。
追伸:途中『彼女』と『この子』で入り乱れます。すみません。
基本的に『お前』はアルティナを差します。名前がないので別称ですね。
カフスは基本的に過去に恋愛感情として愛した人がいたのでアルティナとその人と重ね合わせている節は少なからずあります。