止まない恐怖
ぁヅ…、がぼぼボボっ?!!! ッゲホッゲホ…ッツ‼!
喉が焼けるように苦しい。慣れたはずの痛みが、何処か途轍もない違和感を持って襲いかかる。
そしてこういう時は決まって見る、三日月の形をした目。薄く引き伸ばされた目の間には【黄金】、【緋色】、【淡緑陰】の瞳が六つ映し出された。
周りが真っ暗に塗り潰されている中妖しくギラつくその瞳が、私は死ぬ程嫌悪していた。
お姫様が憧れるキラキラ闇夜に輝く宝石は私に苦痛を与え、尊厳を尽く壊した。
逃げることも、立ち向かうことも許されなかった惨めさが、獣に分かるだろうか。人間の道理を、理念さえ捨てた獣風情が…。
「シルティナ。いい加減意地を張るのを止めたら? 俺を受け入れれば永遠の名誉も、莫大な黄金も、世界の覇権ですら思うままにできるんだよ?」
ぶくぶく…と泡立つ水面から無遠慮に引き上げられ、耳鳴りが酷い中囁かれた甘い言葉などノイズにしか映らない。
永遠の名誉? 莫大な黄金? 世界の覇権?
一体誰がいつそんなことを望んだのだ。私が欲しいのは人間として最低限保証されるべき権利だった。
名誉の裏で身を穢され、黄金の差し出す手は肌を喰い破り、世界の覇権など興味もない。爪で弾けば泡となって消える幻に何の希望を持てば良かったのだ。
「どう頑張っても俺はシルティナを手放せないんだから…、もう折れてよ。…早く俺を愛して」
ヒュー…、ッ ヒュー……ッ、ッ゙
微かな呼吸で生命をなんとか維持できている私の状態はもう最悪で、ガンガンと激しい頭の揺れを感じては耳鳴りが響いている。
いつ意識が飛んでも不思議じゃない私の何が気に障ったのだろうか。好き勝手に言い終えると私の様子を見て首を鷲掴み引き寄せる。
「シルティナ? 俺の話ちゃんと聞いてた?」
首が凄い力で締め上げられて苦しい。痛いし、脳に酸素が行き届かなくて真っ赤に膨れ上がって爆発してしまいそうな熱さだ。
言い訳も用意させてくれず何が「愛して」だ。なんで私がお前達の為に心を殺さねばならないのか、むざむざと土足で踏み込まれ明け渡さなければならないのか。
ぼんやりと映る視界で振り絞った力を使い切るかのように獣達を睨みつけると、知覚できない速さに続いて視界はいとも容易く暗転した。
バシャン…、ッ‼!
「ぅ゛あっ…⁉! ごぷっ…n?⁉!」
私の首を掴んでいたオルカの手によって横叩きに水のよく溜まった浴槽の中へ頭を突っ込まれ、耳からの衝撃と鼻から入った水に藻掻き苦しむ。
水圧の影響も受けてか痙攣が引き起こるほどの痛みの中かろうじて保っていた意識もこの状況ではむしろ無用の代物と言えよう。
水面を隔てた光の眩い世界から差し迫る数多の腕が、私の四肢を掴みもぎ取っていく。
真っさらだったはずの水もいつかは血の濁りを不純物として映し胃に押し留められ、私の穢れへと変わっていくのだ。
♪〜、♫♬〜…♬〜
今夜は余程機嫌に触ったのかそのまま首根っこを掴んで床をズルズルと引きずられ、私が通った後の床は大量の水が足跡となって浸っている。
そしてまだ余興と言わんばかりの鼻歌は、軽々しくも私の精神を壊した。
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「イヤァあぁぁあああああぁ゛ッつxつxxt」
ハッ、ハッ…、゛‼!
呼吸音が荒い。自分でもコントロールできないくらいに根付いた心的外傷。一朝一夕じゃ変えられないほど、刻み着いている。
「アルティナ!!! 何があった⁉ 怪我は?!」
ソファで仮眠を取っていたおじさんが駆け寄り、蒼白の表情で私の身を案じている。
だけど私は…、そんなおじさんの存在などまるで見えないかのように過去の幻影に取り憑かれていた。
「…ぃや゛、ィヤ! やめて、おねがいっ。来ないで。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。もう逃げないから、もう逆らわないからッ、おねがい。ゆるして…、っ」
ごめんなさい。ごめんなさい。許して。おねがい。許して。
終わらない謝罪と赦しが続く私の頭には、次に来る痛みを最大限軽減する為の方法に一心を費やしていた。
「アルティナ…?! 駄目だ、目を覚ませ!」
二の腕を掴まれてグラグラと揺らされ、どうにか正気に戻そうとしてくれるおじさん。
そのお陰か夢と現の境界線から、ぼやけた視界に焦点が徐々に戻っていく。恐ろしい幻影からようやく逃れられた時、傍にいる大切な存在こそ私を形留めてくれる。
「ぁ…、ごめんなさい。私、こんな姿見せて…」
どうしよう。今の私の様子を見て愛想でも尽かされたら、面倒だと思われたら…、絶対嫌だ。
自分が声を取り戻しているという事実にも気づかず、おじさんに見捨てられることへの不安に侵されてしまうのはそれだけ必死だったということだろう。
背中が汗でびっしょりと張り付いて気持ち悪さの中熱に惑う。べとべとで、蟲にでも這え上がらせたような感触だ。
こんな汚い姿はおじさんに見せたくないし、私のおかしさを知られたくないと思うのは、それでも贅沢だろうか。
「ひとまず、落ち着いたな。…まずは身体をお湯につけてきてくるんだ。ユディットを呼ぶ」
「ぃ、嫌っ‼ ぁ、…ごめんなさ。でも、お風呂だけは嫌なの…!」
既に就寝時間を過ぎ部屋に戻っているユディットを起こそうと席を立とうとしたおじさんの袖を掴む。
当然今の私に引き止めるだけの力は残っていなかったとしても、すぐに外せるはずの拘束をおじさんは受け入れてくれた。
我が儘は承知の上。私は、ただでさえ正気を失いそうな状態でこれ以上トラウマを刺激するモノを遠ざけたいだけ。
何度も、何度も何度も何度も叩き伏せられ身体に覚え込まされた、水が逆流するまで胃に入っていく感覚に胃液を出し尽くしてまでなくならない焼け付くような痛み。
どれを取っても良い思い出なんて一つもなく、あったのは苦しさと激しい虚しさ。
自分が死んでるのか生きてるのか分からないくせして必ずいつかの間に死んでいる事実を知覚すらできない無力感だ。
仮初と言えど【死】の中に少なからず存在していた数瞬の安らぎさえも奪われ奴らの望むままに藻掻く他ない現実が、嫌という程排他的だった。
水は苦しいモノ。特に浴槽や大浴場へ向かう時は身体が強張って動けなかった記憶がまだ新しい。
色々と壊されはされど、本気で心が挫けそうになったのは決まって水責めを数時間と続けられたときだった。
「ごめんんさい…っ。ごめんなさいッ。ぃやなの……、怖い、から…」
知らず知らずの内に溢れる涙は、自分じゃどうしようにも止められなくて駄々を捏ねる子どもみたいで嫌だ。だけどこうでもしないと、奥歯が軋むような恐怖で気が狂いでもしそうだったから…。
全身に滝のような汗を流す私でもおじさんはそっ…と変わらず寄りかからせてくれるけど、申し訳無さでいっぱいになる。
こんないかにも問題を抱えていそうな人間をおじさんが甲斐甲斐しくも面倒を見るなんて、たとえ自分であっても許せることじゃない。
私の過去が、おじさんの人生において重荷になることなどあっていいことではないからこそこんなトラウマも早く克服しなくちゃいけないのに…。
「お湯に浸したタオルで汗を拭うぐらいは平気か?」
「…うん。それなら、大丈夫」
おじさんは私を落ち着かせるとすぎにユディットを呼びに行ってお湯を絞ったタオルを用意した。
その手際の良さには惚れ惚れするものこそあれど、夜遅くにユディットを起こしっちゃったのはやっぱり申し訳ないや。
一枚の仕切りを挟んだ場所におじさんが行くと寝間着を脱いでユディットに汗を拭ってもらう。先程までのべたべたした不快感が消えるのは何とも爽快で気持ちいい。
タオル、あったかいな…。
ユディットは無駄に詮索してくることもなく、与えられた命令を忠実にこなしてくれるけどその表情からは心配が見て取れるし余計な不安をさせちゃったかな。
ようやく全身を拭き終えたところでお湯とタオルを持ってユディットが部屋を後にし、「もう出てきて大丈夫だよ」と言うとおじさんが仕切りから顔を出し戻ってきた。
「…変に迷惑を掛けて、ごめんなさい。その…、嫌な夢を見てたの。それであんな…」
「アルティナ。無理に隠そうとしないでもいい。お前が構わないのなら、どうか理由を話してくれないか?」
…ずるいよ。やっぱりおじさんはずるい。
そんな優しい声で、心をほどくみたいな言い方で、絶対に私が断れないのを知ってて言うんだもん。
本当は、話したくない。おじさんに嘘は吐きたくないけど、あの九年は私にとって忌まわしい【過去】だ。
自分の醜さが全て詰まっているからこそ、晒すことを躊躇した。でも今話さなかったら、互いに溝が深まってしまうことも分かってるから…。
私は私を隠したくて、おじさんは私を守りたくて、きっとすれ違うのだろう。互いに向ける目線が違うから、いずれは耐えきれなくて崩壊してしまう。
だからちゃんと、ありのままを打ち明けるの。
どれだけ日の目を見ぬ真実が恐ろしくとも、おじさんが私を見放すことなどないと信じてるから…。
【黄金】…オルカ・フィー・アデスタント
【緋色】…ラクロス・フェルナンド
【淡緑陰】…イアニス・フォン・ラグナロクという感じです。




