空腹とお菓子
あれから男は毎日足蹴なく私の元に訪れた。
服装や行動からかなり高い身分にいる人間のようだが、部屋に来てはいつも一定の距離にあるソファに腰掛け眠るか仕事をしているおかしな人間だ。
当然そんなことで私の人間への警戒が解けるはずもないが、最初以降触れることもなければ話しかけることもない男にいい加減腹が立ってきた。
何もしないなら来る必要はないはずだ。ただでさえ同じ空間に人間、それも男がいると思うと緊張と圧迫感で身体へのストレス負荷が大きいのに何もしない故に一挙一動が余計目に付く。
ぐぅぅうぅぅ………xt
それはいつも通り、男が部屋を訪れて数時間が経ってからのことだった。限界まで我慢したつもりが、ふと息を緩めた瞬間にお腹が大きく息をした。
本を読んで寛いでいた男の視線が此方へ向かう。数日振りに視線が合ったが、それは予期せぬことであって一気に羞恥が熱となって身体を火照らす。
ぐぅう…っ、…ぐ、ぅうぅ……
一度鳴ってしまえばもう琴線も切れたのか続いてまたお腹の音が鳴る。先程までは本をペラペラとめくる音しか聞こえなかったのに、今ではこの静寂の中に不釣り合いな人間の生命サインが鳴っている。
恥ずかしくてキッ…と此方を見る男を睨むが、少しの間驚いたような顔をして途端に顔をくしゃくしゃにして声を上げて笑う男。
仕方がないはずだ。いくら少量の食事で生命維持をできる身体だとしてもここ数日間一切何も手を付けていないのだから。
正確には置かれた食事に手を付けてないだけだけど…。何が混入しているか分からないものに手を伸ばそうと思うほど純粋な人間じゃない。
以前のように死なないギリギリでのたうち回るような劇薬が入っていることもあれば一瞬で理性を崩壊させる媚薬が入っていることもある。
毎日何処から運ばれてくるのか朝起きたら朝食が用意され、昼には男が部屋の外から持ってくる。夕方に一度外に出た男が出来立ての料理を運んでくるがそのどれもに口を付けていない。
残された食事はまた男が外へ運んでいき、そのループが続いていた。魔法で水を創り出し水分の補給に困ることはないが、栄養に関してだけは魔法ではどうにもできない。
人間死ぬのに一番苦しいのは焼死でその次が餓死とあったが、確かに眠りに着くことですら最近は難しく空腹感でのたうち回りそうになっている。
男は暫く考え込むような素振りを見せ、一度外に出ていった。男が一緒に運んできた昼食は今日も香ばしい匂いを嗅ぐわせて鼻腔をくすぐる。
よだれが今にも垂れ出そうなのを理性で無理やり押さえつけるけど、一度想像してしまったものはそう簡単にかき消すことなどできない。
余計お腹の音に拍車が掛かり、もはや痛みすら感じる下腹部を押さえてベッドで丸まる。この部屋にいる間ずっと考えていた。これからどうするべきか。
ここを出て行ったとして、いつ奴らに見つかるか分からない。だけど此処にいて安全だという保証なんて何処にもない。
あの暴走で神力の大半を失い、回復する為にも時間が必要だったから留まっていただけ。
人間のいる国でまともに生きていけるとも思わないし、できることなら森や雪山なんかで静かに暮らしたいけど情報に精通する彼ら相手に何処まで逃げ切れるか分からない。
逃げたはいいものの、見事な八方塞がりに溜息が溢れる。
首輪を引き千切って掴んだはずの自由はまるで幻のように今もなお見えない鎖が繋がっている状況に腹が立って仕方がない。
とにかくずっと此処にいる訳にも行かず、しかし行く宛てもある訳が無い。
そもそも誰かが用意した食事が食べられないのならこの先人間の街で生きることも難しいだろう。宿だってこんな調子で取れるとも思わないし…。
…駄目だな。お腹が空くと何にも考える気が起きないや。
そろそろ視界がおかしくなってきた。寝転がっているせいかお腹の音が脳に響き渡ってずっとリフレインしている。
胃は空っぽなのに吐き気だけはするものだから癖も中々治らないものだ。
自分の呆れた様子に苦笑していると、また男が部屋に入ってきた。今度はその右手に何か布袋抱えている。
そしてその布袋をおもむろにテーブルの上で広げる男。
広げられた後、中に入っていたものが露わになるがそれは【聖女】として長年諸外国と付き合いのあった私でも初めて見る形状の食べ物(?)だった。
「東の国からの寄贈品だ。『金平糖』と言って砂糖を固めた嗜好品の一種らしい」
私の?を感じ取ったのか淡々と話す男だが要約すれば「食べ物」であるということだ。塩と同等にこの世界では砂糖の値もまぁまぁ高い。
高位貴族だけが贅沢にコーヒーにシュガーを入れることが出来るというのが相場だろう。
当然私は砂糖なんて口にできたことはない。あるとすれば何年か前に一度だけラクロスに食べさせられたチョコレートぐらいだ。
しかしこれが何だ。まさか食べさせるつもりなのか…。
「毒は入ってない。食べたければ好きに食べていいし気に入らなかったら食べなくて構わない」
そう言って男は無造作にコンペイトウの一つを取って口に入れた。甘いのは好きじゃないんか苦い顔をしながらもう一つと食べる。
……何がしたいのか本当に理解できない。
この数日で私が食事に手を付けないことは知っているはずだ。無理やり食べさせるつもりもないのに何故、こんなことを繰り返すのか。
男は甘すぎるコンペイトウに限界が来たのか三粒程で手を止めた。
そして布の上にひらかれたコンペイトウを残してまた部屋を出る。今度は来る時に持っていた本も一緒に持っていったから今日戻って来ることはもうないのだろう。
数十分待って、男が完全に戻ってこないことを確認してからそろり…と男が先ほどまで座っていたソファ近くのテーブルに移動する。
小さくて可愛い、星屑のような見た目をしているコンペイトウを前に、ゴクッ…と唾を呑み込んだ。心は駄目だって叫んでるけど、もう身体の空腹は限界に近い。
それにこんな数あるものの中から男が毒入りのものを避けて食べるとは考えづらい。見る限り適当に手にとっていたようだし…。
色々頭の中で免罪符を立てて、遂にコンペイトウの山から一粒を掴み取る。そしておずおずと口まで持っていき、パクっ…!と勢いにまかせて放り込んだ。
するどどうだろうか…。空腹で目眩と頭痛に犯されていた私の脳は怒号を上げて歓びを高らかに叫んでいる。自分でも経験したことのないほどの、多幸感に支配され暫くの間固まってしまった。
こんなに美味しいものがあったなんて今まで全く知らなかった。いや、そもそも寄贈品と言うぐらいだから貴重なものなんだろうけど、それでもこんなに食べ物で満たされたのは初めてだ。
一粒食べてしまえば後は同じこと。自制心など等に無くなってしまった私の手はゆっくりとコンペイトウの山へと向かい、帰るときには音を置き去りにしていた。
半分ぐらいを食べ終えるとすっかり私のお腹は満腹となり、今度はあの男にコンペイトウを食べてしまったことがバレないか、どう隠そうかと悩むこととなる。
流石に半分もなくなれば気づくだろうが、こんな美味しいものもう二度と食べられないかもしれないのだからいっそ隠し持っておくのはどうだろうか。
毒がないことも確認できたし、これならば最低限の食料として貯蓄できる。
だがそれでは男にコンペイトウを食べたことがバレてしまう。まるで私がお菓子に屈したかのようでそれは嫌だ。
う〜〜ん…と悩むこと暫くして、やっぱり隠し持っておくことにした。どうせ半分も食べれば明らかに量が減っていることに気づくだろうしそれならば全部食べても同じことだ。
断じてコンペイトウが気に入った訳とかではない。うん、そうだ。
そう自分を納得させてこっそりと枕元にコンペイトウを包んだ布袋を忍ばせ、今夜は甘いお菓子が沢山並ぶ良い夢の中眠りについた。
チョコレートは前世のシルティナですら知っていましたが金平糖は知らない設定です。病気になって糖質を含むお菓子は規制が厳しく幼い頃に食べた数少ないものだけを覚えています。
金平糖にシルティナがあれ程魅了されたのは人間脱水の症状や飢餓のときほど糖分をより美味しく感じるので多分ドーパミンの影響がエグいせいです。
大体警戒心の強い子供を手懐けるにはお菓子が一番ってね(*^^*)