大義のない善意
応接間まで到着すると、私はドアを開けて卿が先に部屋に入るよう誘導する。
これは普段招待されるべき立場である私が聖女としていつも取引相手に行う接客行為で、これに違和感を持つこと自体存在の証明になってしまう。
だから決して反応しないよう、半ば強引に部屋の中へ押し入れると対となったソファに腰掛けるよう促した。
「では、改めまして。お待ちしておりました。今日はあの件のことに関してのご報告ですね」
扉には鍵をかけ、密室となった部屋でも適当にそれらしい言葉を繋げる反面机の上に置いてある紙で綺麗にさらさらと書き進めていく。
『盗聴されています。筆談でお話しましょう』
「………」
コクッと軽く頷くと、すぐに私に合わせた会話と新たな筆談内容をくれた。理解力が高いのは助かる限りだや。
まぁ実際盗聴されてるかなんか定かではないしそんなことが分かるほど能力は優れていないけど、警戒するに越したことはない。
『あの部屋で行われていることは、神殿の公然の事実でしょうか?』
『それについて私からお答えすることは叶いませんが、今回の件につきましてはひとまずお礼を申し上げます』
『…今後もまたあのような行為が繰り広げられるのですか?』
『詳しい事情を申し上げられません。ですが私以外の被害者は出しませんので今後同じようなことがあれば知らぬ振りを通してください。貴方にまで危害を及ぼしたくありませんので』
『それは聖女様の本当の意志ですか?』
その内容に、淡々と繰り広げられる筆談が初めて止まった。
…本当の意志?
……どうなんだろう。でも、またこうして助けてくれたとしても先延ばしにさらに酷くなるだけだから。
明らかに不合理であると分かっていながらそれに賭ける自信は私には無い。
それに卿も目を付けられただろうし、これ以上迷惑を掛けたくない。
先ほど名乗った帝国騎士第一団所属というのが本当なのだとしたら一介の兵士からとんだ大出世だ。
平民が貴族になるのと遜色ないほどの功績なのだから、こんな厄介事に首を突っ込んでいる余裕などないだろうに…。
『…全て神のご意志でしょう』
私は卿の問いに、限りなく曖昧な答えを返した。
全てが偽りではないけど、ニュアンスで言えば限りなく近い言葉だろう。
そこに私の意志はなく、清廉潔白を掲げる神様の暇つぶしにも似た采配があるだけ。
…いつからか、助けを求めることが怖くなった。だって皆皆、私のせいで死んでいくのだから。
最初は何も知らない人が同情で親切にしてくれたことはあった。
だけどそれも今や遠い昔のことみたいに、色褪せた記憶となって零れ落ちていくだけの残骸となってしまった。
私が頼れる存在は徹底的に排除した先にあったのは、その元凶である獣達の腹の中だった。
幼き聖者の化けの皮を被った怪物によってすっかり膿んでしまったこの神殿内で、一体どうして希望を見出だせようか。
今だって、心の奥底ではおじさんの幸せをずっと願ってる。だけどそれは、助けを求めるのとはまた違う気がするのだ。
むしろこの地からずっとずっと離れたところで決して関わることなく生きていてほしいとさえ思っている。心からおじさんを想っているから、その分何も知られたくないとも思う。
それはきっと、愛なんかよりももっと高尚なものなんじゃないかな…。
見返りを求めず、ただただ相手の幸せを願い、自分の欲のまま巻き込むことのないそれを私達はなんと呼ぶのだろう。
名前なんてない、形もあやふやなそれを、私はずっと大切に抱えて持っている。それこそが私の持つ唯一の誇りとでも言わんばかりに、大切に…。
『私は聖女様に一抹の害を為す存在が承認されていることが許せません』
沈黙が短く続いた後に、卿は真っ直ぐと私の目を見つめて初めて自らの意志を語った。
そのことに驚くとともに、何故私に此処まで深く干渉してくるのか気になった。
ただの同情ならなおさら、神殿内で起きたことに仮にも帝国騎士である彼が下手に手を出して良いことはないと分かっているはずなのに…。
『…何故ですか? 何故、私に此処までしてくださるのですか? 同情ですか?』
『…大人が、まだ幼い子どもを守ることに大義が必要ですか?』
幼い子ども…。たった六歳しか離れてないのに、卿にとってはそんな風に見えるんだ。
ぁ…、駄目だ。何でかわかんないけど、目の奥がじんわりと熱くなってきた。
涙を堪えるために下を向いたけど、堪える度に顔全体に熱が広がっていった。
そんな私を前に、卿は何も言わず対面の席から腰を上げて私の方まで歩いて膝を着いて目線を合わせてくれる。
滅多に受けない気遣いは、たとえ些細なものだったとしても、礼儀上のことだったとしても心に強く響いた。
あぁ、そうだ。私、私は…、…誰かに助けてもらったことが、嬉しかったんだ。
自分が思っていた以上に、たった一度でも手を差し伸べてくれたこと自体に希望を見つけてしまったんだ…。
いっそこんな感情知らなければ良かったと後悔するぐらいに、なんて温かいんだろう。なんて、残酷な感情なのだろう。
もうこれ以上は感情が耐えきれないと言わんばかりに今まで笑顔の内に張り付かせていた本心が割れてヒビが入った側から溢れ落ちていく。
「…っ、゛t…。っぁ゛aa…っぅうう゛ッ‼」
気づけば彼の懐で声を殺して泣いていた。もう盗聴されてることなんてすっかり忘れて、声を押し殺した反動で喉が焼けるような痛みを生じても私は涙を止めることをしなかった。
きっとこれが、誰かの胸で泣ける最初で最期のときだと分かっていたから…。
「あぁぁ゛…、ぅう゛…t、úぅう゛…‼!」
涙や鼻水なんか構わず理不尽な怒りや憎しみをぶつけても、ユス卿はただ優しく呼吸しやすいように背中を撫でてくれるだけで、拒絶することはなかった。
その優しさが、開いた私の傷口に塩を塗るようなことだったとしても私はそのまま流されてしまいたいと思った。
「……n、っ…すぅ…。はぁ…、…」
「落ち着かれましたか?」
「…t、はい。みっともない姿を見せてしまってごめんなさい。もぅ、…大丈夫です」
これ以上崩れ落ちることは許さないとばかりの自戒の念が私を繋ぎ止めて、ぐっ…と卿の胸を押して離れる。
「…どうか、今回のことは忘れてください。私も、卿のことを忘れるようにします」
まるで恋人同士が別れる最期の言葉とばかりにすくっ…と立ち上がった私はまともに卿の顔を見れずに拒絶の言葉を言い放った。
無礼だと思われても仕方ない言動だけど、これ以上卿を巻き込まないためだ。私の一時の安寧の為に、卿を犠牲にすることはできない。
これが何の無関係な人間なら構わなかったのに、一度救ってもらったから。だから、恩には恩で返さないといけないんだ。
こうして私達の関係は一度そこで途切れた。卿は私の無礼に物申すこともなく、受け入れたから。
その日の夜、オルカは緊急の仕事が入ったようで恐れていた悪夢は訪れなかった。
そして卿はその翌日に帝国騎士団とともに帝国への帰路につき、それ以来顔を合わすことはなかった。
あの時点ではまだ名前は分かっていなかったし雰囲気や体格も前と一層変わってるから気づくのに時間は掛かったけど、鮮明に思い出した今では嬉しいぐらいに何も変わっていないことが分かる。
「…明日、ちゃんと話さなきゃな」
窓辺から見える夕焼けに染まった空を見つめながら、過去を背けてばかりいた私がようやく前に進める気がした。
ユス卿は一応過去編で名前を名乗っていましたが意識が朧気で声の特徴しか聞いていなかったのでアルティナは知らない設定です。